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まごころつれづれ草【2】

 

28】08年9月16  御意見や御指摘へのお礼

29】08年9月17  大人が青少年に学ぶこと(人権作文より)

30】08年9月17  保護者が立ち上がらなければどうなるか? 

31】08年9月17  「守秘義務」とは!?            

32】08年9月18  C2教頭殿   

33】08年9月18  土居中3年生の皆さんへ 

34】08年9月19  「信じている」の反語は

35】08年9月20  遊びから真理へ

36】08年9月21  坂本竜馬とわたしたち

37】08年9月22  精神世界の常識と日常世界の非常識

38】08年9月23  映画『学校』…「幸福って何?」

39】08年9月24  人間の尊厳と、死刑

40】08年9月24  『忍び寄るネットいじめ』(愛媛新聞)より

41】08年9月25  映画『学校V』を見て…愛媛県のための映画

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【28】御意見や御指摘へのお礼

 

今回は、友の会に、貴重なご指摘を下さった、お二人の方へのお礼を申し上げたいと思います。

 

 

昨日早朝に、SHIMINさんが、大切な大切なご指摘をくださいました。これは、音声入力ソフトで直接このファイルに入力していたところ、動きが遅くて、そして突然パソコンの電源が落ちてしまったのです。自動修復機能により、入力していた内容は残っていたのですが、リンク先が全部狂ってしまっていたのでした。

本当に、ご指摘をありがとうございました!!

さっそく、ページの中のすべてのリンクを新しく張りなおしました。

おかげさまで、本当に助かりました。

 

 

 

 

 

「疑問を持った一人さん」へ。

どうも、ご指摘をありがとうございました。

 

[ サイトへの掲載の希望の有無について ]が「不要」になっているので、

あなたが下さったメールを掲載できないのが残念です。

 

音声公開の件ですが、私たちは、これは封印してきたものでした。

聞く人が聞けば誰の声だかすぐわかるし、生徒が聞くとショックを受けるだろうし、またその音声の持ち主の方のことを考えても、最後の最後まで出すべきではないと考えておりました。

 

 

しかし、今土居中が続けていることは昨年度多くの生徒や教師をつぶしてきたことと同じことであり、新たな被害が生じつつあることの危機感を持ったので、公開した次第です。

 

内容は、超重要級のものです。

 

あなたがご指摘してくださったとおり、聞き取りにくい部分が多々あることは、そのとおりです。

 

あまりこちらの手の内は明かしたくないのですが、今回浅井と私の二人で、この作業をやってみました。

大きなファイルサイズはアップできませんでした。それで、少しずつに分けてアップしました。

また、音声については音量を2倍に上げて、ノイズの大きいものにはノイズリダクションをかけるにとどめ、それ以上の音質の改善はいたしませんでした。

 

そういうわけで、私たちも、本当はもっと扱いやすく、誰がやっても、ボタンひとつではっきりわかるものを出したかったのですが、今現在では、ここまで、ということになります。

 

どっちみち、ソースファイルは間違いなく存在しますので、彼らが否定・反論しても、いずれは、完全なものを出すでしょう。

 

101日の予定を繰り上げたので、少々お聞き苦しかったり、扱いがうまくいかなかったりする場合があるかと思いますので、また、改善版が出るのをお待ちください。

 

 

 

 

ただ、ここで皆さん、私たちの願いをお聞きください。

 

本質は何かというと、うつ病からの復帰途上者へのパワハラ事件、複数の幹部教師による生徒イジメ事件があったという事実です。そして、それは繰り返されるようなことがあってはいけないということです。

 

しかし、リリアさんや桃子さんの必死の訴えがありました。おそらく、書き込みはしてないけれども、多くの子供たちの声だと思います。

「今、H先生が危ない!!救って!!」という…。

 

 

彼らが、昨年度犯してしまった過ちが繰り返されるようなことは絶対にあってはなりません。

私たちが音声公開に踏み切ったのも、それに対する警鐘です。超赤信号の警鐘です。

 

今必要なことは、完璧な音声ファイルなのではなく、彼らが、昨年度犯してしまった自分たちの過ちを認め、反省し、謝罪して、今後絶対に繰り返さないという約束をすること。そして、学校運営を根本的に変えること。誰もが安心してものを言い、安心していることのできる場にすること。これが、もっとも大切なことなのです。

 

それができるならば、実はあの音声はサイト上からは削除したいのです。

 

 

このサイトは、『まごころ教育』と名前をつけました。

 

土居中学校が、本当に改善され、まごころを基とする教育が行われるようになれば、このサイト自体が、そのような方向へ変貌していくものと思っています。

 

矛盾するようですが、私たちは、「疑問を持った一人」さんがご指摘くださった点をクリアすべく努力いたします。

同時に、彼らが、昨年度犯してしまった自分たちの過ちを認め、本当に反省し、謝罪して、今後絶対に繰り返さないという約束をして、音声を削除できることを願っています。

 

 

 

今回は、お返事を書くと同時に、すごく微妙な点について書いたので、私たちの意図が十分にお伝えできたかどうかわかりません。

その点はご容赦ください。

貴重なご意見を下さったことを感謝いたします。

 

 

 

 

 

平成20年9月16日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【29】大人が青少年に学ぶこと(人権作文より)

 

うれしいことがあった。朝3時に起きてメールチェックすると、Zodiackさんからメールが来ていた。人権作文を添付して送ってくれた。それに至る経緯はそちらのページに詳しく書いたのでここでは省略する。

そちらは書かなかったことで、大切なこと一つ書きたい。

これは、四国中央市の東の方の高校の、一高校生が書いたものである。学校に提出する人権作文なのである。さてこれを読んでいて最初に感動するのが3行目の()の中。

 

>正直コレを今書いている自分が叩かれるのではないかという恐れはあるが、このサイトを見て人権作文に書かなければならないと思うので、書く。

 

どうだろうか。私がまずこの部分を何度も何度も読み返した。そしてうれしかった。このような勇気ある若者が入ることがとてもとても嬉しかった。学校に提出する作文にこれから展開していくことを書く―それはまごころサイトというサイトで実際に土居中であった話である。そうすると、それを書くことによって、もしかしたら自分の身が危険にさらされるかもしれない。敏感にそのように感じられたのである。

 

ここで立ち止まって、これを読んでいるすべての方に、考えてみてほしい。自分ならどうするだろうかと。

まず、まごころ教育を読んでも何を書こうとも思わないかもしれない。そうすれば葛藤も起こらない。つまりそれは戦場で人が殺されていくのを見てもびっくりしなくなるようなものである。それだけ、ひどい現実にさらされて、感覚が鈍感になっていることだと言える。

 

次にまごころ教育を読んでこれはひどいと思った人。あなたが高校生だったとして、あるいは同和教育推進者養成講座に出ているとして、あるいは新規転入教職員研修会に参加しているとして、そこでのレポートにこのような内容を書くことができるであろうか。

 

身の危険。そうなのである。そこには危険が降りかかってくる恐れがあるのである。このことをまず皆さんに自分のこととしてとらえて読んでほしい。

 

Zodiackさんは、まず自分の心の内に起こったその恐怖心との闘いからこの人権作文を書くことをはじめたのである。

Zodiackさんは、さらにもう一度書いている。

>できれば市や県にどうにかしてほしい問題だ。また、この主題はまずいから直せといわれても直す気はない。

 

書き直せと言われても直す気はない!と断言している。

おそらく、Zodiackさんは、まごころ教育を読んだ時に、その不合理な現実に憤りを覚えたのだと思う。

憤り。…自分のための怒りではなく、世の中に不合理なことで苦しんでいる人がいるというその事実に対する憤り。これを公憤と呼ぶ。

 

したがって、Zodiackさんが、まごころ教育について書こうと思ったその時、すでにZodiackさんは、

自分の身に危険が降りかかってくる恐れ

というものは、簡単に超えていたのであろう、。

 

そして、Zodiackさんは、人権作文を書き上げた。書き上げて提出した。本当に、正義感溢れる作文である。すべての大人が、Zodiackさんの心意気に学ばなければならない。

 

具体的に少し引用してみよう。

土居中の人権集会についてZodiackさんは、

>何が人権なのか。ふざけている。あまりにもひどい。

と上から下へ一刀両断する。さらに主犯格6人(C1〜C6)についても、

>何が教師だろうか。とっとと辞めてしまえ。(自分から辞めてしまえば退職金が出るな、「辞めさせられてしまえ」が正しいか。)脅しをかけ周りから追い詰めるようなやり口はヤクザと変りないか、正当とまでは言わないがまだましな理由がある分ヤクザの方がましではないか。

と、今度は右から左へ一刀両断する。

真一文字に見事なまでに鮮やかに斬りつけ、最後にこうまとめている。

 

>このような多くの人々に迷惑をかけるような財は即刻排除願いたい。一段のことについて謝罪もしていないのに堂々と過ごしている奴らは要らない。

>長くなったが、最終的に土居中が第三者からみて正常域まで治り、上記の元・現教師共が公式に謝罪すれば問題ないと思う。

 

 

いかがであろうか。見事なまでの正論である。

 

これが、立ち上がるということである。元2‐3生徒さんと言い、一卒業生さんと言い、そしてZodiackさんといい、中学生や高校生がこれだけの立ち上がりを見せてくれているのに、大人がただ何もせずにいていいというのだろうか。

 

では、大人が立ち上がるということは一体何をすればいいのだろうか。こう改めてそのことは別に考えてみたい。

 

このような青少年が入ることを、私は誇りに思う。

そして、大人だから、生活がかかっているから、といったようなしがらみにとらわれず、彼らの純粋な心に負けないよう生きてきたいと強く思う。

 

Zodiackさん。本当に、ありがとうございました。

 

平成20年9月17日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【30】保護者が立ち上がらなければどうなるか?

 

この間から、掲示板に、リリアさんと桃子さんの悲痛な叫びが書き込まれています。

二人とも、自分のことを心配しているのではなく、今現在土居中学校でいじめの標的になっている保健の先生のことを心配しているのです。

この、悲痛な叫びが、皆さんの胸の奥のどこまで響いてくるでしょうか。

 

今から重要なことを2点言います。

 

まず1点目は、土居中学校のいじめは、C2教頭を中心として組織的に行われているという点です。従って、現時点では、目をつけられたが最後、殺られるしかありません。C2教頭は、大変悪質で陰湿で危険な人物です。

先日、彼らの陰の会話を公表しました。このような形で陰で幹部連中と悪口を言い合い、そして実際に学校組織の中でそれを動かしていくのです。

つまり土居中学校の中においては、公然といじめが行われているのです。まさに悪の犯罪中学校と言えるでしょう。

このような中学校が、その悪の張本人が何の処分も受けずにのうのうと実在しているということ、そのことは、時代の遅れを感じさせます。21世紀になったとはいえ、まだまだ日本人の人権感覚が遅れているのです。セクハラといえばすぐに逮捕される時代になりましたが、パワハラや生徒に対するいじめについては、C2教頭のようにやればごまかせる。告訴とか被害届とかそういったねずみ花火で目くらまし(時間稼ぎ)をして、その間に本質を隠してしまうという卑劣な手口です。

それが少なくとも2008年9月現時点での土居中学校の悲しい現実です。

 

ところで、なぜ土居中学校で毎年のようにいじめのターゲットを作り被害者を出してしまうのでしょうか?

不思議に思いませんか?

実は土居中学校の同和教育のポリシーがそのようなものになっているからです。敵と味方を作り出して、敵を攻撃する。そのことによって土台を成り立たせている。これが土居中学校の教師が作り出している同和教育の姿です。敵がいなければ成り立たない仕組みなのです。

 

 

つぎに、2点目を言います。

リリアさん桃子さんの悲痛な叫びを思い出してください。

土居中学校では、去年1月16日にA教諭が彼らの罠にはめられました。すなわち、生徒を守ろうとしてゴタゴタに巻き込まれ、勝手に警察を呼ばれるという事件。

管理職に断りもなく勝手に警察を呼んだC3教務は処分を受ける対象です。その時のC1校長と現C2教頭も処分を受けなければなりません。

ところが被害届を出すということでねずみ花火を躍らせ、肝心の処分の方は目くらましして、その間に陰に隠してしまいました。

そして彼らは当時の市教委の河村敏和旧次長とグルになって、A教諭を不安障害発症に追い詰めます。

こうして、A教諭は倒れました。彼らは被害届を出すために、嘘のシナリオを作って、その場にいた教師に無理矢理偽証させます。こうして幹部以外の教師も巻き込んで総ぐるみで警察に嘘をつくのです。そこまでしてA教諭も土居中から抹殺しました。

 

その1月16日その事件の真っ最中に、目の前でA教諭と石川修二教諭のゴタゴタを見ていた養護教諭が、ただ一人、8カ月間最後まで真実を主張し続けます。A教諭が潰れたあと、C2教頭の牙は養護教諭に向けられます。そして、今度は養護教諭がターゲットにされて、土居中学校の組織的いじめを受けることになるのです。

 

教師集団がいじめ集団である。

教師集団がいじめ集団である。

教師集団がいじめ集団である。

教師集団がいじめ集団である。

教師集団がいじめ集団である。

 

どうして、地域の学校がこのような恐ろしい異常な学校であるということを知っても、地域の人々から「何とかしよう!」という大きな声がかからないのでしょうか。

 

私は不思議です。何人かの志ある人たちが動いていることを知っています。皆さんも知っていますね。けれども、その他大勢の皆さんは、なぜ立ち上がらないのでしょうか。

不思議です。

不思議です。

不思議です。

不思議です。

 

土居中保護者の皆さん。

皆さんはお判りでしょうか。養護教諭の先生が、自分を盾にして生徒たちを守ってくださっていたこと。最初に述べましたように、土居中学校は、誰かを必ずいじめのターゲットにすることでその同和教育の体制を維持しています。このことと合わせてよく考えてみてください。

 

去年は河村教諭(A教諭)が生徒を守ろうとして倒されました。卑劣なやり口によって。今年は、生徒たちが大変心配している通り、養護教諭の星田先生が今まさに危機にあります。

集団組織の中で、次々といやがらせを受け圧迫を受けるということのストレスの大きさは、戦争時に匹敵します。それを8カ月間で続けてきたということは、限界に近いのです。

 

土居中学校の保護者の皆さん、まだ他人事だと思いでしょうか。

 

養護教諭の星田先生がもし倒れたら、どうなるか分かりでしょうか?

生徒たちを守っていた楯がなくなります。

 

そのときには、C2教頭は、組織的に次のターゲットを見つけるということです。同和教育の名の下、必ず誰かターゲットを見つけます。そして、その人物を攻撃することによって「成果があった」と年度末に発表して天狗になります。こうして自分の出世の道具を次々と作るのです。今年は、ゆるさんど行進が失敗に終わっていますから、最低でも2人は各学年でつるし上げるつもりでしょう。

その人物は、保護者です。生徒を使って、同和教育について親の声を聞いてこいと宿題を出します。そして不完全な答えを出した親をターゲットにします。それについてどう思うかましみずに書かせ、それを学級通信にして配布し、ターゲットにされた親は参観日に出席して「自分が間違っていました」と言わない限りは、次は地域でいじめられるようになります。

 

いいでしょうか。標的の保護者をつるし上げる道具は生徒です。生徒を洗脳します。しかし必ずその洗脳をおかしいと見破る生徒はいるのです。そして悩みます。その悩みを誰かに聴いて欲しい。でもどの先生にも聞けない雰囲気がある。そこで生徒たちは保健室にきます。そうして気持ちを聞いてもらいます。こうして守ってもらえていたのでした。今やそういう生徒は大勢いると考えられます。それが正常なのです。

 

星田先生はどれほど大きな役割を果たしてくださっていたことでしょうか。この泥沼の暗黒のような土居中の中で。もし、星田先生がいなくなったら、生徒たちは精神を正常に保つことは難しくなるでしょう。そして、そんな中で何とかうまくやっていくためには、自分を偽って、権力にこびへつらうことを覚えるしかなくなるでしょう。この前の項で紹介したZodiackさんという高校生の人権作文を、もう一度よく読んでみてください。あのようなしっかりとした健全な主張ができる精神の自由を、土居中生は犠牲にするしかないようになるのです。

 

危機です。

大きな危機です。

星田先生ご自身がいつまで持つかという、危機です。

精神の自由を守ってくださっていた最後の楯が倒れるのは時間の問題。

 

危機です!!!

 

 

私は、このような状況をきちんと認識したうえで、保護者がみんなが立ち上がることが必要だと思います。今年はそのためのシステムも整備されています。どうにかしたいんだと思った場合、青木議員に連絡するか、まごころ教育を通してランさんに連絡する。これで秘密裏に横のつながりができます。保護者と生徒が気持ちを一つにして同時に立ち上がると、一気に数を2倍にできます。父親と母親両方が立ち上がると3倍になります。教師をせいぜい40人にすぎません。圧倒的な数で包囲して、彼らが線香花火脅かして後ろに隠してしまった彼らの悪事を、皆さんで追及してあげるべきなのです。

 

奇しくも昨夜、[1339] 土居中出身です  投稿者:OG さんの書き込みが入っています。OGさん貴重な書き込みをどうもありがとうございました。

 

今、保護者の皆さんが、黙って息をひそめていれば何とかなる、ともしも思っているとしたら、それは間違いです。無事卒業したとしても、土居中のとことん間違った同和教育を受け、いちばんいい先生がいじめによって倒されるのを見た子どもたちの心の傷は一生残るでしょう。

保護者の皆さんが、立ち上がることが必要です。

 

平成20年9月17日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

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【31】「守秘義務」とは!?

 

先日の9月12日の保護者会で、土居中は「守秘義務」という言葉を武器として養護教諭を攻める、そういう手の内を明かしました。

実にお粗末な手です。

 

昨年度は、彼らはA教諭を「病気休暇強制取得命令」で攻めました。

 

この狼たちは、ターゲットの最も弱いところを攻めてきます。

 

そこで、この「守秘義務」という言葉が正しくは何を意味するのか、それをここで押さえておきたいと思います。

 

 

[事例1]

昨年度、転校を余儀なくされたBさんの親から、当時3年学年主任だったC4教諭は、学校を休んでいるBさんがどのような生活をしているか聞き出します。もうすでにそのころ、Bさんは幹部教師集団のイジメによって、朝おきて学校へ行かなければいけないと思うのだけれど、学校へ行けないという状態に陥っていました。

その苦しい状況が分かるでしょうか。もう入試も近い。学校へ行かなければいけない、そう思います。けれども学校へ行ったら、幹部教師集団から無理矢理教室へ行って授業に出ることを強制されるのです。自分はすでにそれができる状態ではない。こうして彼は、学校へ行けなくなっていました。

 

そのころ、彼の友人がいました。その友人もとても性格のよい、気だての良い、男気のある少年でしたが、校則を守らないという理由で学校へは入れてもらえませんでした。Bさんは、この友人のところへ行くようになります。Bさんは、「この友人と話している時だけ心が落ち着いた」と言います。

 

さて、C4元3年学年主任は、Bさんが彼のところへ行っているという情報を得ました。そして彼はどうしたでしょうか?

 

ここでひとつ説明しておかなければならないことがあります。彼ら幹部集団は、更衣室を勝手に自分たちの専用ランチルームにして、給食をそこへ持ちこんで食べていました。

彼らの専用ランチルーム、別名悪口ルーム。あらゆる人の悪口を言い合います。これは非常に重要なことなので、また別に口を起こして書くことにします。

 

C4元3年学年主任は、この専用ランチルームで、Bさんが彼の友人のところへ昼間行っていることを、他の3人の教師に漏らします。そして(けな)し笑い合うのです。

(いずれその内容はお知らせするでしょう。しかし余りにもひどすぎて、今はとても書けません。)

 

職務上知り得たBさんの秘密。それを、彼は悪口ルームでいとも簡単に他の教師に漏らし、Bさんの苦しい気持ちなどは考えもせずに、みんなで笑い合いました。これが教師のすることでしょうか。なんという残酷なことでしょうか。

 

 

 

 

[事例2]

ではこれとは逆の別の例を挙げてみたいと思います。土居中学校は、先の項でも述べたように、異常な同和教育を土台としている学校です。そして教師集団がイジメ集団を形成しており、悪いと分かっていても見て見ぬ振りをしなければならない。そのような異常な場所です。そんな学校で、職員会が開かれます。そして「意識統一」という言葉のもとに、全教職員が同一歩調で歩むことを強制されます。

 

この職員会は、民主的なものではありません。上意下達で、結局幹部連中の思ったように承認させるためのものです。ですから反対意見を唱えれば、高橋敬敬教務主任などが大声で恫喝します。

 

大変問題なのは、先ほど述べた悪口ランチルームでC2教頭が言ったことが、そのまま幹部連中を通して学年会におろされ、また企画委員会で承認され、さらに職員会で無理矢理決定されるこのようなシステムになっているのです。

 

普通の人なら、この順番を聞いたときにたいへんおかしいとお感じになるはずです。学校の最高組織は企画委員会のはずです。なぜ先に学年会におろされるのでしょう。それは、教師の学年団編成にあります。昨年度もそして今年度も、3年団に幹部連中すべてを集めています。

 

ですから、悪口ルームでの会話が、そのままストレートに学年会におろされればストレートで通ってしまうのです。

 

こうしてみると、土居中学校は、今見かけ上は落ち着いた学校として機能しているように思われますが、実はもうその内部は、すでにシロアリにかなりやられている状態だと言えます。

 

チェック機能が一切働かないのです。

ある危険な人物の独裁体制。最も危険な体制、これが今の土居中組織です。

 

 

さてそこで、この最も危険な人物がとんでもないことを言い出したとします。そしてそのことは、直接にせよ間接にせよ、最終的には生徒に悪影響を及ぼすことが考えられるとします。さあ、どうすればいいでしょう?

 

もう今ならお分かりだと思いますが、土居中で最も危険な人物はC2教頭です。その隣に、危険同和思想で凝り固まった、有名な暴力教師C3教務が教頭の座を狙って座っています。須山校長は、この二人を指導する力はもはやありません。そして、C2教頭の周りに、幹部教師連中が集まっている。

 

さあ、どうしたらいいのでしょう?

直接または間接、最終的に生徒に悪影響がもたらされると考えられる。そのことを仕方がないといってほっておいていいのでしょうか?

 

答えは一つしかありません。

生徒に、その事実を知らせてあげることです。インフルエンザにかからないように前もってインフルエンザワクチンを摂取してあげるようなものです。

 

さて、この場合、職務上知り得た秘密を漏らしたというべきでしょうか?

 

答えは否です。教師としてやるべきことをやったのです。

 

A教諭は、昨年度1月にBさんを救うために、「教師集団の中にイジメがある。自分はイジメられてきた。Bさんも同じように今先生からイジメられている。」ということを生徒に打ち明けました。自分のためではありません。自分がパワハラを受けてきたのと同じようにして、今度はBさんがイジメられている。その現実を何とかしなければならない。「同級生のみんな、Bさんを助けてあげてくれ!」と。

 

守秘義務違反だと思いますか?

 

守秘義務。一体何のための守秘義務でしょうか。一体誰のための守秘義務でしょうか。学校においては、生徒のための守秘義務なのではないでしょうか。

 

今、土居中学校は全国一異常な学校であることを、もう一度念を押してお伝えしておきたいと思います。

 

そのような中では、どのような情報が生徒にとって必要であるか?どのような情報が自分を危険から守ってくれるものであるか? 生徒の立場に立てばすぐわかることですよね。

 

昨年度1月17日に、河村教諭(A教諭)が倒れることがなかったら、学校は、「被害届」とそしてさらには「守秘義務違反」を持って河村教諭を総攻撃したと思われます。

転校させたBさんのことは後ろに隠しておいて…。

 

 

 

この項の結論を申しあげます。

 

養護教諭の星田先生は、守秘義務違反などは決して行っていません。

そのようなことを言う輩がいれば、その輩をじっと見てください。そいつが狼です。狼が自分の餌を逃すのを邪魔されて怒っているにすぎません。

 

どうぞ、この保護者会で、養護教諭の星田先生を「守秘義務違反」なぞという《土居中特性造語》で陥れようとした輩は、星田先生にお謝りください。

 

 

 

※     ※     ※     ※    

 

それと最後に、C1’校長先生。私は率直に申し上げて、依願退職をお勧めいたします。ヤツラに担がれて悪事を働いて教師生活を閉じるのは、あまりにもさびしいでしょう。

 

昔、黒田をガーーンとやったように、あのときの気迫で、ヤツラの悪事をすべて明かしてあげて、そして、年度途中でもいいではありませんか、依願退職するのです。

間違ったことをして、死ぬ間際まで後悔(死んだ後も)するよりは、あなたには校長という重たい責任があるのですから、ここで、人生の本気を出されてはいかがですか?

昨夜書き込みをされたOGさんが言っておられましたね。あなたはやんちゃな生徒たちに人気があったと。

 

他のC2教頭はセクハラ(イヤラシサは今も同じ)、C3教諭は暴力(弱い犬ほど吠える)らは、昔からそうだったのです。

 

今わかりましたが、C3教諭が暴力好きだったから、伊予三島市立西中学校を生徒の対教師暴力で警察を導入して炉心溶融に導いてしまったのではないですか?つまり、あなたの人生における「暴力」とのかかわりが、これまで、ずっと一本の糸でつながっていますね。A教諭に対して校長に無断で警察を導入したのもあなた。

あなたも早く依願退職されて、どこかのお寺に入って修行を詰まれたほうがいいと思います。

そのうち檀家の人をみな巻き添えにして滅ぼすことになりますよ。

 

 

篠崎教頭には、残念ながら、かけてあげる言葉がありません。

 

平成20年9月17日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

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【32】C2教頭殿

 

拝啓

C2教頭殿

 

昨日は、「あなたにはかけてあげる言葉がありません」と終わらせてしまいました。校長、教頭、教務という学校の3大要職につく3人のうちの2人にだけ声をかけて、教頭のあなたに声をかけないのは、あなたを無視したことになりますね。無視は愛情の反対。

 

反省した私は、今日は新たに心をこめて、一筆さしあげることにいたしました。

 

 

遥かな眼差しで、ご自分の人生をまっすぐに見てみてください。この世であなたに残されている時間は、あと何十年でしょうか。どんな人にもその「旅立ち」のときはやってきます。あなたが次の世界に向けて旅立つとき、この世での一生を、スクリーンで見るように見て振り返ると言います。さて、そのとき、あなたは今現在あなたがやっていること、あなたの生き方をまっすぐに見て、どんな気持ちが起こるでしょうか。

 

「大きな団体が土居町全体を支配し、その団体の勢力の一部として絶対的な権力を持っている」と勘違いしているあなた。

けれども、実際に、これまでその勢力がやってきた強引な闘いのやり方で、さまざまな事は成っていった。だからそのやり方を続けさえすればこれからも自分は安泰である。そう信じきっているあなた。

 

この大きな団体の勢力は、部落と部落外の間に線引きをし、一方が片方を敵とすることによって「闘い」なるものを生じせしめ、そうして、その「闘い」を活動源として成り立っている。

20年前は、そのような闘いが必要だったのかもしません。

 

大切なことは、常に透き通った眼差しで現状を見つめ、それを自分にフィードバックし、変化していく世界情勢に合わせて自分たちの行動を変化させていくこと、すなわち、自分自身が変わっていくこと。

 

ところが、あなたたちは、その大切な作業を怠ってきました。

いいえもっとハッキリ言いましょう。C2教頭、あなたはその大切な作業を怠ってきました。

教員生活20年間の中で19年間土居中に居座り続ける。そして、土居中を、あなたが支配する特殊な空間にしてしまいました。教師は自由にものを言えない。あなたに都合の良いことだけを組織的に生徒に押し付けていく。結局最終的に生徒が被害者になるのです。そのために、あなたおよびあなたと同類の勢力が使うツールは沢山あります。

 

しかし、それらを今ここで全部言ってあげる必要はありませんね。なぜならあなた自身が一番よく知っているからです。

 

私があなたに忠告してさしあげたいのは、あなたには今変わるチャンスが来ています。『まごころ教育』は正にそれです。「良薬口に苦し」ということわざを知っていますね。『まごころ教育』が世に出てから、あなたたちは常にまごころ教育を消そうとやっきになってきました。

 

いいですが、最も大切なことを言います。あなたが一番いやがっているこの『まごころ教育』。それが今あなたにとっていちばん必要なものだということです。ここで訴えていることをよく受けとめてください。そうすれば、あなたは本当に変わることができるでしょう。

 

今日はここまでにします。

 

しかし私たちは、土居中で最悪の危険な人物がC2教頭であることを認識しております。あなたが自分で変わろうという意思を見せない限り、私たちはまだまだこれからあなたに対してメッセージを送っていかなければなりません。本当に変わろうという気持ちがおありなら、まず、あなたに対して出した『公開質問状』にお答えください。

 

 

なお、守秘義務についてですが。

 

地方公務員法の第34条【秘密を守る義務】

@         職員は、職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も、また、同様とする。

 

A         法令による証人、鑑定人等となり、職務上の秘密に属する事項を発表する場合においては、任命権者(退職者については、その退職した職又はこれに相当する職にかかわる任命権者)の許可を受けなければならない。

 

 

B         前項の許可は、法律に特別の定めがある場合を除く他変わることができない。

 

校長しか知り得ない機密事項を、C2教頭、あなたが一部の教職員にもらしたこと、これも守秘義務違反です。

 

 

 

 

 

 

もう一つ、信用失墜行為の禁止についてですが、

 

第33条【信用失墜行為の禁止】

職員は、その職の信用を傷つけ、または職員の職全体の不名誉となるような行為をしてはならない。

 

 

これにも、あなたは大違反していますよ。

 

まず職権乱用罪(刑法193条)、脅迫罪(刑法122章)、強要罪

(刑法223条)などに該当する行為。

 

いかがですか。1月16日に、職員同士の内輪もめがあったとき、Hrada議員を学校へ呼び込んだこと。3学期に異動希望を出している教師に異動させないと脅したこと。1月16日に校長がいたにもかかわらず「いなかった」と証言するよう、その場にいた教師全員に強要したこと。

 

 

 

平成20年9月18日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【33】土居中3年生の皆さんへ

 

エイトマンさんが、あなた達にメッセージとして書き込んだ書き込みを覚えていますか。全文引用さしてもらいます。

 

 

[1338] 土居中3年生のみなさんへ  投稿者:エイトマン 投稿日:2008/09/16(Tue) 21:39

去年、あなたたちの先輩、そう3年3組の先輩たちが立ち上がったのを知っていますか?
私はそれを聞いて知り、感動しました。

 見事な組織力、団結力でした。
 総合の時間に、聞き取り学習のとき、リーダー格のS君が立ち上がって
「おいちゃん、差別はいかんゆうけど、土居中の先生の中にイジメがあるのはどういうこと?」
と発言します。これを聞いて真っ青になったのは、副担任(?)として入っていた幹部。
「そんなことないじゃろう?」
 女子生徒が
「いえ。あるんです。」
「どんなイジメがあるん?」
 後ろに幹部がいるのだから、「ここでは言えん。」
「ほんならオイちゃんに手紙書いてくれ。書きたい人は何人おる?」

 すると…!

 クラス全員の生徒が手を上げたのです!
 いいですか?クラス全員の生徒がですよ。

 これを聞いたとき、私は感動しました。これだけの団結力、組織力を作り上げれるとは!!


 それはA教諭へのイジメがまだ表面化していない(つまり学校側は隠し通せていると思っている)時でした。

 学校側は、目玉が飛び出したます。

 しかし、そのあと、転勤して出て行った元3年1組担任篠原雅代教諭が中心になって尋問を始めます。入試前だというのに、毎日残されて、「それを誰から聞いたのか言え!!」とアメとムチで攻められます。

 そして、白状させられたという心の傷を負わされたのでした。

 けれども、この闘いは3年3組の団結力の勝利です。合法的に、これまで絶対に生徒にはばれないように巧妙に隠してきた極秘事項(土居中教師集団がイジメ集団であること)をスッパ抜いて、たたきつけたのですから。

 去年の3年生が、A教諭がいじめられているという情報を知ったのは、2学期最終日〜3学期最初にかけてです。それから1月の終わりの1ヵ月後に、この輝かしい渋染め一揆現代版は決行されたのです。

 保護者が情けなくても、一番強いのは生徒の団結力です。今の3年生にも優れたリーダーがいると聞いています。すでに先輩が、少ない情報の中であれだけの偉業を成し遂げたという事実がある。今年3年生の皆さんは、もっと早くからまごころ教育やさまざまな機会に、学校側のウソを見てきました。情報量においては去年の3年生よりはるかに有利です。

 皆さんが動いてXデーをつくることが一番早いでしょう。

 

 

さて、この書き込みがあった後、大阪府の中学校教師( [1325][1332] )さんからメールがありました。それは、「掲載不要」になっているのでここでは紹介できませんが、内容は、

「エイトマンさんの書いておられたことは本当なのだろうか?」

という質問でした。

私達も、この事実に関する情報は早くから手に入れておりましたので、「すべて間違いない」と答えました。

そうすると、大阪府の中学校教師さんは、大変感動されて、

「愛媛県にはすばらしい中学生がいる。その伝統を失わずに、今年もぜひ引き継いでほしい。」

とメールに書いてきました。

「直接書き込みをしたいのだけれども、愛媛県外からあおぐようなことを書いて、無責任なことになってはいけないのでまごころ教育の方から、その気持ちを土居中3年生に伝えてほしい」とのことでした。

 

このように、権力にひるむことなく団結して立ち上がるということははるかな時間と場所を超えて人々に感動を伝えるのです。エイトマンさんが、渋染め一揆の現代版と書いておられますが、渋染め一揆については、集まりんしゃいの掲示板で、服部平治さんが詳しく書いておられました。このころ差別されていた人々は、たとえ自分たちは我慢できても後世の人々が苦しい思いをすることを許せなくて、立ち上がったのです。電話も何もない時代に、大庄屋の目を盗んで、情報を伝え合い、そしてあの日の朝の河原に集結したのでした。しかし、嘆願書を渡すということで一揆は見事な成功を収めますが、その後責任者を12人、監獄へ入れられます。それが当たり前の時代でした。

 

 

私は、去年の3年3組の皆さんの立ち上がりを聞いたとき、本当に渋染め一揆を思い出しました。「学校の教職員内部にイジメがある」ということを学校外部に合法的に訴えたのです。

なんと見事な立ち上がりでしょう!

けれども、その後、学校側からは厳しい尋問の弾圧。

(これ、信用失墜行為ですよ!!!去年の3年生は堂々と訴えて、土居中学校を告訴してください。)

 

去年の3年3組の皆さんは、そして3年生の皆さんは、誇りを持ってください。あの腐敗しきった土居中の弾圧体制のなかで、見事な闘いを成し遂げたのです。

 

大阪府の教員さんが驚いてもらいましたが、私は土居中生には潜在的にそのような力があると思っています。おそらくそれは、赤星山や二つ岳、赤石連邦そして燧灘などに囲まれた土居町の美しい自然が、皆さんの知性をはぐくむ土壌となったのだと思います。

 

また、皆さんが小学校の時から受けてきた、間違った同和教育のなかで、矛盾を敏感に感じ取っていたのだと思います。20年間で、時代は大きく変わっています。学校が20年前と同じことをしていたのではいけないのです。皆さんは土居中学校の中にある矛盾を、しっかりと見抜く目を持っていたのです。

 

 

もうひとつ、リリアさんの書き込みを引用させていただきます。

[1310] ゆるせない!  投稿者:リリア 投稿日:2008/09/14(Sun) 02:32

 

 

 

許せない!!許せない!!許せない!!許せない!!

わたしたちの大切な保健の先生を、夕べの保護者会でどうして守ってあげなかったのよ!?

わたしが許せないのは、もちろん土居中の教師たち。それとPTA会長。よくも、言ったものだわね!
私は、はじめから『まごころ教育』は真実を語っているって、直感で感じていた。それを、そうよ2月だったわね、大慌てで告訴したとか何とか、C1が言ってたわね。あれから、ずーーーーっと、土居中教師のウソは続いていた。
そして、最近は発情期のブタみたいに見境なしネ。とにかく人を集めて、なにやらの会って名前をつけて、要は気に入らない人をつるし上げているだけじゃない?

星田先生は、わたしたちが体調悪いときに、すぐにそばによってきてくれてわたしたちのことを第一に考えてくれたわ。土居中にほかにそんな人がいた?
何で、一番いい先生をつぶそうとするのよ!?
『土居中をよくする会』??ふざけないで!!

次は9月25日に同じことをやるの?
それなら、私は、体育祭は、自分ひとりででも、「3A作戦」やるわ。
あんたたち全員が、キチンと「謝罪」するまでは、自分のいすを動かない!開会式を始めさせない!!(一人じゃ無理だけど。)

今日公開された音声のあの事件だって、あんたたちは卑怯よ!
ずーーっとまごころ教育さんが待っていてくれたのに無視して。私はC2の声もC3の声もよくわかったわよ!もう逃げられないわよね。まごころ教育のどこがウソなの!?あんたたち、それをちゃんと答えなさいよ。C2の声もC3の声もC4の声もよーーくわかったわよ。

こんな犯罪がまかり通っている土居町でいいんですか!?
土居町の皆さん??
ほんとのほんとに”犯罪”だと思う。
どうして???
口ではきれいごと言うくせに(先生)、どうしてこんなひどい卑劣なあくどいことを平気でやるのかしら?

”犯罪”だ! 犯罪だ! 犯罪だ! 犯罪だ!


9月25日、あんたたち、どうするつもり?また、まごころ教育はウソだっておんなじこと言って、そんで、星田先生を責めるの!?
保護者の皆さんはわかっているでしょう!?星田先生がどんなにいい先生か。また、昨夜みたいに、ヤツラのいいたいように言わしておくんですか?

許せない!!許せない!!許せない!!許せない!!

3年生のみんなは、どう思う?? 許せる??
どうして星田先生がつるし上げに会わなければならないのよ。
3年生のみんな。 許せる??


[1309]
謝罪の場 投稿者:うつ病経験者 さんに賛成。
>体育祭の開会式での謝罪が一番なのではないでしょうか?

そうするべきだわ。開会式の前にやった方がいい。それをするまでは、生徒は全員生徒席に座っているの。謝罪が足りないときは、地域や保護者の人に声をあげてもらって、謝罪しなければならないすべての人に謝罪する!

そうするべきだわ!完璧に謝罪を済ませるまでは、絶対にお体育祭ははじめないの。地域の人がみんな来てるわ。一番いい舞台じゃない。たとえ、午前中いっぱいかかっても、キチンと謝罪をするの。

でもねえ。幹部の教員がみな腐っていてさらにその手下で固めているんだから、やるわけないわよねえ。
須山校長!! どう? やる!?
C2教頭の手下になるのはいい加減おやめなさい!!
あなたが、一声「やる」って言ったらできるの。校長先生って学校の最高責任者でしょ?

そうしないのなら、わたしたちが立ち上がるしかないじゃない。でも、ヤツラはA先生を犯罪者に仕立てたくらいだから、私たちが立ち上がるということは、どういうことか、教育長さんなら分かってくださいますよね。

みんな。私たちを守って!!
星田先生を守って!!星田先生を守って!!
日本一いい先生を守って!!星田先生を守って!!

11時に寝床に就いたのに、心配で眠れないの。
それで、書き込みしたけど、やっぱり眠れないかもしれない。

 

リリアさんだけではないでしょうね。星田先生のことを自分のことのように心配している土居中生が大勢、大勢います。1月16日以来土居中幹部が冒し続けてきた強要罪に屈することなく、一人真実を言い続けてきた星田先生。

 

リリアさんは、うつ病経験者さんの声を読んで、次のようなひらめきを得ました。

 

[1309] 謝罪の場 投稿者:うつ病経験者 さんに賛成。
>>
体育祭の開会式での謝罪が一番なのではないでしょうか?

>そうするべきだわ。開会式の前にやった方がいい。それをするまでは、生徒は全員生徒席に座っているの。謝罪が足りないときは、地域や保護者の人に声をあげてもらって、謝罪しなければならないすべての人に謝罪する!
>そうするべきだわ!完璧に謝罪を済ませるまでは、絶対にお体育祭ははじめないの。地域の人がみんな来てるわ。一番いい舞台じゃない。たとえ、午前中いっぱいかかっても、キチンと謝罪をするの。

 

 

私も賛成します。土居中教師集団の気持ち一つです。開会式を始める前に、幹部連中が一人ずつ団の上に上がってマイクを通して率直に謝罪の言葉を述べる。具体的にどうするのかこれからどうしていくのかを地域の人に聞いてもらう。生徒はそれを聞いて納得すれば拍手する。こうして全員が納得できてから体育祭を始めればいいのです。これなら、体育祭開会の合図のピストルが鳴っても生徒は席を立たない。そして座っているだけ、で渋染め一揆に匹敵する行動ができるのです。

なんと、合法的なアイデアでしょうか。

 

最後に怒屋さんの言葉で締めくくりたいと思います。(←イカリヤさんですね?)

 

>四国中央市の教師は全て自己保身の口先だけの「嘘つきの最低野郎!」なんです。
>言葉が過ぎました言い換えます。
>「先生なんて呼ばれてるけど大したことないね君達」

 

今のままなら、怒屋さんの言われるとおりですね。

「嘘つきの最低のど糞野郎!」です。

純粋な生徒たちのためにも、「たいしたことある君達」になってほしいと心から願いますね。

 

さあ。このハードルは幹部連中にとっては高いですよ。これから体育祭までは、年休を取って6人別々に山に篭り、自分を見つめなおす時間をとらなければいけないでしょう。と、言ってもあと2日間。

たぶん、「嘘つきの最低のど糞野郎!」のままでしょうね……

 

平成20年9月18日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                          戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【34】「信じている」の反語は

 

昨日、友の会の方にメールが届き、その一部に次のような一節があった。

>掲示板を見ていて、「四国中央市の教師は全員自己保身の口先だけの嘘つき」と言う書き込みがありましたが、ちょっとショックでした。

 

私は、これを見て「アーーッ!」と思った。確か、つれづれ草でその文の一部分を引用させてもらったからだ。

つれづれ草【33】で、私は、

今のままなら、怒屋さんの言われるとおりですね。

「嘘つきの最低のど糞野郎!」です。

と書いたのである。

 

最初メールをくれた人は、自分の身内に教師をしている人がいる、また担任のことが好きであり、部活顧問のことが好きで、その人たちもみんな全員自己保身の口先だけの嘘つきということになるのでしょうか? と書いてあったのである。

 

もちろん、そんなことはない。そう言われるまで、そんなことを意識してもなかった。ただ、私は、この比喩を土居中幹部教師に対して使ったのである。

 

ところで、と考えた。この比喩の引用元怒屋さんの

[1350] なぜマスコミに相手にされないのか  投稿者:怒屋 投稿日:2008/09/18(Thu) 00:53

を読んで、なぜ抵抗なくあの部分を引用したのか。これについて説明を加えたい。なぜならば、昨日、メールをくださったその方と同じようにもしかしたらあの表現に傷ついている人が居るかもしれないからだ。

 

実は、私は昨日の朝、[1350] なぜマスコミに相手にされないのか をはじめに読んだときたいへん冷たい印象を持った。そしてその後にラんさんが、1カ所大切な部分についてここは違いますよと反応を入れてくれてあるのがありがたかった。

 

ところが、ところがなのである。夕方もう一度[1350] なぜマスコミに相手にされないのか を読んだときには、その1カ所も含めてすべてが、「うんそうだ」、「そうだ」、「もっともだ」、「その通りだ」と感じられ、朝とは全く逆に暖かい文章であることに気がついたのである。

 

ランさんが否定してくださったあの場所、

>A教諭も保健の先生も守ってくれる仲間が四国中央市に
>いないのもちょっと情けなく思います。

仲間がないのではない。仲間は確実に増えている。ランさんはこう書いている。

>これは違います。私たちのグループには保護者も教師もいて二人の先生をサポートしています。そしてこの輪はだんだん広がっています。「見て見ぬ振りするな」の精神で皆に呼びかけているのです。

それを読んだ時も、私はうれしかった。

 

そして、夕方怒屋さんの

>A教諭も保健の先生も守ってくれる仲間が四国中央市に
>いないのもちょっと情けなく思います。

を読んだときにも、朝は冷たいと感じたこの場所が、実は暖かく嬉しく感じたのである。

 

この気持ちは説明に少々時間がかかる。

 

 

※    ※    ※    ※    ※    

 

A教諭は昨年度土居中学校でつぶされた。今は、保健の先生が同じ手口でつぶされそうとしている。A教諭は、自分が体験しているので、保健の先生が危険な状態にあることを大変心配している。そしてそのA教諭から心配な気持ちを聞いたとき、私もA教諭が倒れていくのを間近に見ているだけに、大変心配になる。

 

さて、この、「土居中学校でつぶされた」ということは一体どういうことなのだろうか?

なぜ潰されるのだろうか?

A教諭が初めてではない。その前年度、またその前年度にも、同じ手口で良い先生が潰されているので。つまり土居中においては良い先生(=幹部連中にとって都合の悪い先生)をつぶしてしまうシステムが出来上がっているということである。

 

このシステムの首謀者すなわち、土居中の最大権力者、それが、現在の教頭、C2教諭である。ここからあとは、少々私の推理が入る。なぜならそのものの実態がはっきりしないからだ。実態がはっきりしないそのような組織があること自体が問題なのであるが。

 

掲示板の『真性・土居中』のなかで、途中までは掲示板らしく機能していたのに、途中から突然、絨毯爆撃荒らしがいかにも狂ったかのように荒れ狂い爆撃されるようになったときがあった。その絨毯爆撃荒らしが始まったころの書き込みに、C2教諭の名前が出てくる書き込みがある。それは誹謗でも中傷でもない。ただ、偏見を持った人が聞けば、大変な問題だということになるのであろう。実際、偏見を持った人が、旧教育委員会に圧力をかけ、掲示板を告訴させるに至った。

今述べたことは、この後出してくる推理の一つの材料である。

 

次に1月16日のことを振り返ってみたい。

C2教頭「なぐったんか?」、

C4教諭「なぐった!」、

C3教務「よっしゃ、警察じゃ!」

同僚の内輪もめに対してである。普通なら、止めに入るところである。それを、3分少々の騒動が起こっている最中に、この連係プレーで、C3教務は警察にする来てもらうように電話する。C2教頭は事務室から、Hrada議員に来てもらうように電話をする。

内輪もめの騒動が終わったときには、すでに警察とHrada議員の出動要請は完了していた。

 

この事実は、実はものすごく大きな推理の手がかりを含んでいる。学校に警察を導入するということは校長の許可があって初めてできることである。そしてまた職員間の内輪もめに政治家を呼ぶなどということは普通あり得ない。

 

これを、とっさにやりあげたということは、彼ら幹部連中は、以心伝心、目で合図して行動を取り合うことができる、それほど強力な悪の絆を持った集団であるということである。

 

そして、この瞬間的な行動のなかで教頭が即座にHrada議員に連絡をするということは、教頭とHrada議員は密接なつながりがあるということである。

 

 

 

それでは、土居中の特殊な教員つぶしシステムの構造について推理をしてみよう。一人のもっとも危険な人物が中心となる。C2教頭である。ただし、教頭になってから始まったわけではないのでC2教諭と呼ぶことにしよう。

C2教諭は同和団体と密接に結びついている。この同和団体が正体がはっきりしないので、ここでもはっきりした言い方はできない。C2教諭は同和団体の一員である。

土居中は、20年前から、教員の要請によって顕現教育を始めた。そのころは純粋なものであった。はじめは、教師たちの心も純粋だったのである。差別をなくしたいというところで純粋だったのである。

しかしどのような方法をやってみても、矛盾を生じる。その矛盾をしっかりと見つめて、自分に対して正直に反省して、やり方を変化させていくことが大切なので。

けれども、一部の教師たちは、その作業を怠るようになった。同和団体の一部であるC2教諭は、発言権を強めていく。部落と部落外に線引きをし、あえて部落を顕現させ、さらに部落外を攻撃するという特殊な方法を年々輪をかけて強めていく。

C3教務は、伊予三島市立西中学校を校内暴力で炉心溶融させ1年後にそこを出て土居中、北小学校へ行き同和教育推進主任をする。そのなかで土居中方式に染まっていく。

ちなみに、C5教諭は昭和62年度から10年間土居中におり、その後川之江北中へ出ていたが、また平成17年度から土居中へ戻ってきている。平成5年度には、実はこの3人は土居中で一緒だったのである。

 

さらに、得体の知れない同和団体は、巧妙に行政をやっつけていく。当時の土居町教育委員会を完全に制圧し、人事を操るようになる。市町村合併で四国中央市ができてからも同じ手法をとろうとする。それは少なくとも2007年度までは成功した。市教委の内部に土居の同和団体の圧力のかかった人物を送り込んでいた。河村敏和旧次長は、土居小学校の校長を務めていた人である。

2007年度は、A教諭のことで思い通りに進まないことがあると、C2教頭は、C1旧校長を使って河村敏和旧次長に土居中まで走って来させ、そこで策略を練って市教委へ持って帰らせる。そして市教委へA教諭を呼び出す。このような圧力を終始取り続けていたのである。

 

この2007年度は、それまで土居中で教務主任をしていたC2教諭が、同じ学校で教頭に昇進するという世にも珍しい人事が行われている。 いったいどのような力が介入したのか、警察の解明の手を入れる必要がある。 

 

 

さて以上で何重もの権力構造が、パイの皮が重なるようにして重なっていることがおわかりになると思う。

 

土居町の特殊な同和教育が土居すべての小学校および中学校で行われる。20年前に始まった顕現教育が、自らを顧みることなく、敵をつくりその敵を攻撃するという過激な方法を取り続けていくのである。

もう一度一言でまとめれば、「敵を作ってつぶす!」、これが土居町が取り続けてきた同和教育の根本方針であった。顕現教育が、いつの間にかこのような過激なものに変質していたのであった。そしてこの同和団体を背後にぴったりと控え、土居中のなかでその特殊な同和教育が行われる。

 

さらにC2教諭という特殊な存在が、土居中のなかで、変貌を遂げていく。彼は、平成12年度に1年間だけ川之江の中学校で出ているがそれ以外は19年間ずっと土居中に座り続けている。

先に推理をしたが、彼は正体不明の同和団体の一部であると考えられる。したがって土居中においての発言権は強いと考えられる。それは、長く居座り続けることによって校長よりも強い発言権を持つようになっていく。

 

C5教諭とは平成元年から平成8年まで土居中で勤務を共にしている。そして平成14年度には、C1前校長、C2教諭、C3教諭、C6教諭、C4教諭の4人がそろい、ここから7年間は4人とも土居中を動いていない。平成17年度にはC5教諭が戻ってきて、幹部C1〜C6が勢ぞろいしている。

 

さて、C2教諭の人間性である。問題なのは。

彼は土居中学校のなかで自分が権力を持っていることを当然自認していたであろう。そんな彼がしたのは、自分の思い通りに動きそうな者を自分の周辺に置くということで。そしてそのために使う手が何かといえば、「悪口」である。つまり土居の同和団体が取っている手法『敵を作ってその敵を徹底的につぶす』ということを土居中学校という閉鎖された空間の中でも、同じように使ったのである。こうして、C2教諭らに目をつけられた教師は、彼ら悪口グループから陰で悪口を言われ、陰謀を仕組まれ、そして職員会でつるし上げられるようになる。

 

ちなみに、土居中が、昔荒れていたのを建て直したなどというのは何でもないことである。平成3年にC3教諭が伊予三島市立西中学校にいた頃、その西中の荒れ方は普通のものではなかった。そしてそこで炉心溶融が起こり警察が導入され、もはや教師は打つ手がなくなるのである。学校が崩壊するとはそういうことである。平成4年度。西中ではそんな中からひとつひとつ秩序を作っていたのだ。当時の西中が「真面目な生徒が安心して授業を受けられるようにしたい」という願いを込めて作っていった秩序。その原型が、現在、四国中央市の東から西までに流れているのである。危険なのは、土居や川之江で、その形だけを真似しようとする動きが出てくると、子供の心を見なくなってしまう。ただの「管理」に成り下がる。土居中はその典型である。

 

 

さて土居中に戻る。平成17年度にC1からC6の全幹部連中が勢ぞろいする。平成18年度には6月になって突然県まで出かけていき、強引に全同協の会場校になることを願い取ってくる。こうして、目先の成果をあげることを第一の目標として、生徒にもそれまで以上に極端に歪んだ同和教育を押しつけ、またそれに矛盾を感じ異を称える教師や、生徒の苦しみを聞いて共有しようとするような教師に対しては徹底的な弾圧を加えるようになる。

 

そして平成19年度。C2教諭は同じ土居中で教頭に昇格する。

C3教諭は教務主任になる。

 

※    ※    ※    ※    ※    

 

 

平成19年度。A教諭はこのような土居中へ赴任してきたのであった。突発性難聴の退院から数日後。自律神経の方は体温調節が聞かず、最悪。それだけではない。前任校で発症したうつ病の回復過程にあってまだ完全復帰は成し遂げられてない。それらに対する配慮が絶対に必要なのであった。

ところが、その体調について「どうですか?」という言葉の一言も管理職からはかけてもらえていない。A教諭は自分で処理しなければならないのだと思ったという。しかし、自分で処理することさえもさせないような締め付けが次々とA教諭に対してふりかけてくるのである。4月26日、教科の打ち合わせで校長室へ行ったとき、あまりにも苦しいA教諭は、「同和教育では苦しんでいる子供の立場になるように教えるでしょう?」と答える。突然高橋常勤教務主任と、C2教頭が大声で、「同和教育とそれとは違う!!」と叫び、A教諭と口論になるのである。

土居の同和教育は人権教育ではないことを彼らは大声で宣言したのであった。すなわち、「目の前に苦しんでいる人がいても、部落差別を受けている人出なければ、一切関係ない。」これが、土居中の恐るべき『同和教育』なのであった。

 

つまり平成19年度のスタートの時点でもうすでに土居中は完全に異常な空間になっていたのである。苦しんでいる同僚がいても、手を出そうともしない助けようともしない(幹部連中が許さないのだ)。そのような教師集団をつくる幹部教師連中および管理職。管理職とはいっても、校長はただのお飾り。最大の権力はC2教頭が持ってC2教頭は正体不明の同和団体の一部。その強大な勢力を背景にして、市教委の河村敏和前次長を使い走りの犬として利用する。

 

 

さて、A教諭はどうたらよかったのだろう。誰に助けを求めたら良かったのだろう。もちろんA教諭をずっと陰で支えてくれた保健の先生はじめ何人かの先生、そして宮崎節夫前教育長さんがいたおかげで、A教諭は無事授業の復帰を果たせたのであった。

しかし、そこで約8カ月間にわたって続けられた管理職および幹部連中からの執拗な嫌がらせ、パワーハラスメントがA教諭に与えたストレスは大きい。そして1月16日に待ってましたかのように警察を導入し、市教委(河村敏和前次長)ぐるみでA教諭を責めて現在の不安障害に発症につなげてしまった。その後A教諭はまだ復帰できる見通しが立っていない。

 

 

なお、A教諭が精神科で不安障害と診断され、病気休暇をとらざるを得なくなった(はじめにも主治医の医師は「診断書を書きましょうか?」といってくださったそうだが、A教諭は学校へ戻る気満々だったので当面年休で処理するつもりだったのだ)とき、市教委から、精神科へ宮崎節夫前教育長さんが心配して病状を聞き取りに行かれた。問題は、それにくっついてあと3人行ったのである。河村敏和前次長、高橋満男現教育部長、鈴木まこと現事務主幹。これは、いったい誰の指示なのか?明らかに、正体不明の団体からの指示によるものと考えられる。

つまり、今回、C5教諭は「全治3週間」とでっち上げ診断書と作ってもらって被害届を出すという、教師としてあるまじき行動を行った。

時間は前後するが、それと同じような『仮病ではないのか?』と疑ったわけである。

情けない。そうとしか言いようがない。

 

今、「被害届」の話を出したが、あれは、すべてC2教頭の入知恵である。1月16日に診断書を取りに行ったのも。

すなわち、正体不明の同和団体は、この手口で、強引に「法」に訴えて最後は潰してしまうのである。白を黒といって(全治1日と全治3週間と書き換えてもらう)、被害届を出す。警察をナメ切っているのである。

 

 

昨年度まで、土居中はこのような状態だったのである。そして現在も幹部連中は一切非を認めずA教諭に対して行ったのと同じことを保健の先生に対して行っている。

このままだと保健の先生はつぶされてしまう。土居中学校の中の間違っていることを間違っていると言っただけなのに。それに嘘をいうことを強要されてもそれを否定して真実をのみ述べてきたのに。このままだと保健の先生はつぶされてしまう!

誰か助けて!!

誰か助けて!!

土居中の生徒たちのここの掲示板の書き込みにもあった。

SOSである。

 

 

※    ※    ※    ※    ※    

 

さて、はじめに帰る。

怒屋さんの

>A教諭も保健の先生も守ってくれる仲間が四国中央市に
>いないのもちょっと情けなく思います。

を読んだとき暖かく嬉しいと感じた私の気持ちについて説明したい。

 

A教諭の問題は、A教諭個人で相手(幹部連中)と話し合って、あるいは校長に訴えて解決するような生易しいものではなかった。

A教諭の周りを、まずC2教頭ら幹部連中の壁が取り囲み、さらにその犬として動く河村敏和次長によって市教委が取り囲み、さらにその外を土居町の正体不明の同和団体が取り囲んでいる。このような状態の中に捕獲されているのである。そこからSOSを出しているのである。

 

 

さあ!

我々は、気球になって空高く舞い上がってみよう。市国中央市全体が見えるところまで。西から土居中、三島南中、三島西中、三島東中、川之江南中、川之江北中、そしてさらに小学校が見える。市教委がある。

いちばん西の土居町は全体がどす黒い雲に包まれている。特に土居中付近は真っ黒に雲が覆っている。そこからSOSの信号が出されている。SOSの信号は、まごころ教育でキャッチされた。

 

さあどうだろう。もう一度怒屋さんの一節を読んでみてほしい。

 

 

怒屋さんの

>A教諭も保健の先生も守ってくれる仲間が四国中央市に
>いないのもちょっと情けなく思います。

 

四国中央市の西の端を中学校から。教諭がSOSのサインを発信している。それをキャッチしてまごころ教育で全国、全世界に発信した。1番身近なところにいる仲間たち助けてくれ!

 

四国中央市の教師たち、助けてくれ!

 

同じ四国中央市の西の端の中学校で、今、凶行が行われている。同じ教師として何かできることは無いのか?

 

例えば抗議文を学校として送る。有志の教員の署名をつけて送る。

(まだの土居方式の洗脳から解けていない教師もいるので、そういう人には強要しなくてかまわない。)

四国中央市のすべての小中学校がそれをやるだけでも、まるで違うだろう。彼ら土居中学校、悪の砦の一角を崩すに十分であろう。

 

あるいは四国中央市の中学校・小学校の先生がた、市教委へ訴えてほしい。市教委へ少しでも多くの人たちからの訴えが届けば、市教委としては動かざるを得ない。という大義名分ができる。同和団体の圧力があっても、みんなの世論の方が勝つのだ。「みんなの世論があるから動かなければならないのだ」と同和団体の圧力に対して敢然と言えるのである。これが必要なのである。誰か助けて!助けて!!

 

さて、動いてくれるかな??

どこかの中学校か小学校が?

 

 

 

そこで、未来を先取りしたのが、

 

怒屋さんの

>四国中央市の教師は全て自己保身の口先だけの「嘘つきの最低野郎!」なんです。
>言葉が過ぎました言い換えます。
>「先生なんて呼ばれてるけど大したことないね君達」

 

である。つまり、これは完璧な反語である。

こう書いたけど、そうじゃないよね。四国中央市の教師は、今イジメられている人がいるのを見てみぬ振りしたりしないよね。

という反語なのである。

 

 

 

大変に長くなったが、以上のような意味で、私は四国中央市のいろいろな学校で、心ある先生たちが立ち上がってくださることを信じている。

 

 

ただ、反語というのは強烈である。一歩間違えば、「事実」になってしまうからである。

 

平成20年9月19日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

怒屋さん。貴重なお怒りのお声をどうもありがとうございました。よくわかりました。せっかくあなたが、反語の形で提起してくださっているのに、私がすぐに反語をひっくり返してしまったら、確かに意味がありませんね。深く反省いたします。ごめんなさいね。そして、これからも、あなたのユニークな死かも本質を見据えた書き込みをしてくださいね。

 

平成20年9月21日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【35】遊びから真理へ

 

昨夜の掲示板の書き込みで、[1384] このくらいのお遊びはさせてください…  投稿者: ・  さんのものについて吟味をしてみたい。

 

私は、掲示板は、もっといろんな人がいろんな想いを自由に述べられたらいいなと思っていた。けれども最近特に感じるのは、自由に書けない雰囲気があるということである。土居中の中での、「いつ目を付けるられるか」という緊張状態に比べればまだましなのであるが、それでもそれと同じ雰囲気が漂っている。「下手なこと書いたら告訴」という用心だろうか?

 

さて、そんな中で昨夜

[1384] このくらいのお遊びはさせてください…  投稿者: ・  さん

の書き込みが行われた。

この意味について考えてみたい。

 

皆さんはこの書き込みをどうとらえるだろうか?

印象が良いものではない、多くの人がそのように感じただろう。

 

大切なのはそこである。

大切なのはその瞬間である。

 

特に土居中では、「決めつけ」が激しい。誰かをターゲットにしていじめるということは「決めつけ」の最たるものである。

 

それと同じものが我々の心の中にないかどうか、それを振り返らなければならないと思う。見かけだけで判断して「印象が良い」、「印象が悪い」では浅いのである。それだと、どっちみち、彼らと同じ要素を持っていることになる。だから、彼らの台風の渦に巻き込まれてしまうのである。我々はそこからずっと高いところへ登って、そこから見るまなざしが欲しい。

 

その意味で、昨夜の ・  さんの書き込みは、たいへん大きな問題提起を我々に投げかけてくれている。

 

ずっと以前にも掲示板に活発に中学生が書き込みをしていたころ、「呪ってやりたい」、「死ね」などという言葉があふれていた。その現象を見てこれではいけないと告訴したバカ者がいる。告訴させた気狂いがいる。

よその掲示板を見てみよう。一行だけで話し合いにもなりにもなってないものがほとんどではないか。そのなかで土居中の掲示板ではそれぞれが思いを語っていたのである。「死ね」という言葉も普段使う言葉ではない。それは重々わかっている。「呪い殺してやりたい」などという言葉も普段使うべき言葉ではない。それもわかっている。

 

ただし、我々がそれを読んだとき人生の先輩として我々はそれをどう受け止めなければならないのか、そこが大切なのではないだろうか。

 

 ・  さんの書き込みからは、はげしい憎しみも恨みも感じられない。

ということは、 ・  さんは、これを書くことによってその中に何らかのメッセージを託したと思われる。

 

気狂いやバカ者(私はこれを正真正銘の意味で使っている。差別用語としてではない)が、『告訴』という脅迫によって若者の言論の自由を無理矢理奪ってしまった。もともとは土居中に言論の自由がなかったから、若者の不満が掲示板に噴出していたにすぎない。解決方法は他にあったのだ。けれどもいまだに、現場は動かない。掲示板を告訴されているということは、あの頃一生懸命書き込みをしていた誰かの中学生が、今怯えているということである。

 

私には、 ・  さんの書き込みからは、そのような大人の社会に対する冷静な怒りが感じられる。

早く、中学生たちを安心させて書けなければならない。告訴という方法は絶対にやめるべきである。

 

 

 

 

さて、ここで話を変える。

 ・  さんの書き込みの内容に話を移そう。

ここにも非常に大切な点がある。光と闇。これについては、中学生の皆さんは十分に気をつけなければならない。そしてまた逆に、これをもとにして自分の心を鍛練することができる。それについて述べてみたい。

 

『空の境界』は、私もこの夏送っていただいたDVDを見て、また本も読んだので印象が深い。

さてあの場面で、 ・  さんは被害者を○○とした。そこにC1〜C6の誰かを入れるというくらいのお遊びはさせてください、と言っている。ここにも、非常に意味深長なメッセージが隠されていると私は思うのである。

 

例えば○○にC2を入れて、頭の中で場面を想像していたとする。その時、あなたの頭の中ではどんな印象が浮かぶだろうか。そしてその時あなたの心はどんな反応を示すだろうか。

 

遊びというものはたいへん大切である。遊んでいて真理を発見するということも歴史の中には多々ある。 ・  さんの言う、お遊びを私は上記のように捉えたい。

 

すなわち、『空の境界』のあの場面を材料にして、自分の心の中を観察するというお遊びである。

 

さてそこで、何らかのイメージを自分の頭の中に描き、苦しんでいるC2の姿を見て、「あはははは。面白い。ざまあみろ。」などという気持ちが心の中に起こったとしたら、実は自分も彼らと同類であるということである。

ただ単に、教師と生徒という立場が違っていただけで、もし逆の立場だったとしたら自分も彼らと全く同じことをしていたかもしれない。

 

これは非常に大切なことである。普段そのような考え方を当たり前にしていると、それは想い癖となって潜在意識に刻みこまれる。潜在意識にいったん受け止められた想念は、「類は友を呼ぶの法則」によって同じものを引き寄せ、実現化させてしまうのである。

 

さて、今見た受け止め方というのは、大変浅い刹那的な衝動的な受け止め方で。1月16日に幹部連中が行ったこと全く同じ刹那的・衝動的な心の動きである。

 

ではもっと深く見つめるにはどうしたらいいか。それには、その痛みを自分のこととして想像してみなければならない。ゴム飛行機のゴムのように腕がねじれているってどんなことなのだろうか? 自分の腕をねじって1回転したところで、もうそれ以上ねじれない。反対側の手で持って更にねじってみると痛くてたまらない。こうして見て、自分で痛みを感じた上でさらに想像してみるのである。そこでさらに1回転したら、どうなるか?恐ろしいことである。両腕がそのような状態さらに片方の足が引き千切られている…。どんなに痛いだろうか?

 

このようにして○○のところに自分を入れて、そして痛みを想像力で体験してみるのである。こうして初めて、最初外からそのシーンを見ていただけの浅い見方から、一歩踏み込んだ深い見方ができるようになる。

 

そこで、今度は、○○から離れてみる。そして○○のところに、自分の大切な人を入れてみる。自分の恋人、自分の両親に、自分の兄弟たちなど。そして自分の大切な人が目の前でそのような残虐な痛みに立っているところを自分が見ていると想像する。どんな気持ちが起こるだろうかその時の自分の心の中を見つめている。「やめて!!助けて!!もうしないで!!」当然、このような叫びにも似たつぶやきがあふれ出すだろう。

 

さらに、見方を深めている。今出たつぶやきを心の中から話すことなく、○○の中にC2を入れてみるのである。人間が変わっただけで、さっきの痛みは同じである。笑っていられるだろうか。

 

この第3段階めは、大変難しい。心に嘘を入れずに正直に見つめなければならない。なかなか、初めのうちは、「ざまみろ」というような雑念が入ってきてしまい、それを打ち消そうとすると、心に嘘ができてしまい、どうしたらいいのか分からなくなる。

 

それが心の力なのである。心が弱いということなのである。心を鍛えるということは、このようにして、第3段階に入っても本当に心から「やめて!助けて!」という叫びが出てくるようにしていくということである。

これは大変難しいことである。何転生かけても簡単にはできないであろう。

どうしたら、そんな心境になれるのだろうか。

例えば、「南無」ととなえる。あるいは、十字を切る。あるいは、「神の仏をお助けください。」と口に出す。

 

自分が苦しい時にするであろうことを、今の第3段階でやってみる。

こうやって心を鍛えていく以外にないのだ。

 

 

 

 

さて、今日は、昨夜の ・  さんの書き込みをもとにして考えさせていただいた。

 

 

ここで話をまた最初に戻したい。掲示板の書き込み。これには百人百色の個性があるであろう。

 

《ぱっと見た印象だけで、これは攻撃的だ、これはとんでもない、これはヤバイんだなどと、決めつけないこと。》

 

私は、それを言いたかった。

 

浅い決め付けは、要らぬ恐怖心を抱き、闘いが必要なとき立ち上がれない弱さにつながる。常に、その奥にある真の姿を観ること。

 

生徒たちが、最も嫌がるのは、決めつけである。レッテル貼りである。荒れている生徒の、心の奥を観ることと、同じことなのである。土居中学校の教師がそれができない分、われわれ大人はそのまなざしを忘れてはいけない。

 

 

 

 

最後に、インターネットの書き込みに話を戻す。

ぱっと見た印象で、これは攻撃的だ、とんでもないという書き込みもある。

逆に、ぱっと見た印象ですこぶる善人に見える。ところが、その奥に悪魔のような牙を隠している、こういう書き込みもありうる。これは荒らしという。

 

インターネットは、今、急速に科学の進歩に乗って普及している。人間社会の倫理観がそれに追いついてないのが現状である。だからいろいろな犯罪やまた誹謗・中傷の巣窟になったりもする。

 

そのような中だからこそ、我々は賢明に、聡明に、本質を見抜くべきである。何が本質的にいけないことなのか、何が本質的に許されないことなのか、それを見抜いていくべきである。

 

平成20年9月20日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【36】坂本竜馬とわたしたち

 

ここまで、少々、非常識的な内容が続いたかもしれない。しかしそれは、私がA教諭から聞き取りをした、また、いろいろな人から聞き取りをした土居中の惨状を思えば、ぜんぜん「非常識」的とはいえない。真に非常識的な土居中の中にあっては、何も驚くことではないのだ。

そのくらいの気持ちを持ってかからなければ、土居中の凄惨な状況は改革できない。

 

さて改革という言葉を使った。いま日本の政治は小泉政権の時代から「改革」、「改革」と叫ばれている。が、出てくるのは官僚の不祥事や全国で行われている偽装の数々。どうしてこんな社会になってしまったのだろう。

 

 

 

A教諭が休職しているとき、私はA教諭から是非読んでくれと勧められた本がある。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』である。A教諭はそれをある人から進められて一気に読んだそうだ。その本を全部貸してくれたので、私は例の半速読の読み方で読んでいた。読み終えて、なるほどと思った。何という爽やかさだろう。

 

 

 

 

今日はその話をしたい。

 

 

江戸末期。腐敗した官僚たち。押し寄せてくる欧米列強の植民地化の脅威。ペリーの黒船が来航して幕府は大慌てする。

すでにその時点で敏感に反応して、国を守るために命をかけてアメリカへ連れてってくれと頼みこんだ吉田松陰。しかし彼は国の掟を破ったかどで処刑される。

 

その志を継いだ彼の弟子たち。また全国で立ち上がる尊王攘夷の志士たち。このころ、坂本竜馬はまだ全然表舞台に出てこない。

次第に、日本の動きは討幕運動へと変わっていく。

 

けれども、幕僚が腐敗しているとはいえ、まだ日本のなかでは幕府の権力は絶大であった。したがって幕府を倒すために、当時台頭してきていた二つの藩、薩摩藩と長州藩が手を結ぶことが必要であった。しかし、この二つの藩は犬猿の仲にある。この二つの藩が手を結ぶなどということは、誰にも考えられなかった。

 

ここから竜馬の活躍が始まる。そのころまでに、竜馬はすでに勝海舟から譲り受けてきた流れで、亀山社中という海運会社をつくっている。その働きによって、米と鉄砲を売買するということで二つの藩の間に取りかかりの手口をつける。それでもなお、薩摩藩の代表・西郷隆盛と、長州藩の代表・桂小五郎とは、その会見の席において同盟を結ぼうとはしなかった。そこへやってきた竜馬は、おそらく人生最大のものであったであろう、「怒り」をぶつける。それによって西郷隆盛の気持ちが動き薩長同盟が成り立つ。

 

こうして、幕府を追い込んでいく準備はできた。一気に形成は逆転し幕府が劣勢となる。

 

しかし、竜馬の目は常に世界にあった。薩摩と長州は幕府に戦さをぶっかけたくてたまらない。けれどもそれをやってしまうと、日本を植民地化しようと虎視淡々と狙っている欧米列強の思うつぼにはまってしまう。竜馬の目はそれを見抜いていた。なんとか戦さをせずに、幕府を倒す方法はないか。

 

その起死回生の驚くべき方法が竜馬の頭の中にはあった。それが、「大政奉還」である。しかし、薩摩と長州は戦さをし掛けるための準備を着々と進めている。幕府の大政奉還があと1日を遅れれば、手遅れになっていたかもしれない。このようなギリギリの状態のなかで、大政奉還は成し遂げられるのである。

 

もしも、坂本竜馬という人物が居なかったら、日本の歴史は全く変わっていただろう。もしかしたら、朝鮮半島が今二つに分かれているように欧米列強によって4分割されていたかもしれない。そのような1000年スパンにおける大危機だったのである。

 

そのころの日本人が、武士道という死を恐れない生き方をしていたということも、明治維新に成功の土台となっている。これも忘れてはいけない。多くの多くの血が流されたのである。しかしそのおかげで、欧米列強の侵略の意図から、我々は守られた。

 

坂本竜馬に話を戻す。竜馬は薩長同盟が成ったところで、夜くつろいでいるところを、大集団(確かどこかの藩だった)から襲われるという危機に瀕している。それを救ったのはお竜だった。ここで竜馬の命は、まだ天に帰されることはなかった。「まだお前にはやらなければならない仕事が残っているよ。」という訳だ。

 

その後、坂本竜馬が大政奉還を成し遂げたそのあと、彼は暗殺されるのである。

竜馬は、その前に、すでに大阪へ向かう船の中で、土佐藩の(いま名前を思い出せない)だれそれに船中八策を授けている。すでに明治維新政府の構想まで残していったのだ。それを見た者たちは驚いたという。坂本竜馬自身の名前が新政府の要人として入っていないのである。西郷隆盛が、驚いて「おはんの名前が入ってなか」と聞くと、竜馬は窓の外を見ながら「世界の海援隊でもやりようが」と悠々といったという。

 

まさに、天から使わされた人物。坂本竜馬。自分の使命を、天の声のままに実行し、見事に果たし終えて、そしてさっと天に帰っていった坂本竜馬。

 

以上、これも手元に『竜馬がゆく』などの資料が一切ないため、私の記憶だけで書いた。もし間違いがあれば許しいただきたい。

 

 

 

 

こんな政治家がいないものかと、本当に思う。今、日本にこんな政治家が一人でもいれば、日本中の多くの若者の心が変わるはずである。若者は、すでに先輩である大人の生き方を見て、諦めているのである。

 

しかし、A教諭は言う。「四国中央市には坂本竜馬のような人が居る」と。とするならば、その人物が使命を果たしに出てくるべきときには、必ず天から召命の声がかかり、そして使命を果たして去っていかれるであろう。その功績は、1000年、2000年のスパンで、後世に伝えられよう。

 

一人の人物の生き方が、後の世に生きる若者たちに希望を与え、そして国を変えていくのである。

 

 

 

話を、幕末期のこの話のいちばん初めに戻したい。ペリーの黒船が来航して幕府は大慌てする。すでにその時点で敏感に反応して、国を守るために命をかけてアメリカへ連れてってくれと頼みこんだ吉田松陰。吉田松陰は、長州藩(今の山口県)に松下村塾をつくって、若者たちと共に生活を共にしていた。今も大切に残っている松下村塾は、豪華なお屋敷とはとてもいえない。中に入って立てば頭が天井に付きそうな、小さな狭い一軒家である。

 

松陰自身の生活を見てみると、牢屋に入れられている方が長かったような記憶がある。そして、最期はあの有名な句を残して切腹である。「日本が危ない」と訴えて、幕府の法を犯してでもアメリカの船に乗せてもらうよう頼みに行って断られ、そして捕らえられて切腹。松陰自身は、結局何も成し遂げられなかったように見える。

 

けれども、松陰がいなければ、多くの志士が出てくることはなかった。明治維新は、あの小さな狭い一軒家である松下村塾から始まったと言っても良い。

 

 

 

坂本竜馬の話を中心にして書いたが、彼一人の力で明治維新が成り立ったわけではない。多くの多くの多くの人々の闘いがあった。そのなかで、より広い、より深い眼差しを持った者が、天の意思にかなって残っていき、運動そのものが次第に淘汰されていく。

 

もしも、竜馬が、自分が脱藩するまでの間、土佐藩で下士として過ごしたときの恨み心をずっと持っていたとしたら、それを闘いのエネルギーにしていたとしたら、天は彼を選ぶことは無かっただろう。

 

 

 

 

 

 

さて、いきなり話を現実世界にもってこよう。日本の四国の愛媛県の四国中央市で、多くの志士が現れ、そして天に選ばれた竜馬のごとき人物が、大改革を成し遂げるということは、大いに可能なことなのだ。

それが成し遂げられれば、マスコミをにぎわす必要もない。ただし、記録は残しておこう。そうすれば、必ずその闘いは歴史に残り、後世に伝えられ、そして日本を生きる若者たちに希望を与えて、新しい国家をよみがえらせるからである。

 

土居町をこれまで覆っていた黒い雲は、日本を騒がせている食品偽装や政治家の収賄などと同じ質のものである。

土居町で『土居中同和問題』が浄化できれば、日本が変わる可能性が出てくる。

 

こう考えてみると、我々が今直面しているこの土居町問題は、困難ではあるが、大きな希望の種子を含んでいると言えるだろう。

 

平成20年9月21日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【37】精神世界の常識は日常世界の非常識

 

長いので、[][]の4段構成にします。

 

                           [はじめに]  [1]  [2]  [3]  [4]

 

 

 

 

[はじめに]

 

話題を呼んだ書き込み

[1384] このくらいのお遊びはさせてください…  投稿者: ・  さん

について、再度書きます。とても大切な問題をはらんでいるからです。

 

 

掲示板で両方の側からの視点をいただきました。私の気持ちを代弁してくださったなあと思うのは、市民zさんの

 

大人が注目するようになり、子どもにとっては面白くない板になり、子どもにとって自由な書き込みが出来ない状況になっているんだと思います。

>大人の我々は、人権に配慮した書き込みで良いじゃないですか。
でも、子どもは今胸に抱えてる【鬼】を吐き出させてあげたいと私は思うのです。

 

です。ありがたかったです。

 

 

でも、あえて私に、異議を唱えてくださった普通の町民さんと一卒業生さんにも深く感謝申しあげます。

 

> @ 「自由にかけない雰囲気がある。」と書かれていますが、「自由に書いてはいけないことも在る。」と思うのです。 
> A 人権の尊重を訴えるために、特定の人間の尊厳を無視してもよいとは思わない。

 

>何があったとしても理性的でいる事が大切ではないでしょうか。

 

も、そのとおりだと思うのです。

 

 

私自身の中に矛盾する2つの自分がいるのです。理性的に考えれば、それは公のところに書くべきことではない。わかる。しかし、「子どもには今胸に抱えてる【鬼】を吐き出させてあげたい」

 

 

そこで、今日は再度このテーマについてお話したいと思います。

 

                           [はじめに]  [1]  [2]  [3]  [4]

 

 

 

 

 

 

 

 

[]

A教諭のことから話を始めます。

A教諭はアウシュビッツ収容所のような土居中にいました(もちろんその程度の差は大きいので適切な比ゆではないかもしれませんが)。あの体制の土居中でターゲットにされて日々圧力を受け続けるのはかなりのストレスでした。しかし、同じ土居中にいても、ほかの先生にはほとんどわからないんです。

ここが大切な点なんです。一緒に土居中の中にいるのに、他人がイジメられていることに気がつかない。(敏感に気がついていて何かあるたびに何とかしようとうと動いてくれた人も何人かいたそうですが。)体験したものでないとわからない。

 

ということは、すぐそばにいても、わからないがゆえにその人を苦しめてしまうことがあるということです。

 

私も何度も強い自殺衝動が来ましたので他人事ではないんです。

 

すぐそばにいる人にわかってもらえない→自殺衝動! これが私のパターンでした。

 

そして、土居中でA教諭から「うつ病」であることを聞いたときC2教頭が「地域の目があるから、それは言ったらいかん!」といった。

 

私はそれを聞いて、「なにを言ってるんだ!!この野郎!!」と強く思ったのです。何度も自殺衝動の怖さを味わったものとして、「そこから目を離せ」というの、は切り捨てに等しい。すでにその時点で死ねといっているに等しい。

 

「死」をもっと見つめて欲しい。これが私の切実な気持ちでした。

 

そもそも、A教諭の土居中でのねじれはそこから始まったのです。

彼が一言言った「死」という言葉を受け止めてもらえなかったことで土居中幹部は危険人物だと、彼は直感的に感じました。4月10日のことです。

 

彼は、『退職するしかないのか』という重たいうつ気分にやられながら車で帰ったそうです。

 

そんな状態で、A教諭の一年間が始まったのです。

 

みなさんは、アウシュビッツ収容所の死体処理の映像をごらんになったことがありますか?連合軍がドイツを打ち負かしてヒトラーは自殺し、アウシュビッツに入った連合軍がみた地獄図。まだ焼却されてない死体の山を、ブルドーザーで地面に掘った穴に運び落としていく実写。

 

あるいは芥川龍之介の『地獄変』という小説がありますが、自分の娘が生きながらにして焼かれるのを写生する絵師。

 

こういうのをどう受け止めるか、

《受け止める側の受け止め方》

が大切なんだ、ということを、自分のうつ病のときの体験から、切実に思うのです。

 

 

そういうわけで、話題を呼んだ書き込み

[1384] このくらいのお遊びはさせてください…  投稿者: ・  さん

は、『ゴーマニズム宣言』で小林よしのりさんがよくやる、世間の常識への挑戦のように思えました。

                            [はじめに]  [1]  [2]  [3]  [4]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[]

そこで、次のような子供がもしいたら…と考えてみてください。

 

もしかしたら、自殺寸前に追い込まれている子供が、最後の想いで書いたのかもしれない。さっき私が言ったような想い。もう退職するしかないのか。…もう死ぬしかないのか。

 

ここまで追い詰められて、それでも必死でがんばってきて、そんであなたたちを信じて「死」という言葉を一言打ち明けたら、「地域の目があるから言うな」ですって?

 

そんな中で大きな絶望感でいっぱいになりながら、最後の遺書みたいな気持ちで掲示板に書き込みをしたとしたら。

 

(その場合、すでに傷ついた心はまじめにはかけないでしょう。再び傷つけられることを恐れて逆説的に書くことは大いにあるでしょう。)

 

 

 

その書き込みを、掲示板の体面を考えて、削除したり一般常識的な批判しかなかったら、どうなるでしょうか?

きっと、その子に引き金を引かせることになるでしょう。

強い自殺衝動に見舞われたとき、こちの世界からあちの世界への敷居を踏み越えるのは一瞬です。何度、私は、自分自身がその衝動の恐ろしさを体験したことでしょう。

 

自殺だけとは限りません。

『だからあなたも死なないで』の何とか言う人、大平光代さんでしたか?

あの人は、凄まじい家庭内暴力に走ったのでした。

 

そういう可能性を考えて、両方のバランスをとって、受け止めることが必要だと思うのです。

 

 

 

もちろん、どんなに考えても、理性的・常識的には、あの書き込みは削除ものでしょう?轟々たる非難を浴びて当然のものでしょう。 

 

だからこそ、私は、その世間の常識に一言、警鐘を鳴らしたかった。

 

「その世間の常識が、ヤツラに利用されて、土居中を今の土居中にさせてしまったんだよ」と。

 

 

 

 

 

うつ病患者さんにA教諭は何度も言ったそうです。

「精神世界の常識は、日常世界の常識とはまったく逆なんよ」

と。自殺のことばかり話す彼女に、彼女が非常識なことを言うたびにA教諭は「すばらしい!」といったそうです。その子が不思議そうに「なんで?」と聞くのでそう言ったそうです。

 

 

A教諭は、川之江北で休職からあけた2年目。精神的にも体力的にも、まだまだ以前の日常を取り戻していくのに精一杯でした。

あるとき、(学校では禁止となっている服装)シャツ出しをやってみました。

カッターシャツのスソを全部出して校内を歩き回ったのです。

 

この話を、A教諭のことを心配してくださっていた当時のある中学校ののM校長先生に話されたそうです。M校長先生はお忙しい中、手紙を届けてくださるのです。何回か往復書簡が飛び、その中でシャツ出しのこともA教諭は言いました。M校長先生は、それについては断固賛成しませんでした。(当然ですが)

 

そうしているうちに、7月、調子がよくなっていたのに、A教諭は鬱にまた陥りました。

 

 

A教諭は当時大阪の病院へ行っていました。そこで、シャツを出して校内を歩いたことを言うと、医師は

「すばらしいですね!」

と言ったそうです。A教諭は「えっ!?すばらしいんですか??」「すばらしいです。あなたのインナーチャイルドがそうしたいと言ってたんです。」

A教諭がひとつ開眼した瞬間でした。

  

 

 

ドストィェフスキーは『罪と罰』のなかで、老婆とさらにリザヴェータを斧で頭を真っ二つに勝ち割るという残虐なシーンを描いています。しかし、あの小説を貫いているものは残虐さではありません。

 

 

 

小説は、静的なもので読まずに済ませることができますが、日常生活は常に動いています。そんな中でさまざまなことが起こります。掲示板でのあのような書き込みに相当する事態だって起こることでしょう。

 

問題は、

《その事態に出くわしたときの、受け止める側の心》

にあるのではないでしょうか?

 

受け止める側が、臨床心理士がカウンセリングしてくれるように、丸ごと受け止めてくれて、つまり、その時点では常識的にダメということは蚊帳の外においておいて、「そうなんだんね!」と受け止めてくれて、そして、導いていってくれたら、その問題行動者(書き込み者)本人の問題は消えるのです。

 

 

しかし、それでもなお周囲の問題が残ります。差別・偏見・レッテル貼りです。

 

A教諭が突発性軟調の退院から数日してフラフラしながら土居中へ赴任して行ったとき、C2教頭の言葉にそれが満ち満ちていました。

「『うつ病の先生が教壇に立っとって、ことないんか』」いうて地域から苦情の電話があるきん、うつ病じゃ言うことは言わんように。

A教諭夫妻は、何回もC2教頭からそう言われました。

 

教頭のウソ?もあったかもしれません。 しかし、実際に地域のそういった偏見もあったのでしょう。だから、地域から突き上げられるのを恐れていた?

  

私が何をいいたいかお分かりでしょうか?

 

人にいやな思いをさせる、といっても、

《いやな思いをする主体はその人だ》

ということです。

A教諭がうつ病で、それをいやな思いをする人がいたとしても、A教諭には責任はない。当然ですね。

                       

                           [はじめに]  [1]  [2]  [3]  [4]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[]

ところで、今回たまたま二つのテーマを重ねたので、ちょっともったいないことになりましたが、いずれはまたもっと深く取り上げたいテーマなのです。

 

 

それは《心を鍛錬する》という問題。

 

ANNEさんが以前に書き込んでおられたのを見て注文し、私は、『パッション』というDVDを購入して、見ました。これは実に実にリアルでスゴイ映画です。イエス・キリストがゲッセマネの園で祈りをささげてから処刑されるまでの18時間を克明に描いたものです。私は、これを見て初めてイエス・キリストの生き方の素晴らしさに感動しました。

 

実は、このテーマは私が小さいときからずっともし自分ならできるだろうかとよく考えていたテーマでした。

 

たとえばディケンズの二都物語がありますよね。最後に、青年が自分が身代わりになって断頭台に上がります。あんな生き方。

 

或いはアウシュビッツで選ばれた見せしめの10人の囚人。彼らは餓死刑にされるのです。その一人の身代わりを申し出て餓死刑室に入っていったコルベ神父。

 

或いは、名前は忘れましたが昔車輪刑という拷問の上の死刑がありました。大きな馬車の車輪に体をくくりつけ両手両足の関節が車輪の外に出るようにします。そして順番に右手から大きなハンマーでぶち砕いていくのです。そして最後は胸をぶち砕いて息の根を止めます。こういう処刑法です。ある神父が妻と娘に別れを告げて、その後ずっと賛美歌を歌いながら、車輪に取り付けられます。そして手足をハンマーで砕かれながらも、賛美歌を歌うことをやめません。最後に生きの根をとめられるまで、ずっと賛美歌を歌っていたという話があります。

 

 

なんでこんな生き方ができるのか?私にとってはずっと昔から重大な不思議なテーマでした。

 

 

映画『パッション』を見たとき、初めてわかったのです。彼らは、イエス・キリストの生き方に感動し、自分もそれができるのか挑戦していたことを。

 

 

 

 

 

さて、最初の[1384]の書き込みの印象がかなり強かったようなので、切り離して考えていただいた方が良いかもしませんが、あの、『空の境界』のシーンも、決してあれだけが残虐だというものではありません。世界中いたるところで残虐な行為が行われています。ただ隠されていて知らない。特に日本は、世界中どこでもこんな感じで平和なんだと思っている。

 

それで、あのシーンの○○は、小説の中では「青年」なんです。ここを○○として「C1〜C6を入れてください」と書いたところが問題ですね。

 

しかし、A教諭は、土居中では、「死という言葉を絶対に口にするな」と教頭や学年主任から何度も言われたそうです。彼自身がそれに対してどれほど苦しんだがはさっき書いたと思います。

 

それで私が思うのは、《死》を学習することを生徒から遠ざけてしまってはいけないということです。巷にあれだけゲームやDVDで残虐シーンがあふれている世の中です。それだけに義務教育の間に、《死》について学習させることは絶対に必要だと思うのです。

 

 

 

私は、先日のつれづれ草に書いた《3段階の心の鍛練》のことを、実はいちばん描きたかったのです。ANNEさんがパッションのことを出したときに、掲示板に書こうかとも思いました。しかし、その時は、まだ私に機が熟していませんでした。つれづれ草35の時には自然にかけたので、機が熟していたのだと思います。

 

これだけは、不思議なもので、いつかけるのかは神のみぞ知る、自分ではわかりません。

 

ANNEさんのパッション紹介のときに書けなかったことが、なぜ今回すらすらとかけたのかと思うに、掲示板の書き込みのことがあったからだと今になって思います。

 

まだはっきりとした姿は見えませんが、「掲示板の書き込みであれが問題があると指摘されること」と、「それに対する私の小さなわだかまり」と、「死に対する厳かなテーマ意識」。これが、微妙なタイミングで結びついたのでしょう。

 

 

 

例の残酷シーンで、○○のところを、大山(大仏)としてみます:

 

--------------------------------------------

「、、、、、、、!」
うめき声は、そんなケモノじみた発音にしかならない。

大山の両腕は、すでに腕ではなかった。
まるで知恵の輪。それとも紙飛行機を飛ばすために捻られたゴム。―――いずれにせよ、二度と人の腕としての機能はしまい。
「た、た、助け、て………!」

大山は目前に立っているだけの少女から逃げ出す。
とたん、彼の体はふわりと浮いて、右足が膝から千切れた。
ぴしゃリ、とバケツの水を叩きつけるように血が迸る。倉庫のコンクリート壁に撥ねたその跡は、なにかのアートのようでもあった。

     (中略)

大山は地面に這いつくばり、首だけを動かしている。
両手を捻れて、右足はない。
足からの出血が地面を濡らす。

     (中略)

「ごめんなさい―――わたし、こうしないといけないから」
大山の残った左足が千切れた。
それでかろうじて残っていた彼の意識も途切れた。

 

--------------------------------------------

 

 

これは、心の鍛練の最初の段階です。自分の痛みを主体的に感じてみます。

さっき言ったように、私はこれまでよく考えました。

 

自分が車輪刑を受けるとしたらどうだろう?右手をバキッと砕かれる、それでも賛美歌を歌えるだろうか?

 

餓死刑の薄暗い地下室へ連れていかれる。水も食料も一切与えられない。だんだん弱って行く自分。その究極の苦しみの中で最後まで祈りを続けることができるだろうか。

 

 

 

 

さて、私は最初の残虐シーンでこう考えます。その浅上藤乃に、「誰それがどこにいるか答えよ」と聞かれたとする。私はその誰それがどこにいるか知っているとする。そして、それを答えなければ上のようになることが分かっているとする。それでも、私は答えることを拒否することができるだろうか?

 

 

こういう想像やったことありますか。(私はしょっちゅうやっていました。)

 

 

そのシーンの残酷さの程度にもよりますが、何らかの形で、痛みを自分のものとして考え、死の重さを実感させるという教育は必要だと思います。

 

                           [はじめに]  [1]  [2]  [3]  [4]

 

 

 

 

 

 

 

 

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 [1384] このくらいのお遊びはさせてください…  投稿者: ・  さん

は、理性的に考えれば即否定されるべき、書き込みです。

 

A教諭がシャツを出して学校内を歩いたのを、親身になって相談に乗ってくださっていたT校長先生が断固反対されたように。

 

 

しかし、精神世界においては、それが逆説的に必要なことがある。

 

 

 

 

私は、土居町の精神衛生環境においては、その逆説的問題提起が必要であると思うのです。

 

今の土居町、土居中はマインドコントロールの町、学校です。

 

逆説的な考えに対して、

《そのまま常識的に批判》

したりするのではなく、

《深くその奥を読んでいく》

ということを四国中央市民、とくに土居町民がやることができたら、変なマインドコントロールには、絶対にひっかかることがないと思うのです。

 

 

 

一般常識を重んじすぎるために、とくに土居町ではそこでの「常識」に外れたことをしたときの報復をとくに恐れ、その恐れがますます相手を毒気づかせ、そして今の土居町になってしまったような気がします。

 

 

 

                           [はじめに]  [1]  [2]  [3]  [4]

 

 

平成20年9月22日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【38】映画『学校』…「幸福って何?」

 

今週は、夜9時から、BS2で山田洋二監督の『学校』シリーズが放映される。

今日はその第1弾だった。もう何年も前に見て、涙が出たものだった。今回も、かすかに覚えているストーリー、しかしほとんど忘れていたストーリーの中に入り込んで、最後に、みどりが教室の後ろにしゃがみこんで言うところで涙があふれ出た。

 

今回は、もうひとつ猪さんのことを、「猪さんのどこが幸せだったんだ!!」と彼が叫ぶ場面に深く、私は想いをめぐらせ始めた。しかし、映画はどんどん進行していく。

 

「先生、幸せって何ですか?」

「みんなで考えよう。」

映画はいきなり荒れていく(最も大切な場面)。オモニや中国から変えてきた青年やみんなが叫ぶ。日本の社会の中で、毎日受けている差別の重荷の中で「どこが幸せなんだ!あんたになんかわからない!!」と。

いわゆる良家の娘である少女も、実は重たいものを抱えていた。不登校から、この夜間中学へきたのだった。

映画では、最後にクラス8人が、ひとつの結論を出す。

 

久しぶりに感動した。

 

さて、ところで、前回見たときにも感動したのだったが、今回は、解決していないものがあるのに気がついた。

 

「猪さんのどこが幸せだったんだ!?」

この答えは出たのか?

 

今なら私はわかる。前に見たときにはそのことに気づきもしなかった。

 

「猪さんは幸せだった!!」

 

なぜなら、

重たい商品をリヤカーに積んで坂道をハァハァ息を吐きながら登っていたとき、猪さんは幸せだった!!

覚えた字で、想いをこめてはがきに文章を書いているとき、猪さんは幸せだった!!

中央線の電車が走るすぐ横のアパートの一室で、ボロボロの体で横たわっているとき、実は、幸せだった。

 

なぜ、それが今私にわかるか?

 

それは、うつ病をやった私には、もう重たい商品をリヤカーに積んで坂道をハァハァ息を吐きながら登っていくことはできないからだ。やりたくてもできない。うつ病をやった私には、もう新しいことを学びたいという意欲がないし、仮に起こってもやってはいけない。

そして、ボロボロの体で横たわっている姿…それはかつての私の姿だったからだ。

 

みんな、みんな、何か重たいものを抱えて生きている。

 

「猪さんのどこが幸せだったんだ!?」

 

私の結論はこうだ。

 

「正直に人生を最後まで行きぬいたから幸せだったんだ!!」

 

どんなに重たいものを抱えていても、自分自身に正直に生きること。

そうすれば、最期のときが来たとき、きっと肉体を離れた魂が自分のボロボロの肉体を見て、そして今生の人生を振り返って見て、「幸せだった」と思うに違いない。

 

平成20年9月23日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【39】人間の尊厳と、死刑

 

この話は詳細に書くと大変な行数を要することになる。従って細部は読者の皆さん、それぞれで調べてもらうことにして要点だけを述べていきたい。

ただし、その要点というのがおそらく世界中を巻き込んで論議しても答えられない問題であろうと思う。

したがってこれは私の主観である。

 

この世の中には、残酷で残虐なことが満ちあふれている。

何回か前に書いたが、私たちはそこから目を離してはいけないと思う。

そこから目を離すことは、すなわち「自分ではなくてよかった」という差別心につながっていく恐れがあるからだ。

 

山口県光市で母子が殺害された事件を知らない人はないだろう。あの夫(名前を忘れてしまった)は、わたしも松山へ直接お話を聞きに行ったが、本当にしっかりした方だ。あの事件を通して、この世での使命に気づき、そして犯罪被害者家族のために大きな一歩を作っていった。

残虐な事件だった。あれがもし自分だったら。家に帰ってきてみると妻と子の姿がない。探してみると押し入れから…。何度考えても私の体が震えてくる。怒りで。あの方は、事件から終始一貫して加害者の死刑を訴えてきた。これについての私の考えを言いたい。

 

私も当然死刑であるべきだと思う。

 

さて、しかし世に死刑反対論者がいる。

 

ここで、人間の尊厳と死刑にという相矛盾する二つの事柄について考えてみたい。あの少年が軽い刑で終わり、そして恩赦で10何年後かにこの社会に帰ってくるとする。

その少年にとって、よかったと言えるだろうか。

その少年はその後どんな生き方をするだろうか。

 

 

話を別の事件に移してみる。これも日本中を震わせた事件で「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。女子高生がアルバイトから帰る途中、計画的に脅し、無理矢理ホテルに連れ込んで婦女暴行を加え、さらにグループの仲間の家の2階の部屋へ連れ込んで、それから40日間監禁することになる。性的陵辱の限りをを尽くして加えられ、最後には殴るけるなどの暴行で殺される。

 

この悲惨な事件は、加害者がすべて少年だったということで最大でも15年(?)の刑期で終わっている。こういう時、問題になるのは、加害者の、実名を出すかどうかという問題である。

 

私は、実名と写真を出すべきであると思う。それほどのことをやっているからである。少年だから保護されるというのはおかしい。さらに少年だから死刑がないというのもおかしい。

 

彼らは、少年であっても、死刑で当然であると私は思う。

 

ここでも加害者の立場に立ってその人間の尊厳と死刑ということについて考えてみたい。彼らの内の一人、神作譲(かみさくじょう)は、「検察側には反省を示している態度を見せたらが刑が軽くなるんだ」と平気でのたまっていたという。そして出所後、また犯罪を犯し、週刊誌に出たのが2、3年前のことである。

 

こういう人間の魂にとって、どうしてあげることがいちばんいいのだろうか。

 

神作譲(かみさくじょう)は、今もどこかで生きている。やっぱり世間をナメきって生きているのだろうか。それであと何十年生きるのだろうか。そうして死ぬときになって、魂はその人生をどう振り返るのだろうか。死んだあとその魂はどこまで落ちていくのだろうか。

 

私がいいたいのは、人生長く生きることが大切なのではない。どう生きるから大切なんだということである。とんでもない犯罪を犯して、人を「死んだ方がよっぽどましだ」と思われるような苦しみに陥れ、そして、平気で自分のことだけ考えて生きていていいのだろうか。

償いは?

償いがいるではないか?

 

したがって、犯罪被害者遺族の方の苦しみ以上に苦しんで、苦しんで、苦しんで、苦しみぬいて、罪を償っていく、そういう生き方をさせてあげるべきである。犯罪を犯してまった人の尊厳を尊ぶということは、そういうことだと思う。

 

人間社会は、これまでの歴史の中で死刑という制度を設けてきた。その必要があったからである。私は、犯罪を犯してしまった人間の尊厳という点から考えても、今、死刑という制度をなくしてよいとは思わない。まだ必要なのである。

 

自分に死刑という判決が降りて、自分が本当に死と向き合うことになって、その時間を与えられて、初めて、大いなる苦しみが神様から与えられる。とすれば、これは大いなる尊厳の光ではないだろうか。

 

何でもかんでも、「死刑をなくせ」というのは、ただの偽善である。

悪いことをしたら、はっきりと処罰する。そこに、慈悲の光が降りてくることが、多いにあるのではないだろうか。

 

平成20年9月24日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

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【40】『忍び寄るネットいじめ』(愛媛新聞)より

 

全国Webカウンセリング協議会理事長・安川 雅史さんの『忍び寄るネットいじめ:(副題)無法地帯の子どもたち』という記事が愛媛新聞に連載されていた。今日はその第12回、最終回だった。

その内容が、今回の四国中央市の掲示板告訴事件とあまりにも類似しているので、引用させていただきたい。

 

 

学校裏サイトに誹誘(ひぼう)中傷を書き込むとは、なんて卑劣で悪質な子どもだろう。そう思う人も多いでしょう。

しかし、現実はそれほど単純ではありません。

匿名性の高いネットいじめの特徴は、リアルな世界の弱者が、簡単に加害者になり得る点です。加害、被害の関係は複雑で、介入する際は慎重を期す必要があります。

例えば、仲良しグループの中で、いつも笑いものにされていた小学六年の女の子がいました。おとなしいタイプで、どんなにからかわれても、言い返すことができません。ストレスがたまった彼女は、いじめっ子の実名を挙げ、学校裏サイトの塙示板に悪口を書き込んでしまったのです。

書き込みはすぐに発覚し、被害者″たちの相談を受けた担任教師が、犯人捜しを開始。間もなく加害者″の女の子の名前が浮かび、本人も認めました。

ここからが教師の腕の見せ所でしたが、この先生は残念ながら失格でした。クラスの全員の自宅に「犯人が分かりました」と電話し、女の子の名前を吹聴したのです。

さらに、報告を受けた校長も驚くべき行動に出ました。女の子の母親に、電話でこう言い放ったというのです。「おたくのお子さんは犯罪者です。一体、どういう子育てをしているのでしょうか。明日、全校集会を開きますので、親子で謝罪をお願いします。全校生徒の前で、きちんと頭を下げてください」

学校や家庭でのストレスをネットに吐き出し、何とか心のバランスを保っている子どもは、今や珍しくありません。ある意味では、自分を守る自然な行為です。それがネットいじめという形で表面化したとき、懲罰目的で犯人捜しをしても、百害あって一利なしです。

なぜ、そんなことをしたのか。どんな気持ちだったのか。先生たちは加害者の子どもとしっかり向き合い、じっくりと話を聞く必要があります。 心のケアが必要なのは、被害者だけではありません。薄っぺらな被害、加害の関係に惑わされている限り、ネットいじめが減ることはないでしょう。

(全国Webカウンセリング協議会理事長・安川 雅史)

 

 

 

四国中央市教育委員会が、土居中学校幹部教師とその後ろについている正体不明の団体圧力に屈して、掲示板『真性土居中』を告訴したのは、2008年6月16日のことであった。

今もまだ告訴は取り下げてない。

 

私自身これには何度も警告を発してきた。だから繰り返さないが、この告訴はまさに、

>ここからが教師の腕の見せ所でしたが、この先生は残念ながら失格でした。クラスの全員の自宅に「犯人が分かりました」と電話し、女の子の名前を吹聴したのです。

に匹敵する行為であった。

範囲の広さから言えば、そして告訴という行為そのものから言えば、もっとひどい。生徒を犯人として探すように警察に求めたのだから。

教育関係者が、生徒を売る…。なんと悲しい出来事だろうか。

   

 

>学校や家庭でのストレスをネットに吐き出し、何とか心のバランスを保っている子どもは、今や珍しくありません。ある意味では、自分を守る自然な行為です。それがネットいじめという形で表面化したとき、懲罰目的で犯人捜しをしても、百害あって一利なしです。

>なぜ、そんなことをしたのか。どんな気持ちだったのか。先生たちは加害者の子どもとしっかり向き合い、じっくりと話を聞く必要があります。

 

この言葉を、市教委と土居中教師はしっかりとかみ締めて欲しい。

 

なぜ、そんな書き込みをしたのか。どんな気持ちだったのか。先生たちはその子どもたちとしっかり向き合い、じっくりと話を聞く必要があります。

 

陰で陰謀と策略をめぐらし、自分たちの思い通りにしようとする今の土居中では、絶対にできないことである。

根本的に、教師として、いや、人間としての生き方を反省しなおさなければならないのだ。

これは、本当に転生かけて生まれ変わるに等しいくらいの難題であろう。彼らにとっては。したがって、周囲が彼らに厳しく「NO!!」の壁をたててあげて、彼らが、この世で生まれ変わらずを得ないような環境を作って差し上げることが、必要なのである。

 

その意味で、四国中央署は日本一優秀なすばらしい警察であった。

告訴をまともに受け付けて処理するということをしなかったからだ。

 

四国中央市の教育界は、警察署に救われた。

 

市教委が出した告訴は早く取り下げるべきである。

 

生徒たちが、そして心ある教師たちが、何とか保っている心のバランスを、ムリヤリ崩すというとんでもない凶行を続けている土居中に、早急に、手を入れるべきである。

 

 

平成20年9月24日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

                         戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【41】映画『学校V』を見て … 愛媛県のための映画

 

 

昨夜、『学校V』を見た。最後に、大竹しのぶ扮する主人公が手術室に入っていくときにクラスメイトは集まってくれた。あのシーンに感動した。ものすごく密度の高い内容の濃い映画だった。それについて書きたい。

 

私はあの映画を見て、考えた点が、大きく3点ある。

 

 

 

最初に―。   ※   ※   ※   ※   ※   

 

見た人も多いと思うが、内容をざっと紹介してみる。

 

大竹しのぶ扮する主人公(映画の中でも名前は忘れたのでこのように呼称する)に、次から次へと試練がふりかかる。まず働き先での雇用解雇。

そこでハローワークに行くが、45歳以上の正社員の求人はない。「アルバイトではない。正式な社員になりたい」と言う彼女に、技能訓練校が紹介される。そこで彼女は半年間勉強して資格試験に合格してそれから就職先を探すことになる。

 

彼女はおそらく幸せな結婚をしたのだろうと思う。そして生まれてきた子ども。

しかし、その子供が2歳半の時に何かおかしいということで病院で診てもらうと、自閉症ということが分かった。そして夫は、10年前に過労死で亡くなる。

今、女手一つで16歳になった自閉症の我が子と二人で暮らしている。その自閉症の我が子が、新聞配達のアルバイトをしているが、自転車がうまく運転できなくて雨の日などよく転ぶ。

 

ある雨の日、転んで新聞が地面に散乱する。『雨に濡れた新聞を配ってはいけない、乾いた新聞に取り替えた方が良い』と彼なりに判断して、それを配ったのだが、それは古い新聞だった。苦情の電話が殺到していると配達所から電話がかかる。彼女は、1軒1軒お詫びを入れながら回っていく。

 

ここまでに、すでに主要なシーンの背景で大変重要なシーンを何カ所かで山田洋二監督は入れられている。それは自閉症の彼が、新聞を配達しているとき、奇妙な言葉を口にしながら配達している。それを2人の主婦が見て、顔を見合わせて「なに、あれ?」というような顔をするのだ。そしてこの自閉症の彼に対する最もひどい言葉が、雨の中で謝りに言った一軒の家庭で、「家の子は受験期なんです。お宅のお子さんが何かしゃべりながら配ってくるのが怖いと言ってるんです」と言うところである。

 

自閉症の彼はある日、交通事故で入院する。4人部屋なので、できるだけ静かにするように彼を説得する。そして、ナースステーションへ彼のことで気をつけてほしいことをお願いしに行く。その時、看護師さんに話をした中で一つ彼女はこういうことをお願いする。「ときに理解しがたい行為をすることがあるかもしれませんが、必ず彼の中には言いたいことがあるんです。だからその心の奥を聴くようにしてほしいんです。

 

息子を看病しながらも学校の勉強。さっぱり理解できない学校の勉強。それを助けてくれたのが、小林稔侍扮するクラスメイトだった。次第に彼との心の交流が深まっていく。

息子の看病で十分に授業に出られない彼女に、毎日彼は来て勉強を教えてくれた。息子が退院できる頃には、お互い、無意識のうちに『一緒に暮らしたい』という思いが生じていたのかもしれない。

 

しかし、その思いも、はかなく終わりを告げる。彼の別居している妻が、事業失敗から自殺未遂をしてしまうという出来事があったのだ。「2、3日したらまた会おう」と言う彼に、彼女は「もう来ないで。奥さんのそばにいてあげて。」と別れを告げる。それが、資格試験に合格して無事卒業式を終えて、打ち上げをしたあと二人で会おうと約束していた夜のことであった。

 

彼女の就職が決まった。

 

しかし、運命の女神は、まだこれでもかというように彼女に試練を投げつける。定期検診で引っかかった彼女は精密検査を受ける。その結果は乳がんだった。

その施術を受けに手術室へ向かう彼女。そこで仕事の合間を縫って連絡しあい駆け付けてきた技能訓練校でのクラスメイト達。別れを告げた「彼」もその中にいた。手術室に入る彼女。手術中のランプがつく。クラスメイトが三々五々帰っていくなかで、小林稔侍扮する「彼」だけは椅子に座って残り、自閉症の息子と一緒に手術が終わるのを待つ。    病院の外は雪。 

 …映画は終わる。

 

 

 ※     ※     ※     ※     ※   

 

 

 

私は、これを見て思ったことが3点ある。

 

1点目は、彼女の人生そのものについてである。息子の自閉症、夫の過労死、勤め先の解雇、…なぜこんなに試練が次々とふりかかってくるのだろう。まさに、ギリギリのところで生きているではないか。まじめに、一生懸命生きているのに、それが危ない綱渡りをしながら生きているようで、何かあったら、これまで支えてきた守ってきた母と子の生活は一気に崩壊していきそうだ…。

 

 

 

その数々の試練の中でとくに二つ強く私の心の中に残ったのが、映画を見て思った、残り2点である。

 

 

 

 

2点目は、自閉症の少年に対する地域の人々の偏見差別。この映画は、実にここをよく表していた。自閉症の彼を支えてくれる友達や新聞配達所の先輩がいることで救われている。

しかし、社会は冷たい。他の人とは違った奇妙な行動をする自閉症の彼に対して「怖い」という強い視線を投げつける。さらには言葉を投げつけるのだ。

つまり、この社会の日常生活における常識、majorityは「自閉症の子は怖い」なのである。

 

 

私はここの映画の中で起こった事件のなかで、これとそっくり同じことを思い出した。

 

「自分はうつ病だ」とカミングアウトしたA教諭に対して、S教頭が

生徒が怖がっているから先生ウロウロしたらいかん。

地域が、『うつ病の先生を教壇に立たしとんか』と言ってきたらいかんからうつ病だとは言うな。

と言ったこと。

 

また、1月17日に、A教諭は、M旧校長とK前次長(背後にS教頭と幹部連中とHrada議員)によって不安障害を発症させられた。その翌週、K前次長はA教諭の家へいき、「まごころ教育のサイトを作ったのがA教諭ではないのか」と決め付けて高飛車に出る。そして否定する奥様についうっかり(?)「うつ病の人は生徒に暴力をふるったがいかんから」と言ってしまう。奥さんは即座にそれを強く否定された。

 

さて、私はここで重大な問題提起を一つしなければならない。

 

土居中学校のS教頭が、A教諭のうつ病に対して最も強く差別意識と偏見を持っている。そして、「ウロウロしたらいかん。」この彼の口調を、そっくりそのまま、校長も、彼の取り巻き幹部連中も、そして指導的立場にあるべき次長も使っているのである。そのK前次長は、現在ある小学校の校長をしている。

 

これは、四国中央市のたいへん由々しき問題ではないだろうか。口ではきれいごとを云いながら、実際には自分が差別偏見の塊である。この程度の認識しか持たない者が、学校の校長や教頭をしているということは、いくら言葉で子供達に「差別偏見はいけない」と言っても、子供のまごころに伝わるはずがない。むしろその逆の影響を与えてしまうであろう。

 

そして、人間だから失敗することがあるのである。差別と気づかずに差別をしてしまうことはあり得るので。大切なのはそのあとである。「差別を受けて辛いんだ」という言葉を聞いて、自分自身の心にフィードバックし、そして心から謝罪すること。これが最初になされなければならないことではないか。

 

しかるに、もう1年以上前にパワハラとうつ病差別の被害を受けたA教諭は、その『救済のお願い』(A教諭の手記)を市教委に提出し、そして法務局に被害届も出しているにもかかわらず、9月25日本日に至るまで、彼らから一向に謝罪はない。この現実。

 

恐ろしいことだとは思わないだろうか。

 

 

 

そしてこの映画を見て、私は土居中問題を取り巻くそのパイの層の厚さがさらに深く見えてきたのである。

その一つが《日常の常識》。

映画の中にあったように、その社会の人々が、自閉症を含む精神疾患の患者に対して異常な偏見を持っているとき、それがその社会の《日常の常識》となる。

 

第一次世界大戦後のドイツでは、ヒトラーが政権を握ると、ユダヤ人に対する《日常の常識》が、あの大量虐殺ホロコーストを生んだ。

《日常の常識》が、いかに怖いものであるかを我々は認識しなければならない。

 

そして特に、教育界であればそのトップに立つ者がその恐ろしさをとりわけよく認識しておかなければならない。

日常の世界と、精神世界とは逆の関係にあることが多い。

すなわち、

《日常の常識》=《精神世界の非常識》

である。《精神世界の非常識》とは、精神が病んでいろいろな心身疾患を引き起こすことである。生徒であれば最終的に不登校という現象に至る。

 

つまり、教育委員会は、ただ口だけで不登校を減らせろなどと言っても意味がないのだ。その根本原因、すなわち「なぜ不登校になるのか」、その精神世界に目を向けなければならない。

 

私は、「不登校」とか「引きこもり」とかいうのはただ現象面だけを見た冷たい言葉だと思う。その内面をみるべきである。

デリケートな個人の精神世界が、正常を保とうとして必死になって、その結果「不登校」や「引きこもり」が生じている場合が多くあると思う。とするならば、我々は次の公式を頭に思い起こさなければならない。

《精神世界の常識》=《日常の非常識》

 

先ほども出たが、自閉症の少年が訳がわからないことをつぶやきながら歩いていたら、それを冷たい目で見るのが《日常の常識》である。そこで、それを覆してみるのである。自分たちとは変わった人がいても、常にその奥をみるようにする。心の奥をみるようにする。心の奥の声を聞くようにする。こうすることで、社会は温かくなる。すると、冷たい《日常の常識》だったものが、もはや《日常の非常識》に変わってしまうのだ。

 

今の冷たい日本社会に於いて、冷たい《日常の常識》が《日常の非常識》になると、どうなるか? 温かい世界になる。そうすると精神世界で正常を保とうとして必死になっていた「不登校」や「引きこもり」の子供達は、やっと精神世界で常識にマッチすることができるようになって、心が平穏になってくる。

 

 

 

 

部落差別以外は差別じゃないと豪語してはばからない土居中学校のゆがみにゆがんだ同和教育が、冷たい冷たい、狂気にも似た冷たい《日常の常識》を作り出してきたのである。

土居中学校のゆがみにゆがんだ同和教育を、そのように認識して、見直すことは、今後処分の降りた後しなければならない必須の作業である。

 

 

 

 

 

 

 

次に、なぜ、うつ病差別事件がいつまでも解決しないのか。ここに焦点を当てる。それは、指導すべきがわが毅然とした態度をとらないからである。つまりこの場合は、県教委が毅然とした態度をとらなければならない。

 

まごころ教育が世に出たのは2月だから、もう半年以上前に県教委も数ヶ月以上前には知っているはずである。しかし何も行動を起こさなかった。そのことが混迷が高まる事態を引き起こしている。

 

連日のように殺人事件が起こるが、それで警察が何も動かなかったとしたら、何とかなるだろうか? 教育界で差別事件が起きた、教師が差別事件を起こした。これは警察の領分ではない。県教委が処罰すべき問題。しかし、何も動かない。だから、いつまでも続くのだ。

 

そこで我々は、昨日土居中正常化大改革案を出した。

最初に処罰ありきである。

さて、県教委にそれができるであろうか。?

私はできると信じたい。

しかし、ここで問題になってくるのが例の《日常の常識》である。抵抗勢力はこの《日常の常識》で攻めてくる。したがって、県教委は、自らの心を鍛錬して、彼らの《日常の常識》の口車に乗せられてないようにしっかりとした自分を持っておく必要がある。

いけないものはいけないのである。

是は是、非は非。

 

つまり、この改革案が実行できないとすれば、それはひとえに県教委のトップに立つ人物の心の中の問題。その心の弱さが《日常の常識》に負けて、決断を下せないということになるのである。

(実際に、最も考えるのは、「決断を下した時にどんな反響を呼ぶだろうか?自分が非難されやすまいか?」ということではないだろうか?)

 

 

歴史が繰り返されないように、責任ある立場についている方は、英断実行をお願いしたい。

 

ナチスドイツは一気に第一政党になったのではない。何度も何度も選挙で敗れ、敗れ、破れながら、次第に台頭していったのだ。ドイツの《日常の常識》がそれを求めたからである。さらにナチスドイツがその危険路線を歩み始めたころ、世界諸国は、それを諌めようしなかった。「まぁいいだろう」と見ているうちに、ドイツ国内外では悲惨なホロコーストが行われていた。

土居中のS教頭の2007年度4月のA教諭に対する発言には、これと同じ危険なものが見える。「地域の偏見」という《日常の常識》を味方につけて、土居中支配を固めようとしている。

 

早急な処分が必要である。

 

 

 

 

 

 

最後に、『学校V』を見たの感想の3点目を述べたい。

これはちょっと言葉を気をつけなければいけないのだが、私の率直な感想だと思って聞いて欲しい。大竹しのぶ扮する主人公が、番組最後の方で、「乳がん」を宣告された。

 

私はそれを聞いたとき、「よかった」と思ったのである。

 

これはおそらく普通の人には分からないだろう。

私は映画を見ながら、彼女うつ病で倒れやしないだろうかと心配していた。うつ病で倒れてしまったら、本当にもう動けないのだ。がんばれないのだ。どうしようもないのである。そうすると最悪の場合、親子心中に追いつめられることもあるかもしれない。この場合どうだろう?自分が先飛び降りたら、子供が残されてしまう。『子供を先に!』恐ろしい考えだが、昨夜、寝るときに、私は映画を振り返りながらそんなことを考えた。子どもを先に突き落とした。そこで自殺衝動が少し弱まった。子供を助けに行く。でも子供はもう死んでいる。…こんな悲劇が起きることもあり得る。

 

うつ病の苦しみを味わったことのある私にとっては、癌よりもうつ病の方が怖い。

だから、「自殺対策基本法」が出ているのである。その「大綱」が出ているのである。

 

話を戻すがそれにもかかわらず平気で差別・偏見で、部下を追いつめていくとんでもない管理職がいる。この状態を許しておいていいはずがない。

 

この状態を、これ以上静観するならば、上記の文は次のようにさらに長くなる:

『話を戻すがそれにもかかわらず平気で差別偏見で、部下を追いつめていくとんでもない管理職がいる。そしてそれを平気でのさばらせておく県教委がいる。』

 

 

今は、S教頭と密着していたHrada議員が、「土居中は間違っている。自分はそう注意してきた」といっているそうである。選挙前には、何が正しくて何が間違っているか、はっきりと見えるものらしい。

 

だから、処分は今!!

 

A教諭の件でさまざまな犯罪を不始末を犯し、そうしてついにH教諭をまでも心身疾患に陥れた、張本人たちを処分するのは、当然の仕事なのであって、何もしないほうがおかしいのである。

 

私は当たり前のことを言っているに過ぎない。

(なかなか周囲の常識人たちにはわからないのだが…)。

セクハラは即処分、これは《日常の常識》になった。

いずれ、パワハラは即処分、これも《日常の常識》になる。

 

愛媛県が最初にそれをやるよう、神様が手はずを整えてくださっているというわけだ。

 

 

処分を受けた人たちももちろんのこと、傷ついたA教諭 、H教諭、Bさん、Mさん、…、そして、何もしなければこれからも同じように傷つけられるであろう悲惨な未来が待っていた多くの第3、第4、…の被害者たち、そして、今現在傷害を持って苦しんでいる多くの人々、すべてに神の光が当たるようになるのである。

 

愛媛県が、愛と慈悲の光で満たされますよう、願ってやまない。

 

選挙前のこのチャンスの今という時を逃さないように…

 

 

平成20年9月25日

               まごころ教育友の会代表

                   大山大仏

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