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まず、以下の資料について説明しておきます。

これは、A教諭自身が昨年7月下旬に作成したものです。

 

『  土居中学校におけるパワーハラスメント

(2007年4月〜7月)

について        』

 

という題の文書で、副題が『救済のお願い』となっていることにご注目ください。

 

A教諭は、1学期、ギリギリの状況に追い込まれました。そして、終業式の日、不審者扱いをされ、精神的にかなりショックを受けるのです。

 

「おそらく、このような形で整理したものをつくって見てもらわなければ、わかってもらえないだろう」と思ったA教諭は、それまでつけていた日記を基にして、この文書を作成しました。

 

そして、ある機関にこれを提出して、人権救済を願い出ます。

 

 

A教諭は、認知療法を自分流に工夫したものや、Meditationと言うものや、その日あった出来事について感情を表出させるものなど、数種類の日記をつけていました。すべて、うつ病の再発防止のためです。

 

それらをまとめたものが、以下の文書です。

 

 

私は、去年の夏に、A教諭から直接聞き取り調査をはじめた時、これらを見せてもらいました。膨大な量の日記には、赤裸々に、折々の事実とそれに伴った感情が書き込まれていました。

 

授業にかける情熱や生徒との1時間1時間の授業の楽しかったこと。

逆に、教職員の人間関係については何も分からない中で、初めは「何かおかしい」だったのが、次第に追い詰められていく様子。

これらが対照的に、生々しく綴られていました。

 

 

 

私たちが先にこのサイトでまとめたものは、これらをもとにして、また直接聞き取ったり日記を見せていただいたりして、まとめたものです。

 

実際に、一日一日、差別とイヤガラセで巧妙に追い詰められていく苦しみは、当の本人でなければ分かりません。私たちがまとめたものよりも、A教諭本人が書いたものの方が、少しでも、差別の生々しさが伝わることでしょう。

 

 

私たちは、A教諭の許可をもらって、掲載することにしました。

 

 

(なお、この文書の存在および内容については、土居中学校2007年度幹部連中は、みな知っています。去年の11月中旬に、彼らの知るところとなりました。なぜか?と推測するに、2学期以降も、彼らのA教諭に対する精神的追い詰めは激しさを増し、関係機関がこの文書を彼らに見せることによってでなければ、彼らのイジメの暴走は止まらないほどだったのだろうと思われます。

この文書の存在を知った教頭らはA教諭のことを陰で「おとろしいヤツじゃ」といい、名前は呼ばず「アイツ」呼ばわりするようになりますが、すくなくとも、2学期のイジメの暴走は止まります。イジメたいのにイジメられない彼らにとって、1.16事件は、「待ってました」というものだったのです。それで、教頭「殴ったんか?」 2007年度3年学年主任「殴った」 教務主任「よっしゃ。警察じゃ。」と校長の許可も得ず、警察を呼びます。平行して教頭は原D議員を呼びます。

つまり、1.16事件は、イジメたいのにイジメられないで鬱積していた彼らのエネルギーが引き起こした事件だったのです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


土居中学校におけるパワーハラスメント

(2007年4月〜7月)

について

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

救済のお願い

この文書の目的は、

現職場における私へのパワーハラスメント(イジメ)に対する、救済のお願い

です。

 

この文書の取り扱いについては、下記の意味において、慎重にお願いいたします。

 

この文書の存在および、内容のすべてまたは一部が、学校現場関係者に知られないようにお願いいたします。

それは、どのようなルートで、土居中の5人(校長、教頭、教務、学年主任、同推)に流れるか分からないからです。

そして、彼らがそれを知った場合に、私に対するパワーハラスメント(イジメ)が、今後、よりいっそう陰湿に、かつ悪質になる恐れがあるからです。

 

土居中管理職と接触する折、もしも私のことが話題に上がる場合には、「本人(やその妻)が(パワーハラスメントについて)こう言っていた」というようなことは、おっしゃらないようにしていただけたらと思います。

 

よろしくお願いいたします。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


目    次

 

1. 3月〜4月当初の病状                                                  

 

2. 土居中で受けたパワーハラスメント                                                            

(1) 4月2日(月)4月3日(火)4月4日(水)4月5日(木)4月6日(金)4月8日(日)4月9日(月)                                       

 

(2) 4月10日(火)  4月11日(水)     4月13日(金)                            

 

(3) 4月26日(木) 4月27日(金) 4月30日(月) 5月2日(水) 5月3日(木)         5月7日(月)〜5月25日(金) 5月23日(水) 5月28日(月)  5月31日(木)                 

(4) ここまでの振り返り

 

執行部註1:

 

(5) 6月1日(金) 

 

(6) 6月4日(月)           

 

(7) 6月8日(金) 6月8日(金)〜6月21日(木) 6月19日(月)6月21日(木) 6月22日(金)                        

        

(8) 6月27日(水) 6月29日(金) 6月30日(土) 7月1日(日)        

7月2日(月) 7月7日(土 )7月8日(日) 7月9日(月)                               

 

(9) 7月10日(火)7月11日(水) 7月12日(木)

 

(10) 7月13日(金) 7月15日(日) 7月16日(月) 7月17日(火)               

 

(11) 7月20日(金)                                                                                                   

執行部註2:

 

重要資料(教頭の差別意識と巧妙な悪質さの実体)について

 

(12) 7月17日(火) 午前11時20分ごろ 校長室で教頭と校長から                                              

@ 《うつ病》に対する偏見と 《うつ病罹患者》への差別心について              

A 行為の悪質性について                                                                                

 

3. ○○○へのお願い                                                          

 

付記                                                                                

校長への要望                                                                                                    

 

執行部註3:

 

 

 

 

 

 

                     以上

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1. 3月〜4月当初の病状

 

 

昨年秋より、心身症の症状が出て悩まされるようになったが、主治医はそれは「うつ病の好転」のしるしだと説明してくれた。

体は苦しかったが、「順調によくなっている」との主治医の言葉に励まされ、1日1日を乗り越えていた。

 

そんな中で、突発性難聴を発症し、3月20日から3月30日まで入院することになった。入院中、自律神経やホルモンバランスの異常が一層ひどくなり(ステロイド剤の影響と思われる)、ほんのかすかな空気の流れに対しても体が過敏に反応して冷えてしまい、また異常発汗のため拭いても拭いても汗は止まらず、さらに体温が下がってしまうという悪循環を頻繁に繰り返すようになってしまった。

体が冷えた状態を放置しておくと、そこから鬱に陥ることを今年の1月に体験したため、これについては十分注意するように主治医から言われていた。

 

主治医は、自律訓練法を教えてくれた。これをマスターしたおかげで、異常発汗が始まっても、しばらく体を横たえて自律訓練法をやれば異常発汗も収まることが分かった。

 

こんな状態だったので、妻は心配して、「辞令を代わりに受け取りに行く」と言っていた。けれども、今年こそは完全復帰を果たしたいと思っていたので、自分で取りに行った。

ここから土居中における勤務がスタートした。

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2. 土居中で受けたパワーハラスメント

 

4月2日(月)

妻に運転して行ってもらう。9時10分ごろ校長室に呼ばれる。教頭と教務が同席。

「先生には、3年生の数学を持ってもらおうと思っとる」と言われる。大変うれしい気持ちと、今の体の厳しい現状とを伝える。

この日の印象としては、どちらかというといい方だった。私の方の現状を伝えたとき、校長はしばらく「うーん」という感じで黙り込んだ。受け止めてくれたのだと思った。しかし、私が「自律訓練法をやれば対処できるので、土居中でそれができるような一人こもれる部屋はないでしょうか?」と聞いたとき、それに対する答えはなかった。また「みんなにもいろいろ受け持ってやってもらいよるきん、先生だけなんちゃせんとおる、いうわけにはいかんしな。」といった。

 

この日帰宅して、「やっぱり私の状態を教職員全員に伝えておくあのプリントを作って配布した方がいい」と思った。それで作り始めたが、途中で疲れたので打ち切る。

 

 

4月3日(火)

この日も妻に運転していってもらう。この日は冷えた。朝校長と学年主任に、昨日作ったプリント『うつ病とともに』、『私のうつ』を渡す。それと「職員会、途中で出させてもらいます」という。青い毛布をかぶって職員朝会に出た。それから会議室へ行く。会議室へ着くなり、上半身の服を着替える。着替えがその1枚しかなかったので、妻に電話して持ってきてもらうように頼む。

 

9時から職員会。自己紹介。前任校でうつ病を発症してまだ寛快していないということ、今度こそ教壇に立って生徒と授業をやりたいということなどなど伝える。

9時半ごろ会議室を出て妻に乗せて帰ってもらう。気分悪くなる。自律訓練法をする。何とか元気を取り戻し午後また運転してもらって学校へ行く。13時30分から校長室で学年会。校長にお礼を言う。その反応が冷たいのが意外だった。校長「学校内におるんかどこにおるんか分からんけん、どこにおるんかをはっきりさしてな。」

 

 

4月2日、3日と初顔合わせから2日間の間で、親身に病状を気遣って声をかけてくれるようなことは一度もなかった。伝える必要があるからと思って伝えようとしても、すぐに目をふせて自分の仕事を続けるので、「忙しい時に迷惑をかけてはいかんかな?そのたびに、いちいち校長に相談したりせずに、自分で考えて身体の対処をしていかないかんかな?」と考える。

 

 

 

4月4日(水)

8時25分、校長室へ行き、

○今日職員写真に出てみようと思うこと(体が冷えるので、職員写真には出られない事を昨日伝えていたので)。

○職員会は出られなくて帰るだろうこと。

を伝え、

○どこか、ひとりで静かにこもって休めるような場所がないかということ。

○職員会議中、リクライニングの椅子に座るとか床に横になるとかしてもいいかということ。

を訊く。

私の今後の体調にとって最も大切な、《静かに休めるような場所》については「ないなあ」と一言。

職員会議中のことについても「ちょっと目立つけんなあ(ダメ)。」昨日の印象と同じだった。

 

職員写真のとき、何人かの先生が声をかけてくれたのが嬉しかった。これまでの、校長、教頭、教務の冷たい反応とはまるで違っていて、土居中へ来てはじめてほっとした。

 

 

4月5日(木)

年休。中央病院耳鼻科で診察。4000デシベルのところが相変わらず聞こえない。通院は継続、薬も継続とのこと。

 

 

 

4月6日(金)

年休。大阪のYクリニックへ行く。一番聞きたいことは、「少々ムリをしてもいいのか、それともこれまでどおりムリはしてはいけないのか?」ということだった。ムリはしてはいけないとのこと。

 

 

4月8日(日)

どんなに考えてみても、新任式でスーツでステージに立って挨拶をできると思えない。それほど、体の状態はひどい。防寒着を着たままでもいいかどうか、校長に頼んでみるしかない。

 

 

4月9日(月)

起きる時刻をできるだけ遅くし、下着を何枚も重ね着し、防寒着を着こんで家を出る。新任式。防寒着を着たままステージに上がれないかどうかを聞く。しかし、「防寒着を着たまま体育館に入ってはならない」との答。なんとか挨拶をし終えてすぐに降壇する。

ようやく昼休みになって、家に帰り汗を拭くが、異常発汗が収まらず4時頃まで拭いたり着替えたりを繰り返す。

 

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4月10日(火)    

8時30分学校に着く。第2校時に予定されていた学年集会が、第1校時に変更になったとのこと。汗が出ていたので、すぐジャンパーを脱いで着替えようとする。その時教頭が、

教頭「河村先生、昨日何時に帰った?」

私「えーと、1時前」

校長「ちゃんと言うてから帰ってな。」

私「ハイ。」

校長「それ着替えるのも更衣室で着替えるように。」

 

そのとき私は、学年集会に遅れないようにと急いで着替えていた。また、この時点では病休など取ろうとは思ってもない(自分のペースでゆっくりやれるのなら問題なく更衣室でできるのだが)。そうすると、私の体の状態についてはきちんと知ってもらっておかなければ、今後やっていけないだろう。そう感じた。まだ、私の体は普通の状態には回復していない。

 

これまで、そのことで、ゆっくり校長に話をしたかったのに、聞こうという姿勢のかけらも見せてくれなかった。私は気を遣いながら、「そういう私の個人的なことを聞いてもらうと時間がかかる、迷惑がかかるから、この忙しい時に、やっぱり事務的に用件だけ伝えたほうがいいんだろうか?」そう考えていた。

 

けれども、その時、「これはきちんと伝えておかなければいけない」と感じて校長に言った。

私「そのことも含めてお話ししたいから、校長先生、あとで時間とってください。2時間目かまんですか?」

 

そして学年集会で生徒に挨拶をする(これも、あとで1学期中、教頭が揚げ足取り使うことになる。私が、自分がうつ病であることを公表したので)。

 

2時間目。

初めて校長に一対一で、話を聴いてもらえた感じがした。けれどもここでも異様なことがあった。私が2時間目に校長室へ入ろうとすると、すでに教頭と教務が校長室にいて、同席しようしていた。私は校長と一対一で話をしたいからと言って教頭と教務の同席を断った。

まるで、校長のボディーガードでもしてるかのような教頭と教務の動きに大変異様さを感じた。それと、そこまで私が言わなければ、胸を開いて聞こうとはしない校長の態度にも、今後の勤務に対して何か不安なものを感じた。

 

 

この日は、嵐のような日だった。

 

この後校長室を出てきた私に、学年主任が、「ちょっと」と声をかけてきた。学年主任に導かれるままに更衣室に入る。私のことを心配して話を聞いてくれるのだと思った。それで私は苦しい自分の病状などを話した。それを聞いてくれていると思っていた。ところが途中からどうも感じがおかしい。

私「結局俺のことを心配して話聞いてくれよるんではなくて、学年主任として『ちゃんと勤務せえ』ということを言よんかい?」

と聞くと肯定も否定もしなかったので、もう一度聞くと「そうだ」といった。

 

もうくたくたに疲れて早く帰らないといけないと思っていると、生徒指導主事が、「一緒に教室を見に行こう」と言って来る。一見親切そうなので「ありがとう」とは言ったが、とてもそんなゆとりがないので、断って帰る。

 

 

この日は、校長、教頭、教務そして学年主任、生徒指導主事から一斉に責め立てられたような1日だった。帰りながら車の中で、「退職するしかないんか」と胸が詰まるような感じがした。《退職》という文字が大きく頭の中にのしかかってきた。重苦しくて、鬱がひどかったときのような悲壮感がまた胸の奥から上がってくるような感じだった。

帰宅してにすぐ病院を予約してもらい、翌日行くことにした。

 

 

 

4月11日(水)    

妻に乗せてもらってM総合病院に行く。

ドクターは

このまま行けば鬱にまた陥るでしょう。病休を取ったほうがいいでしょう。」と言い、主治医と相談する事を強く勧めた。

帰宅してすぐに、大阪のYクリニックを予約する。

 

 

4月13日(金)    

大阪のYクリニックに行く。診察。「2週間病休を取った後時間休で病休を取りながら様子を見よう」ということになる。また、「病状にとって危険な人との接触はできるだけ避けるよう」に言われる。診断書をもらって帰る。

18時過ぎ、学校に電話。管理職はいなかったので学年主任が出る。学年主任に診察結果を伝える。その時、学年主任から、私が『TTではなく少人数で授業に出るように』と県からTTの差し戻しがあったことを聞く。そのことを聞いた時とても嬉しかったので学年主任に気持ちを語ったが、通じなかったので、後悔した。

 

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4月26日(木)    

5月1日から少人数学級で私が授業することになっているので、授業の打ち合わせをするために学校へ行く。妻に乗せていってもらう。まだまだ、体温の調節異常が続いているので、防寒着や毛布などを持っていく。せいぜい20分くらいだろうと考えていた。

13時30分。校長室にて。校長に挨拶。教頭がいきなり妻と私の前に座って、プリントを広げて解説し始める(20分から30分)。想定外だった。体が冷えてかなり参ってくる。どうしても冷えて防寒着だけでは間に合わないので途中から毛布をかぶって話を聞く。その後、同推と教務から、数学の授業について説明を受ける。この時、はじめは二人とも好意的だったと思う。しかし、私の体の方は限界に近づいている。それでも、私にとって授業に必要なもの(生徒のふりがなを書いた名簿など)がなかなかもらえない。それで、『同和教育』という言葉を出して苦しい状況を分かって欲しいと訴えた。その時、突然教務と教頭は怒り出し、苦しい私もそれに応戦し、妻はオロオロする、校長は何も言わない、そんな状況になってしまった。1時間以上。疲れ果てる。体調がこんなので、「授業が安定して続けられるようになるまでは、8時半に出勤して授業のみやる」ことの了承を貰う。

 

4月27日(金)    

C病院耳鼻科、診察。薬が1つ(プロサイリン)減った。抹消血管拡張剤なので、これが1つ減ることにより、異常発汗が和らぐのではないかと期待できる。

 

 

4月30日(月)    

学年主任から電話あり。ベッドに横になったまま話をする。いつもの口調で、こちらを心配しているようなことを言いながら、実は「4月26日に校長室で怒鳴り合ったことに対して謝れ」というのが目的だったようだ。明日から授業なので、生徒について配慮するようなことを教えてくれるのかと思ったら、それは全然なかった。(現在に到るまで生徒の配慮事項はまったく教えてくれてない。)

 

 

5月2日(水)

授業復帰第1日目。妻に乗せていってもらう。

朝8時30分、学校到着。職員室に入ると教務がいたので、私は「こないだ、ごめんよ」と言った。しかし教務は「なぁに言よん!」とイヤらしそうに言っただけだった。教務も、それからは私が避けなければならない人物となる。

 

1時間目3年5組。とても楽しく授業ができる。生徒との出会いに感謝。9時30分待機していた妻の車で実家へ走り、素早く着替えて横になって休む(30分間)。学校に戻って、3時間目3年3組、4時間目3年2組。どちらも楽しい。12時50分帰宅。昼食をとって休む。14時25分、学校着。6時間目3年1組楽しい。15時30分に学校を出る。16時帰宅。

学校内で体を横たえて休むことを許されてないので、妻がいなければ、この日はとても1日やりこなせなかっただろう。妻は何度も自宅との間を往復。この1日だけで百キロ以上走る(妻による送り迎えは、結局1学期いっぱい続くことになる)。

 

 

 

5月3日(木)

授業復帰第2日目。妻に乗せていってもらう。朝、何人かの先生が声をかけてくれる。元気が出る。ありがたい。

1時間目、3年4組。3時間目、3年3組。どちらも楽しかった。1時間と3時間の間は、昨日のように妻に運んでもらって実家へ行って体を休める。

 

 

 

5月7日(月)〜5月25日(金)

毎日、とても楽しく授業ができる。学校で横になることができないので、印刷など授業の準備は全て家でやる。

 

 

 

5月23日(水)   

夜、かなり強い耳鳴りがあった。5月25日にC病院で診てもらうと、「いちど神経を痛めているから疲れると耳鳴りとか出やすい。聴力がまた落ちることがあるので要注意。おかしいときはまたすぐに病院に来ること。疲れる前に休むように」とのこと。

 

 

 

5月28日(月)   

朝、校長に「今週は午前中4時間は毎日勤務できるようにしたいと思っている」ということを伝える。

 

 

この週は、実際に午前中学校に居ることができた。ここまでは、私の病状にとって危険な人物との接触もそれほどなく、私は次第に学校に安心して居れるようになってきていた。

 

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ここまでを振り返ってみる:

 

      年度当初に強い不理解や冷たさに直面し、その結果病休をとらざるを得なくなったりもしたが、授業についてはとても順調に復帰することができた。主治医はこれを「奇跡的です」とまで言ってくれた。体調は相変わらず悪いが、生活のリズムが授業を中心に定着してきて、朝は8時15分には職員室に入り、服装もきちんとして教室に行って、1週間、2週間とやりとおせる週が増えていった。

 

      自然の家の頃まで、毎朝、校長に「来ました」という報告を欠かさずにしていた。私が授業にのみ出るということは校長も了承済みだったので、報告の必要はなかった。そして、そのような指示もされてはなかった。ただ、初めのうちは、私が本当に授業に来れるのかどうかをかなり心配しているようだったので、学校に着いたら真っ先に校長室へ報告をするようにしていたのだ。けれども2回か3回、朝挨拶に行ったとき外部のお客さんが来ていることがあって、毎朝の報告はかえって迷惑がかかるのかなと思ったりもした。

 

      学校との対応は、私に代わって妻が全面的にしてくれていた。そして、必要があるたびに妻は校長に連絡を取って学校へ出向き、校長室へ行って直接話をしていた。

 

      そして、この週(5月28日〜6月3日)の間に、本格的なパワーハラスメントの動きが表面化してきていたようだ。妻も私も、まだパワーハラスメントを受けているという認識は持ってなかった。妻はまだ、校長を信頼していた。そして、せっかく私が順調に波にのってきているのに「ここでそれを崩してしまってはいけない」と心配して、教頭の「本人(私)に伝えろ」という要求に対しても、「できない」と判断されることははっきりと断っていた。

 

      上記の理由で、ここから7月上旬までは、妻の記録の方が詳細である。したがって、それらについては、妻の記録の方にゆだねるとして、ここでは、私に直接降りかかってきたもののみを記載していく。

 

      なお、睡眠導入剤は通常の量では効かなくなり、この週からずっと倍量をのむようになった(主治医の指示)。授業が順調にできるようになったとはいえ、その準備なども含めると過労気味であった。

 

      パワーハラスメントについては、管理職だけではなく、教務、学年主任も関わっていたが、この頃より、同推も加わるようになったと感じる。数学の授業に必要な情報が一切回ってこなくなったのだ。生徒に直接関わることだけに、それを補充するために苦労した。これが表面化したのは、5月26日(金)の第3限3年2組で中間テストを返す予定で教壇に立っているときに、突然同推がやってきて、「問題別に正誤を控えておいてくれ」と言って来たのだ。このような『突然の指示』が、このあと重要な場面で繰り返し行われるようになる。

 

      中間テストの問題用紙も(期末テストのも)テストが終わるまでは見せてもらえなかった。中間テストのとき採点していて、作成ミスで102点満点になっていることが分かった。が、それについても一言も言ってこない。こちらで判断して動くしかなかった。  期末テストのテスト範囲も教えてもらえない。さらには一度出しているテスト範囲をその週末に変更してそのことも教えてはくれない。評定締切日の前日になって、「評定は自分が出すから(?)これこれの資料を出せ」と言って来る。必要な情報をシャットアウトしておいて、締め切り直前になって指示を出してくる。言われるとおりにやっていたら、間違いなく倒れていただろう。

 

 

5月31日(木)   

14時から15時30分。市教委にて。教育長さんが、話を聞いて受け止めてくださる。ありがたい。感謝。心がホッと安心した。久しくこの感覚がなかった。それほど、現場での緊張は大きかったと思う。

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執行部註1:

 

 4月は土居中のことが何も分からないA教諭にとって、疾風怒濤のような月だったことでしょう。そして、5月。「授業が楽しい」と言うのをこのころ聞いた私たちは、喜び合ったものです。5月は、《危険人物》らからの直接的な接触はなかったようです。それで、次第に土居中がA教諭にとって安心して居ることの出来る場になっていったのでしょう。このころは、3学期のような《組織的排除》もまだなくて、親身に声を掛けてくれる教職員の方が多数いたことも、A教諭の体調の回復にとって良かったのだと思います。

このままいければ、きっと、A教諭は1学期には完全復帰できていただろうと思うのです。

けれども、6月になるや、《危険人物》らからの攻撃が降りかかってきます。

私たちは、今改めて振り返って見て思うのですが、この5月の間、幹部連中は、A教諭の『病気休暇願い』が市教委の方に通るのかどうかを息を潜めて伺っていたのだろうと思います。5月中旬か下旬、それが通ることが決まって、土居中幹部は、おそらくK元次長を呼んで猛烈に抗議したことでしょう。

そして、このころ、彼らのどす黒い《見せしめ排除計画》は進行していたものと思われます。多分K元次長は教頭に言われるままに、その《見せしめ排除計画》を委員会に持って帰っていたことでしょう。6月1日に、校長、教頭、K元次長列席の中で、《見せしめ排除計画》は執行されるのです。

私たちは、これまで、K元次長の責任には一切触れませんでした。しかし、この最前線の現場(波打ち際)で、委員会次長として、教頭をきちんと指導することが出来ていれば、その後の情勢はまったく違ったものになっていただろうと思います。

 

さて、このようなむつかしい状況の中で、教育長さんの存在はA教諭にとってどんなに大きくありがたいものだったことでしょう。やはり、それは、教育長さんの人物の大きさと人柄によるものでしょう。A教諭は、

「心がホッと安心した。久しくこの感覚がなかった。」

と言っています。

《安心して居ることができる》…どんなに大切なことでしょうか。

四国中央市の教育長さんはすばらしい方だと、私はうらやましく思います。

(四国中央市にとっては、現在の教育長さんが次の任期も続けてされることが、一番いいでしょう。)

 

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提出された資料は、A教諭のものと、その奥様のものの2冊に分かれています。けれども、ここでは、時系列でそろえて行きたいと思います。奥様のぶんは文字の色を変えてピンクにします。(読みにくくて申し訳ありません。)

 

 

 

5月31日木曜日  

第1回市教委面接。

 

 

6月1日金曜日朝

妻のメモより

 

私 「昨日のことで…」と話し出そうとしたが、校長は、上の空。

私は、委員会との面接の結果を伝える目的だったが、しばらくおいて、次長さんと教頭が入ってきたので、驚いた。

 

教頭「実は、地域からの苦情の電話が委員会と事務所に入った。病気の人を教壇に立たせて大丈夫なのか?と」(男性と女性とから計3件くらいだったらしい。)

市教委は、この事実を知った上で、5月29日面接をした。(らしい)

 

次長「このことは、私の方から言わないかん事だった。本人が一生懸命やっていることが分かったので、言わなかった。その話をしなかったということを学校に伝えた。」

(市教委の配慮に感謝。)

 

教頭最初の時に変なこと(誤解されるようなこと)を言ったから、いろいろ言われるんだ。それと毛布の件も。さっきもそうじゃけど、職員室で自立訓練しよるのは、気味悪いから慎め。

教頭 「給食指導の時、学年の廊下をうろうろすると、子どもが不安がったり、怖がったりするから困る。

 

私 「四月当初なら、いろいろ言われるのは、わかりますが、今いい感じに授業できているから、このことは、本人には、言えません。」

 

 

私 「本人が病休を気にしつつがんばりよったのは、給与面のことも考えているからです。」

教頭「勤勉手当がなくなるだけでしょ。」

教頭「公務員は、休みが多て、給料ようけもらいよるいう非難もあるんですよ。」

教頭「他の先生は夜遅くまで残って仕事しよる。」

私 できるのであれば、主人だってバリバリ仕事します。以前は他の先生と同じように、夜遅くまでやってたんです。ただ、今はできないんです。

校長は一言も言わなかった。

 

教頭「世間一般の非難の声もあるし、本人もきつそうなし、だから授業以外は病休にしましょう。

 

                   いかにも、『相手側に立って、相手の思いをくんでいますよ』というふりをして、自分の言い分を通そうとしている。

 

私 それは取りたくないんだ。なるべく病休を取らずにやりたい。早く復帰するためには、いつまでもズルズル取るのは、よくないんだ。

私 「病休をとったら、こちらも不利になる。」

教頭「どんな不利があるのか?」

私 「給与面でも減るし…。」

→翌日の教務の嫌がらせにつながる。

教頭「全部で60日かいね?」

次長「いや、90日ある。」

教頭「授業にだけでも出てきよったら週に3日くらいのもんでしょう?」

私 「いや、そんな。3日どころではすまないんです。あっという間に、90日きてしまいます。」

 

                   病休に対する受け止めが軽かった。「大変じゃなー、なるべく取らんでいい様にしてあげたいなあ」、というような雰囲気は全くなかった。

 

 

次長「本人に伝えてください。服務も『いつ来ました。いついつ帰ります。』という報告をするように。」

 

結論。学校が伝えたかったこと:

@ 授業以外はすべて病休にせよ。

A (服務)報告をきちんとせよ。

 

 

 

妻のメモより

校長「服務(報告)をきちんとしてくれ。」

私 「気を悪くされるかもしれませんが、いちいち本人が報告せよというのはできかねます。

校長「考えときます。」

 

 

 

妻の日記より   

校長室にて学校長と話す(午前9時40分から10時20分)。

金曜日の学校側(教頭同席)の提案(と受け取っていたが)『病休扱い』の件は主人と相談の上承認した。しかし、本人はできるだけ早く校務につきたいと希望しており、6月中で病休を止めたいと考えている。→病院(6月2日)の報告→学校側に配慮してほしいことを伝える。

 

 

 

 

回想(7月20日)

 

朝、校長室へ行き、

教務からの嫌がらせのことを伝えた後、

(1)6月6日、7日休むこと

(2)『授業以外は病休にせよ』を本人に伝えたということ。

本人が、とにかく「病休を取りたくない」ということは一貫している。ただ現状況を見たときはそういう方法を考えてなければならないから、当分それでやってみようと思ういうこと。

 

(3)6月2日病院に行った結果

「授業ができているのはすごいこと。だけど色々無理をしている。気を付けなければならない。」と医師から言われた。

 

(4)「次長さんが服務報告せよと言われたけど、主人の体調は不安定なので、服務の報告をいちいちするのはまだ難しいです。それはしかねます。

 

(5)私の方からの要望

@主人に声をかけてほしい。

A職員会資料など、最低限のことは教えてほしい。

 

 

これに対して校長は、

校長一応聞いときました」

 

                   この「一応」と言う言葉に不安を感じた。校長は「分かりました」とは決して言わなかった。

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6月4日(月) 

朝、教務から悪質な差別発言を受ける。

私の後ろを通りながら、

教務「先生、ボーナス出るんじゃけん、学校残らんと帰ってくれてもええけんな。

顔を上げて振り返ってみると、その場にいた教員がこっちを見ている。反対側を振り返ると、教務がこっちを見ていた。そこで、私に言ったのだと分かり、イヤ〜な感じがする。

黙っていてはいけないととっさに感じ、

私「そのことは、そうなっとるらしいで」と言う。

すると、教務は「アアーッ!!ほうで!!」とあてつけるように言って、洗面台の方へ行った。私は席を立って教務の方へ行きながら「知らんみたいじゃけど、ボーナスは減るんよ」と言う。すると、教務はなにやらわめくような声を出した。今回は私も声を大きくしてそれを制する。そのまま大変動揺した心を抱えて授業に行く。

 

 

      この教務の発言は今の土居中の現状をよく表している。まず、これを言い換えれば、「あいつは、校務を何もせんと、ボーナスはたくさん貰いよる。」となる。それをわざわざ他の同僚の前で言うことで、何も知らない人は「あいつはボーナス貰うために学校に残っとんか」と思うだろう。この見方は、「あいつは、校務ができるくらい元気なのにそれをせん」という偏見に基づいている。うつ病は本当に治るまでには数年〜十年の時間がかかるそうだ。一度うつ病を患った者は、以前は平気でできていたことがまったくできなくなる。それをひとつひとつ、取り戻していくのだが、慎重にやらなければ、倒れてしまう。時間がかかる。徐々に勤務時間を増やして慣らしていくことが必要である。職場復帰のために非常に大切な《スモールステップ》をさえも取り上げようとしている。「ボーナス出る」とわざわざ他人に聞こえるように言ってますます苦境に立たせようとすることと、「学校に残るな(来るな)」ということの2重のイヤガラセを含んでいる。

 

      このイヤガラセと同質の言動がこのあと前述の5人からたびたび行われるようになる。

 

      さらに、前週の金曜日に妻が校長と教頭を信じて話をしたこと(プライバシーにかかわることである)が、教頭から教務に流れ、それも、よくない意味で伝わっていたと思われる。そして、教頭のなんらかの《指示》により、教務がこのイヤガラセの実行に走ったと思われる。

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6月8日金曜日

 

妻の回想(7月20日)

 

次長「服務の件でお話があるので電話をください。」(留守メッセージ)

私 「お伺いします。」

委員会へ出向く。10分から20分の話。

教務からの嫌がらせの話をする。

次長「服務(報告)のこと校長から聞いたけど、できてないそうだ。これは委員会としてもしてもらわないと困る。委員会が悪者になってもええから、『これは委員会命令だ』と言ってくれてええから。」

私 これは、当人にとっても、とてもプレッシャーになることなので大目に見てほしいんですが。

次長「できんのはなー…」

私 「私がしましょうか。」

次長そうしてください。事務室にでも。」

 

 

妻のメモより

 

主人を迎えに行ったとき(昼過ぎ)、私が事務室に報告する。「今から帰ります。」

帰って主人に概略を話すと、主人はたいへん不安定になった。

午後すぐ市教委へ行く。(主人と私)

 

教育長事務室へ報告をしたんでよい。

主人は、やっと安定した。

 

 

 

 

6月8日(金) 

第4限が終わって、迎えに来た妻が、通用門のところに車を止めて、「ちょっと用事があるから」といって学校に入って行った。それについて聞いても妻は語らなかったので、それ以上は聞かなかった。帰宅して食事をしているとき、妻が言葉を選ぶように「実は」と話し始めた。「服務のことで報告をせないかんと言われて私がするようにしたから」とその日の出来事を話してくれた。いまひとつピンと来ないものがあった。が、私は突然不安定になり、「それは教頭が言うたんやろ!そんなことしよったら、次は俺が教頭に言いにいかないかんようになる。ドクターもそれは避けないかんって言よるやんか!それはできん!」と、妻に言う。

妻はどうしようもなくなったのだろう、「委員会へ行く?」と言った。「すぐ行こ!」と私。妻は委員会へ電話する。市教委で、話を聞いて受け止めてもらえて、救われる。服務報告は妻が事務室へするということで、やっと私は安心できた。

 

 

      6月1日に校長室であった出来事について、ずっと妻はくわしくは語らなかった。つい最近(7月20日)、やっとくわしく全部話してくれた。妻は、その事を聞いて私が不安定になってせっかくいい感じで授業ができているのにそれができなくなってはいけないと心配したのだ。懸命な判断だったと思う。

 

      それでも私は不安定になった。それは、4月26日時点で「体が安定するまでは授業のみ出る。そして徐々に勤務時間を増やしていく」ということを校長も了承していたからだ。1ヶ月間、朝8:15には私が職員室に居るのを校長も教頭も毎朝見ていながら、あえて「報告せよ」というその配慮のなさ。そこに、圧力を感じたからだ。

 

      また、折角午前中いっぱい学校に居れるようになってきていたのに、「それを出勤とは認めない。病休にせよ」という命令が出たこと。とても割り切れぬ思いを感じた。

 

      この時点では、パワーハラスメントを受けているという確たる認識は、まだなかった。確信を持ったのは7月10日から後である。

 

 

 

 

 

6月8日(金)〜6月21日(木) 

妻は毎日、「来ました」と「帰ります」を6月8日の委員会での確認どおりに、事務室に報告していた。途中、数回私が運転して自分で行った日があって、私が報告したこともある。そのとき、事務室の方の顔に「えっ?」というような表情があったので、やっぱり報告は妻にしてもらうことにした。(後に分かるのだが、私の妻が「来ました」「帰ります」の報告を事務室へするという事を、校長は事務室へ伝えていなかったのだ。)

 

 

 

6月11日(月)から6月15日(金)の間で1回、

 

妻のメモより

 

校長室で校長と私、話をする。

その時初めて、

私 「教頭を呼んで下さい。いっしょに聞いてもらいたいことがある。」

私 「前に次長さんから言われた《地域からの電話》というのは内部からでしょう?

校長「ええーー。そんなーー。」

(↑「違います」とは言わなかった」)

 

私 「もし仮にそんなことしないとしても、保護者から学校に電話があったとき対応した人が居るはずでしょう。そのとききちんとした対応をしていれば、委員会や事務所にまで電話ということにはならないはずでしょう?」

私 うつ病と精神病とは完全にちがう。主人を見て怖そうというのは偏見です。偏見をなくすためにも研修の機会を持って、正しく病気の理解をしてほしい。お願いがあるんですが、先生がたの研修をしてほしい。主人のことをみんなの先生方にわかってもらいたい。

私 「教科会や職員会では、どのようなことが話し合われているのか、出席できないので、資料だけでも渡してほしい。」

(校長→一応、メモを取りながら聞く。)

 

 

その後、6月21日まで毎日、事務室に服務報告する。

 

 

 

6月19日(月) 

第1限。3年4組の授業で、授業の最初に生徒にテスト範囲が出ているのかどうか聞くと、出ていた。見せてくれた。同推からも教務からも学年主任からもテスト範囲については何も聞かされていない。第2章の章末問題までが範囲になっておりテスト前日にやっと2章最後の内容をやるクラスがあるのに、無茶だと思った。この夜からテスト勉強用のプリントをつくる。オーバーワークになった。

 

 

 

6月21日木曜日

妻のメモより

事務長さんに言おうと思ったら、事務室にいなくて、たまたま教頭と事務長さんが職員室から歩いてきた。

私 「今出勤して授業に入りました。」

教頭「奥さん。報告は事務室じゃなく、校長や僕に直接行ってください。校長がおらんときは職員室に僕がおるけん2人ともおらんかったら事務室に言うてください。僕もおらんことが多いけどな。事務室も仕事中じゃけん。」

それで下校する際に、事務長さんに、校長からどう言われているのかを訊く。

事務長さん校長からは、そういう話があるということは聞いていない。だから、報告をされてもどういうリアクションをとったら良いか解らなかった。それで教頭に相談した。」

 

 

 

6月21日(木) 

事務長さんは、妻や私の報告の件について、校長から何も聞いてなかったそうだ(妻が確認して初めて、そのことが分かる)。それで「事務長さんはどうしたらいいのか分からなくて困っていたそうだ」と妻から聞く。

 

6月22日(金) 

C病院耳鼻科。4000Hzは聞こえないままだが、ひとまず通院は終了。抹消血管拡張剤も終了。

 

 

 

 

 

 

6月25日月曜日

妻の日記より   

校長室にて校長に服務の件、確認する。

私「校長にのみ報告します。職員室には本人が居るので、わざわざ私が改めて『出勤しました』と報告に入るのはおかしいのでは?校長先生が校長室等にいないときはそれで失礼します。」  校長「それで良い。」

私「無視するのはやめてほしい。主人だけでなく、私があいさつしても無視をする。情報は渡してくれ。学校の動きがまったくわからない。

 

 

妻の回想(7月20日) 

朝15分間ほど校長に聞く。

私 委員会指導は、《校長か事務長か誰かに報告すればいい》ということだったので、その後毎日そのように報告を続けてきた。しかし、木曜日の朝、教頭からこういうことを言われたので、事務長さんに聞いたら、「知らない」ということだった。そのあたりは、校長先生、教育委員会からはお聞きしてないんでしょうか?」

校長、言葉を濁す。

私 「校長先生がおいでるときは、私は校長先生に挨拶することにします。いないときは、いないからといって校長先生を探してまわるのは負担が大きいから、それについては考えてください。校長先生がいないからといって、教頭先生に言いに行かなければならないのか?朝主人が職員室にいることは見て分かるのではないか?」

校長「そこまで厳密なことを言っているのではない。他の先生にもこういうことがあるので、(報告をしろということは)全体に言っている。先生だけに言っているのではない。」

私 「朝は校長室にいらっしゃらなかったら、それで私は失礼させてもらいます。今までの授業も1回も休んでいない。どこにいるか分からないということはないでしょう?」

校長「それでよい。」

私 「病休は、本人はできるだけ取りたくないんです。テスト期間中出勤しても、病休扱いになるんでしょうか?」

校長は『なる』とも『ならん』とも言わなかった。「テスト期間中は、監督が入っていれば当然出勤だ。それ以外なら病休だ。」。

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6月27日(水) 

期末テスト用紙を取りに行く。模範解答はあるが、問題用紙はない。生徒にコピーさせてもらう。

 

6月29日(金) 

大阪、Yクリニックへ行く。診察。授業で生徒と心の交流ができていることについて喜んでくれる。このように授業に復帰できたことは《奇跡的》で、《予想以上に順調だ》と言ってくれる。

しかし、睡眠導入剤を通常の倍量呑んでも入眠できなくなっていることに対しては険しい表情で、注意するよう言われる。仕事は計画的に早め早めに少しずつ片付けて置くように言われる。睡眠導入剤は新しいものを追加される。

 

 

6月30日(土)、7月1日(日)  

丸一日休むが、気分が沈む。

 

 

7月2日

妻の日記より   

6月29日に病院に行ったこと報告する。→「あまり変化がない」との受け止めしかしてもらえなかった。コリン性じんましんの話などもしたが…。

期末テストの件を話す:試験範囲や内容についてまったく事前に情報を与えてもらっていない。生徒から教えてもらって初めて知る。範囲が授業より広いのでどのように授業を組み立てるか非常に悩みストレスがひどかった。せめて一方的でもこちらからは聞けないので、プリントを机の上に置くなり手立てをしてほしい。(5月にも6月にも同様のことを言った。→変化なし)

 

7月2日(月) 

朝、背中から気分が悪くなり、保健室へ行ってシップを張ってもらう。

 

 

 

7月7日(土)、7月8日(日)  

評定完成。汗が出る。体が冷える。気分が沈む。軽度の鬱状態。

 

7月9日(月) 

朝、同推より期末テストの採点基準がちがっていたことについて苦情を言われる。私も説明していたが、一方的に「模範解答に従ってもらわなければ困る」と言うばかりなので、ついに双方声を荒立てて言い合うことになる。この日も、動揺したまま授業に上がる。

この朝、問題別の正誤を出せと言われ、まだ打ち込んでなかった中間テストの正誤を夜、打ち込む。疲労は限界。

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7月10日(火) 

評定締切日。朝、「とにかくこれだけは書き上げるまでは倒れられない」という思いで、成績一覧表に書き込む。問題別の正誤は同推の机上に出す。帰宅するなり、気分が悪くなって、寝込む。

 

この日午後、評定のことで学年主任から電話があったらしい。妻は途中から怖がって電話は取らなかったそうだ。まさかと思ったが、学年主任は家までやってきて玄関で30分ほど大声を上げていた。2階で寝ていた私は、またその声で不安定になり、とうとう降りて言って「帰れ!」と言う。

 

夜。妻は、「校長に相談してみる」といって校長の自宅に電話するが、「当事者同士で話をせよ」と言うだけで、あとは沈黙だったらしい。

 

パソコンは起動しなくなっていたので、学年主任に「データを取り出せない」と電話すると、「こちらでやります」との返答だったらしい。

 

 

      つらい厳しい一日だった。本当にまた鬱に落ち込んでしまうのではないかと、恐ろしかった。実際、あの学年主任の態度は、これまでの土居中でのパワーハラスメントを凝縮させているかのようだった。すなわち、「役に立たない教員は要らない。言うとおりに従わない教員は潰す。」そんな感じをまともに発散させており、妻が怖がるのももっともだ。30分大声で怒鳴り散らしている間、「どんな調子ですか?」の一言もなかったそうだ。

 

      この、《人を人とも思わぬような冷たい感じ》と言うのは、振り返ってみると、土居中の5人(校長、教頭、教務、伊T学年主任、同推)からは、さまざまな形で受けてきた。それについては、4月2日からずっと一貫している。

 

 

 

7月10日

日記より

午後0時ごろ学年主任から電話あり。学年主任「評定を出すように。」

私 「評定は朝出勤して一覧表に記入してある。」そのように伝える。

 

2回目1時ごろ。同じく学年主任から電話。

学年主任「あれでは駄目だ。ほかの二人の先生と合わない。また関心意欲態度のAが多すぎる。もっと減らしてCもつけよ。

私 「今日はすでに病休をとっている。見直しはできない。」

 

2時ごろ。留守メッセージ「至急折り返し電話するように。」  その後3回電話あり。

 

夕方5時40分ごろ自宅にくる。

学年主任「どうしてもやれ。できないのならデータをパソコンから出せ。」

私 「同じものは一覧表で渡している。それを拾えば集計できる。」

ここで初めて「評定はすべてH宮がつける。」ということを聞く。「T橋の分もそうする。データを出してくれ。」(6時過ぎまで。)

 

夜7時30分、校長に電話する。

私 「やり直しの命令は聞けない」

校長「教科でよく話し合って調整をしてほしい」

私 「それができるなら、今になってこんなにもめたりはしない。」

校長「後手にまわったのは確かだ。」

夜8時。学年主任に電話する。

私 「とても荒れて、パソコンが起動しなくなった。データは出せない。前に渡してある表でやってください。」

学年主任「わかった。こちらで拾って出し直す。」

 

情報を渡して欲しいと常にいい続けてきた。が、まったくなにも変化なし。

その結果がここに来て、大問題となる。

 

 

 

 

7月11日水曜日    

 

妻のメモより

 

私が、校長に電話したとき、初めて声の調子が変わった。むっとした感じに。普段は感情を声に出さない。この時は「何を!」みたいな感じになった。そして、校長「どこの病院ですか!?」

 

医師から指導されたことを伝える。

私「不安定な時は休みなさい。危険な場所だからそんなところに行ってはいけない。そんな仕事をしてはいけない。そんなときに仕事をさせるのは認識がなさすぎる。」 

ここまで言ったとき、校長の声のトーンが険しくなる

 

病院の先生の話として:

「今は学校からの命令に従える状態ではない。とにかく、離れて休むことが大切だ。」

明日は授業があるので行きたい。と言うと、

「その考え方が危ない。休む必要のあるときに無理をすると立ち直れなくなる。」

学年主任から電話が何度もあり直接どうしてもやれと家まで来た。と言うと、

「病気に対する認識がなさすぎる。本人ができないと言っていることは、やらせては絶対駄目だ」

とにかく少しでも離れて休みなさい。」

このような指導を受けた。そういうわけなので、『関心意欲態度』」対して見直すという仕事はできない。精神安定剤と睡眠剤を多用している。

以上のように病院から電話。

 

 

 

7月11日(水) 

朝、妻が校長に「今日は病休で休む」旨を伝えたとき、校長は始めて「評定はあれではいけない。出てきてやり直してもらわなければ困る」と態度をはっきり出してきたそうだ。

医師に相談。「そんな状態でそんなところへ行かせてはいけない。」と医師は怒った。

妻は校長に電話。このとき始めて、校長は声の調子が厳しくなり、そのような姿を妻に見せた。

妻はその後、泣く。

 

 

      この時、私は、妻が本当にうつ病を発症してしまうのではないだろうかと心配になった。

 

4月から、家のこと、子供のこと、そして私の送り迎えなど、すべてを一身に引き受けて妻はがんばってくれている。

明らかにオーバーワーク。そばで見ていて私は思う。

しかし私はどうすることもできない。

それ以上に、妻は、私に代わって、パワーハラスメントの波も防波堤として受け止めてくれていた。

これまで何度も、話をしている途中で泣き出すことがあった。神経を痛めているに違いない。

 

私は自分の体験から、わかる。過労が重なっているところへ、信頼したり信頼したいと思っていた人から手のひらを返されるようなできごとがあったときに、うつ病発症の引き金が引かれるのだ。

 

 

 

 

 

7月12日(木) 

朝9時、市教委へ行く。クーラーがついてなくて助かった。妻は悲壮な面持ちで、「最悪の場合行政処分があるかもしれんね」と言っていた。

 

この日のことは忘れられない。

私たち夫婦の思いを教育長さんが受け止めてくださったことで、本当に救われた。妻に明るさが戻ってきた。

 

夜、『数学だより』の最終号(No.7、8、9、10)を仕上げる。1週間ほど前から作りかけてはいたものの、体調が悪いので出せないだろうと思っていた。しかし、4月からの3カ月振り返って、生徒と楽しく授業できたことに思いをはせると、どうしてもお礼を伝えておきたかったのだ。

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7月13日金曜日朝 

 

妻のメモより

 

校長会でメンタルヘルスについて研修。

校長「『命令するな』と言われました。『命令は出してはいけない』と話があったので、本人にはなんといってよいかわからなくて、困っている。」

私 「命令がすべていけないというのではありません。」

 

 

 

7月13日(金) 

1学期最後の授業も2クラスある。1学期の授業の感想を書いてもらう。帰って、一人一人が書いてくれた感想を読んでいて、本当に癒された。

また、妻であるが、これまで妻や私を心配して、声を掛けてくれ話を聞いてくれる先生方が土居中にいた。その中のお一人が、「河村先生はいじめられとる」と委員会へ言ってくれていたそうなのだ。妻も私も、このとき始めてその事を知った。そして、その人が「あんなことしてしまって河村先生が嫌な思いをするんじゃなかろうかと後悔しとったんよ」と妻に行ったというのを聞いて、私も涙が出た。不思議な気持ちがした。人の苦しみを自分のことのようにとらえてくれる人がいてくださる。ほんとうにありがたかった。

 

7月15日(日) 

『数学だより』のNo.11、12をつくる。

 

7月16日(月) 

校長に言われて、夏休みの勤務承認願いを再度作り直しする。外勤承認願いも作り直す。教頭から渡されたフォーマットにしたがってつくったのに、「もっとくわしくせよ」と差し戻されたのだ。

 

 

7月17日火曜日

 

これについては、本人(主人)が別にまとめる。

 

 

 

7月17日(火) 

妻が、夏休みの勤務承認願いと外勤承認願いを出しに校長室へ行くと、その場に教頭がおり、外勤を減らして病休を増やすよう、再々度の作り直しを命ぜられる。そしてその後、さらに強力なパワーハラスメントを受ける。

 

妻は、帰りの車の中で、その事を私に伝えながら泣きだした。帰宅してすぐに、私は詳しく詳しく聴いて書き下ろしていった。

 

妻も、もう1学期もほぼ終わったから、全部話しても大丈夫だと判断したようだ。この日のこと、そして6月8日以降のことで妻が私に話してなかったこと全てを聞いた。

 

 

      妻は言う。「結局、教頭が何を言いたかったのかはよく分からない。でもすごく嫌な言い方をされて、心は傷ついている。これは6月1日に言われた時と殆ど同じだ。この嫌な感じを与えるのは4月からずっと一貫している。」

 

      この日、教頭が妻に言ったことは大変な問題点をはらんでおり、しかも、校長・教頭(管理職)同席の上で、妻に面と向かって言っている。まさにパワーハラスメントである。

 

      妻が言うとおり、教頭が言っている内容は4月に言っていたことと変わらない。

 

      ここに、うつ病罹患者に対する差別意識、および、パワーハラスメントの本質が表われているので、この日のできごとについては改めて後述することにする(こちら→)。

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7月20日(金) 

朝学校へ行って週案を提出する。

それから、『成績一覧表』に目を通す。(期末テストの成績も評定も、どうなってるのか一切教えてもらってなかった。)

びっくりした。観点1の「関心意欲態度」に2人、Cをつけてあるのだ。

 

 

一度帰宅したが、「これから生徒たちは通知表をもらうんだなぁ」と思うと、ずっと気になっていた。

 

学年主任が7月11日に妻に「関心意欲態度のAが多すぎる。もっと減して、Cもつけないかん。」と言っていたというのを思い出す。

その後学年主任は、私の家へ怒鳴り込んできた時、「関心意欲態度のCはつけなくてもいいからAをもっと減らせ。」とのことだった。

まさか、Cをつけるとは思わなかった。

 

どうしてCなんだろうか?と生徒は考えるだろう。そのうちの一人は絶対に納得できないだろう。私も納得できない。もう一人はどうだろうか?1学期、私がもっとも心をかけて見守った子である。その子のこの3ヶ月を思い出した時、「絶対にCではない」と強く思う。

 

一体全体、どういう視点で、この2人の「関心意欲態度」にCをつけたのか?

 

また、観点2,3,4はテストだけでつけると言っていたが、これがCCCとなる子の顔も思い浮かぶ。「あれだけがんばったのに、期末テストでその成果も出たのに、結局Cか」と絶望するのではないか? その顔が目に浮かぶ。彼らのこの3ヶ月間のがんばりと成果をよく知っているだけに、つらい。彼らに対するフォローは絶対にいると思う。一言声をかけておく必要がある。「1学期よく頑張ったの。またがんばろうな」と。

 

 

車に飛び乗って学校へ向かう。

 

校舎2階の3年生の廊下で終会が終わるのを待っていると、学年主任が来て、「先生、学活中じゃきにウロウロしたらいかん。職員室へ行きな」といって私にぴったりはりついて離れようとしない。

 

5組への用事とやらでようやく彼が離れて行ったときに、学活終了のチャイムが鳴った。気になっていた生徒何人かに声をかけることができた。

 

しかしその中の最も気になっていた(「興味関心意欲」にCをつけられていた)子に話しかけようとしていたとき、学年主任がまた戻って来て強引に引き離そうとした。かなり強引だった。その子とは絶対に話をさせてはならないという感じだった。

 

さらには玄関ホールに行って靴箱を見ていた私に、同推までがやって来て、「先生、ウロウロしたらいかん」と言って職員室に私を連れて行こうとする。

 

それでもなお、私が玄関を出て下校指導の様子を見ていると、校長が出てきて「先生、病休中なんじゃきん、ウロウロしたらいかん。」という。さらには、「先生は終業式に出てないんじゃきん、ウロウロしたらいかん」という。

情けない体験だった。

 

そのまま、帰宅する前に市教委へ行く。

 

 

      これまで、他校で卒業生などが来て「追い返す」時に教師が取っていた態度そのままを、彼らは私にとった。《同じ教師集団の一員》としてではなく、《邪魔者》、《要注意人物》として接する態度であった。情けなかった。そのように扱われる立場に立ってみて、本当に情けなかった。

 

      3年学年主任、同推、そして校長までもが出てきて、私にピッタリと張り付いて、私が生徒とくっつくのを断固阻止しようとする姿は異様であった。今、考えれば、『評定偽造』という、やってはいかんことをやってしまっているのだから、そのことが生徒にばれてはいけないわけだ。そう考えれば、あの露骨過ぎるほど強引な生徒との引き離しは、彼らの恐怖の表れだったのだろう。

 

      気をつけなければならない。ことあるごとに、彼らは、私や妻の神経を傷つけ、時には逆なでしてくる。こちらを心配しているような風を装いながら、プレッシャーをかけてくる(特にI藤学年主任)。そして、こちらの心は不安定になる。

 

      このままでは2学期、潰されてしまう、というのが今の私の切実な悲鳴にも似た気持ちである。

 

 

 

 

 

7月20日に1学期を回想する:

 

学校の姿勢は一貫している。「自分の方針に従ってこない者はやめろ。」と言う感じ。

 

 

 

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執行部註2:

 

以上、読み返すと、胸が痛くなる思いがします。

こんな風に追い詰められていったんだなあと。

 

自律神経の不調で、異常体温低下、発汗異常に苦しみながらも、授業を続けることは、A教諭にとってギリギリのところだったでしょう。それでも、楽しい授業をすることで、徐々に体調は回復していました。

 

ところが、学校側は、その回復を手助けしようとするのではなく、逆につぶそうとするのです。

 

学校側がA教諭に対してとった、《見せしめ排除作戦》は、『強制病気休暇取得命令』と『服務報告命令』でした。

 

これらを、学校側は、市教委員のK元次長をいいように使って、市教委へ呼び出させて、そこから命令を下させようとします。

 

卑劣で巧妙な《潰し作戦》です。

そこには、温情も配慮も、ひとかけらもありません。ただ露骨に《潰そう》とする意図のみ。うつ病の後、必死で復帰を果たそうと頑張っている教師に対して、することでしょうか。

 

教育長さんの人間性あふれる温かさがなかったら、おそらくA教諭は、1学期一杯持たなかったのではないでしょうか?

 

病気の厳しい状態から始まったA教諭の土居中勤務でした。A教諭は精一杯頑張りました。もしも、学校側に、本の少しの温情があれば、A教諭はずっと早く病状が良くなっていたに違いありません。

 

(但し、病状が良くなったら、こんどは「思想の違い」で潰しにかかってきたでしょう。どちらにしても、土居中幹部には、《潰す》という意図しかなかったようです。)

 

 

 

 

さて、この

温情も配慮もひとかけらもなく、ただ露骨に《潰そう》とする意図のみ

という土居中幹部の姿勢は、A教諭に対してだけとられるのではありません。目をつけた教師、生徒…誰に対しても同じように取るのです。

巧妙に、その本人を潰すのに最も適した方法を幹部会議で相談して、教頭の指令の下、実行していくのです。

 

常識的に考えれば、信じられないでしょう。しかし、これまで、実際に潰されてきた先生方や、生徒の皆さんは、手をとるように分かるでしょう。

 

このような凶行は絶対に繰り返させてはなりません。

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重要資料(教頭の差別意識と巧妙な悪質さの実体)

 

さて、大変重要な資料があります。追い詰められた状況の中で、7月17日、書類を持って奥様が学校へ行きます。

 

信頼していた校長からも、その信頼を剥ぎ取られた今、何が引き金で奥様が鬱を発症するか分からない。しかも奥様は、A教諭の事を心配して何があったかは語らない。

 

A教諭は、そこで、車を降りるとき、授業研究用の自分のボイスレコーダーを奥様に渡します。少なくとも、何があったかだけは把握しておかなければならないと思ったのです。

 

もしも、奥様がうつ病で倒れるようなことがあったら、A氏一家は崩壊してしまうでしょう。これが、うつ病の怖さです。

 

 

さて、奥様が校長室に書類を渡すために入っていくと、教頭が同席して待ち構えていました。

それが、A教諭が詳しく詳しく聴いて書き下ろしていった次の資料です。

 

 

これは、前述のA教諭が授業で生徒に配った『数学だより』に対する文句です。A教諭が『数学だより』の中に書いた一節を取り出して、それに対して「今後絶対にそういうことは書くな」とダメ押しをしているのです。

 

「職員室でつらいことがあったときに」という一節に過敏に反応しているのです。

たまたま、レコーダーに入ったものですが、土居中幹部連中の意識を表す貴重な資料といえるでしょう。A教諭は、くわしい分析をつけていますので、私はここでは、これ以上書くのは控えます。

 

以上のような理由で、たまたま記録に残ることになったわけですが、教頭は6月1日にも、これ以上に差別的でひどいことを言っています。K元次長も校長もおりながら、ストップがかかることはなく差別発言が彼らの前を通過して、奥様を攻めていったのです。

 

 

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7月17日(火)  午前11時20分ごろ

 

校長室にて。勤務承認願いを提出した妻に再々提出を命じた後:

 

教頭:彼ねえ。数学通信いうの出されとると思うんですよ。あの、僕も今日見せてもろたんじゃけど、中にですね、うつ病のこととかですね、はン、まあまあ職員室でいやなことがあるとか、うつ病の話とか、出てるんですけどね、で、まあそれあの、生徒も読むしね、保護者も読むんですけど、あまりその、学校ではね、そのまあ、自分の病気のこととかね、そんなのはあんまり、あのまあ1回言うてるんだけど、前言うた様にその、これまでもやっぱりまあ何ぼかありましてね。あのう…。

 

妻 :教育委員会の方にですか?

 

教頭:まあ、地域のなかであったりして、Pの会長さんなんかも言うて来られたりして、まあそういうのあるんで、前も言うたようにね、まあそれは、あの、病気のことなんだろうけどね、そのう、僕らとしては、あんまりそれは、あの、理解いうてもね、なかなかその、奥さんにも理解できんようなことを、だったって本人は言よるわけで、その、あのまあ、本人も子供らと出会えて嬉しかったっていうのはええと思うんじゃど、うつ病で云々っていうのも、見られました?

 

妻 :いや、まだ詳しくは読んではないんですけど、まあ主人の方からも読んどいてっていうことは

 

教頭:あまり、ええ、あまりその、プラスにはネ、今の状況、ならんのやないかと、思うんですよ。

 

妻 :それは、ええと…

 

校長:微妙な。これが出とるいうの見せてもらって、僕らも(不明)じゃけど、まあいろんな受け止め方があるので、まあその自分の病気のことで色々考え方をいうのは、その、(不明)、やっぱりちょっとその微妙な、(不明)、受け止め方が色々ある、

 

教頭:まあ、ほれから、自分の職場の中でね、まあいやなことがあっても子供には言わんのですよね。中のことはね。僕らでも言うたことないしね。

 

校長:いろいろまだ何があったんだと詮索される

 

教頭:ほななことは僕らも色々あって、面白いことばっかりじゃないけんね。そんなことはなんぼでもあるしね。それは子供の前では絶対出さんと。それが鉄則やと思うんだけど。

 

校長:活字になるとやっぱり、ええことにはならんし。

 

教頭:でそのあの、うつ病のこと書いてるから、もう僕らとしては、前言うたように、その、うつ病というのは、まあ、ほれはもうその、言われるように、世の中だるうなって、ほんであそこのお兄らがこの前もろてきたらしいけんど、ある意味あれだろうけど、やっぱり、もう、一番最初のその言うたこととかの姿いうのがあるから、まあ、僕らとしてはそれを打ち消したいところがあるんですよネ。まあ言うたら。今授業ができてるから。そのまま行ってほしいと。いう気持ちがあるから。

またそれで要らん憶測があったりとか、まあすると、あんまりプラスにならんのとちゃうか、とまあ、いうのはあるんですネ。

で、また、それで、あのう、やっぱり見よったらやっぱりねェ、体の方もしんどいけん、暑いのにヤッケ着たりとか、こうカイロ貼っとったりとか、赤外線のなんですかね、こんなもん、あったりとか、あるとやっぱり普通子供らが見たらね、「どしたんだろか?」というのがあると思うんで、まあほれはほれとしてしゃあないこっちゃけんど。

でー、うつとか言う話になってくると、やっぱり、家帰ったあと子供ら、言うてしもうたら、まあ理解のある人だったらええんだけれども、やっぱりその、一番最初のあれがあって、ジワっと、広がっとることがあるから、まあ、せっかく本人ががんばりよってもね、そんなんでまたぶり返したらね、せっかくこう打ち消していこーという、がんばっとって、授業もええって言よんだけど、それだったらそれで行ってもらったほうが、もう、えんじゃないかなと、僕は思うんですよ。ほんじゃきん、そのあたりもどうかなあと、いうところはあるんですけど。

 

妻 :私としたら、それについて、何かどうこうということは、ちょっとこの場で、あのう先生がたお二人に

 

教頭:まあ。何とかせえと言うあれじゃないんだけども、あのまあ、その方が、ぼくらとしては、えんじゃないかなぁという、

 

妻 :ああ。お考えを

 

教頭:ええ、お考えです。考えです。だからまあ、あまりプラスの方にはいんかのじゃないかなというのは間違いないと。

 

妻 :まああの、授業自体が成り立たないような状況とか、まああの、本当に何を教えているのかわからないっていう、そういう直接的生徒に損害を被るようなことがありましたら

 

教頭:ほやけど、まあ、あの。学校っちゅうのは授業だけじゃないですからね。はっきり言うて。僕らはもう、朝来てから生徒指導から始まって、子供の心のケアから始まって、授業外のとこでもいろんな相談活動とかしよるし、いろんなことを24時間ずっと、あの、まあ、ね、ずっとしよるわけで、授業だけできたらえっちゅう話しとちゃうんで、それはそれで今の状況を考えて、僕らはそれでっていうことでやってるだけの話であって、だったら、あまり、その、マイナスになるようなことは、言わないほうがいんじゃないかなという、まあ、考えです。

 

 

 

         帰りの車の中で、「勤務承認願いを出しに行ったら教頭もいた」と聞いたので、何か言よったか訊くと、妻はしばらく黙って、それから「ウーーン」という。そして、「結局何を言いたかったのか分からん。具体的に訊いたら何もないんよ。でも、イヤなことをいっぱい言われた」と言って運転しながら泣き出した。

 

 

大変重要だと思われるので、ページを変えて問題点を整理してみたい。

 

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(1)《うつ病》に対する偏見と

 《うつ病罹患者》への差別心について

 

教頭は「地域から苦情の声がある」とか「子供が見たらどうしたんだろうかと思う」とかいうフレーズを、頻繁に言う。ことさらにこれを繰り返す。それは4月から今日までずっと変わらない。

 

その「地域からの苦情の電話」の具体的な内容は、つい最近になって初めて聞いた。6月にすでに教頭が本人に伝えるように妻に言っていたらしい。妻はそれを私の耳に入れては私が動揺すると判断して、私には知らせなかったのだ、と言った。その判断に感謝した。そして、厳しいパワーハラスメントを、妻が私に代わって跳ね返してくれていたことに心から感謝した。

 

「うつ病の教師を教壇に立たせていいのか」とか「うつ病ということで生徒が怖がっている」とかの声。これは、4月や5月上旬の時点なら、確かに出るであろうことは想像できる。日本の社会には、まだまだ厳しい差別的風土があるからである。その教師のことを具体的には知らず、「うつ病」という言葉だけを聞けば、このような声が出るのも仕方がないのかもしれない。

 

このような電話は、市教委の方に入ったらしいが、私本人の耳には入れないように配慮してくださったことを心から感謝したい。

 

 

しかし、学校の対応は全く違っていた。4月26日の時点で、教頭はすでに私と妻の前で、このことを口走っていた。「昨日も委員会のほうへ、『毛布をかぶっている教員がいるがどうしたのか』と電話が入ったらしい」と。「だから毛布をかぶるのはやめろ」と、目の前で体が冷えて苦しんでいる私に言ってきた。

 

その後教頭は、妻に、「職員室で自律訓練法をやるのはやめろ」、「ホッカイロを貼るのはやめろ」、「給食の準備中に校内をうろうろするな」など言い、それを本人に伝えるように何度も圧力をかけてきた。それらすべてのことを、私は最近初めて妻の口から聞いて知った。

 

本来、学校という教育の場は、生徒のみならず地域に対しても、人権意識を正しく啓蒙すべき場所である。その現場において、管理職は教職員の中でリーダーシップをとるべき立場にある。

 

たとえ、地域からそのような声があったとしても、本人に心身の様子を「どうですか?」と親身になって聞いて、それを受け止め、そして、良い方向へ導く事ができるはずだ。現に私は、市教委および妻から守っていただき、そのおかげで、主治医から「奇跡的」と言われるほどの授業復帰を遂げることができた。そのいずれかがなかったら、おそらく私は途中で倒れていただろうと思う。

 

その倒れる原因を作っているのが教頭である。

 

 

7月17日(火)に、管理職が言いたかったことは、「職員室でつらいことがあったというような表現はするな」ということであるようだ。それも、《うつ病》という言葉でサンドイッチにして挟んでカムフラージュし、さらに《地域から苦情の声がある》と脅しをかけ、そして本人のことを心配しているかのような装いを見せて、《そういうことは言わないほうがよい》と暗に圧力を掛けてきている

 

『数学だより』では、慎重に言葉を選んだ。生徒への感謝の気持ちは、本当に苦しい時に楽しい授業によって私自身が支えられたことに対するものだった。

 

もし、逆の立場だったとすると、私ならその教師に「どうしたん?」と訊く。そして、その原因が職員室に何かあるのであればそれを取り除こうとするだろう。私が三島にいたときの管理職は皆そのような人だった。

 

しかし、土居中の今の管理職は、「職員室でつらいことが」という一言に過敏に反応して保身に走っている。 その姿は、まさに、自分たちがその「つらいこと」の原因であるという自覚があることを物語っている。

 

うつ病を患い、それが回復してきて心身症レベルまで良くなった。けれどもその心身症の症状によって肉体的にギリギリのところでがんばっている、社会復帰を果たそうとして必死で頑張っている。このような教師に対して、学校現場は特にハードルが高く、至る所バリアだらけである。

したがって、「スモールステップ」という方法が最も大切であると主治医から繰り返し言われてきた。また、心身を守るための「ツール」を使うことも必要であると。抗鬱剤も、睡眠導入剤も、精神安定剤も、自律訓練法も、ジャンパーやサポーターも、これらもすべてが大切な「ツール」なのである。

 

それを、教頭は取りあげようとしているのだ。妻や私がそれを聞いて脅威を感じるのも当然のことだ。主治医は大変立腹した。

 

さらに、校内を歩いてみたり、集会に出てみたり、生徒の給食活動や清掃活動を見てみたりなどして、学校の様々な活動に徐々に心身を慣らしていくことが必要である。それを、安心して、「やりたい」という気持ちが起こった時にやってみることが大切で、しんどくなったらすぐにやめることが大切だと主治医は言う。

 

教頭は、「校内をウロウロするから子供が怖がる」と言ったそうだが、妻からそれを聞いたときには、また、異様な心持ちがした。少し前に、同じ言葉「ウロウロするな」、

を学年主任と同推と、さらに校長からまでも、投げつけられていたからだ。

 

「うつ病は治りかけが大切だ」と主治医は、去年の秋からずっとそれを私に言ってきた。上記のような管理職らの言動は、せっかく病状がよくなって学校復帰ができつつある私を潰すような言動である。

 

5月には、授業以外の時間も、徐々に学校に居て、印刷をしたりプリントの仕分けをしたりすることができるようになってきていた。しかし、6月4日以降の管理職の冷たい仕打ちに、また居れなくなった。7月中旬以降は、職員室にさえ居れない。私が、職員室で、必死の思いで自律訓練法をし「ツール」を駆使して体温調節をして授業に備えているのを、教頭たちは冷ややかに見ていたわけだ。後に妻から、教頭が「あれをやらないように本人に伝えとくように」と言っていたと聞いて、本当にヒドイと思った。

 

病休をできるだけ早く使い終わらせ、そのあと、「服務」の名のもとに、私を潰そうとしている。そんな実体が見えた。2学期が真っ暗になったように感じた。

 

うつ病は、特にその職場復帰に最善の注意が要る。徐々に勤務時間を増やしていくことも、そして、オーバーワークにならないようにすることも。

 

「うつ病の教員がいては困る」という考えは、まさに、うつ病に対する偏見であり、うつ病罹患者に対する差別心である。

仮に地域からそのような声が上がったとしても、本人に知らせるべきことではない。

さらに、「地域からそういう声が上がってはいけないから」と言って、本人に「自分がうつ病である事は隠せ」と強要するのも言語道断である。

 

これらはすべて、うつ病罹患者に対する差別である。

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(2)行為の悪質性について

 

現在、人権意識が社会的に高まるなかで、いろいろなところで差別は巧妙に陰に隠れて仕組まれていることが多くなっているらしい。

 

今回の教頭の差別発言には、そのような巧妙なずるさがみられる。これが私たちの心を痛めつけるいかにも私たちのことを心配しているかのように装いながら、逆に私たちの心を逆なでするようなことを長々と畳み掛けてくる。

 

その言い方は、かなり巧妙で、こうして書き起こして文字にして目で読んでみても、多くの人は、その差別性と悪質性を見逃してしまうだろう。

 

 

 

差別性については先に述べた。次に悪質性について指摘する。

(実は、前項においても悪質性について言及した箇所がある。そこと内容が重なるところがあるかもしれないが、大切なことなので、ここでも省略せずに触れる。)

 

「せっかく本人ががんばりよる。またぶり返してもいかん。このまま行った方がいいんじゃないかと、僕は思う。」

このような言い方がそれである。

 

「このまま行った方が」、誰にとっていいのか、そこは絶対に言わない。

「私本人のためにいい」とは言ってない。

 

実際、私は土居中へ来て初めて、生徒にも「自分は2年前うつ病を発症した」ということをカミングアウトした。以前はまだできなかったことである。うつ病に倒れ休職に踏み切ったときも、同僚には『うつ病』という病名は知られたくなかった。心療内科へ行くときも、知っている人に顔を見られやすまいかとビクビクしながら行っていた。

 

その私が、危険をおかしてあえてカミングアウトするのには、理由がある。そうしなければ、この病を克服して本当に社会復帰を果たすことはできない、ということが、2年間の闘病生活を通してわかったからである。

 

確かに、今の日本の社会は、まだまだ人権意識、特に精神面に対する人権意識が低い。それが現状である。そしてそのために毎年多くの尊い命が奪われている。

 

いよいよ国が、『自殺対策基本法』を制定して動き出した。

しかし、人権意識啓蒙のリーダーとなるべき学校(土居中)のトップがこの現状である。

 

私本人が、うつ病を克服して社会復帰を果たすためには、回りの方々の理解が必要である。だから、私がうつ病であったということを公表してでも、うつ病についての正しい知識を持ってほしい。偏見をなくしてほしい差別心に気がついてほしいのである

 

その思いを、生徒たちは受け止めてくれたが、管理職集団は全く受け止めようとさえしなかった。

 

「うつ病の教師が土居中に居ることを知られてはいけない、何を言われるか分からない。だから隠せ。」という管理職の姿勢からは、私を支えてくれようと言う温かさは全く感じられない。

 

私と妻のことを心配して言ってくれているのではないのだから、はっきりと「管理職のためにとっていいことだからそうしてくれ。」と言ってくれた方が、まだ私たちの心はかき乱さずに済む。

 

7月17日の時点でも、教頭が4月と全く同じ言い方をしていることに驚く。

 

 

実際に、

教頭は、つい口を滑らせてのだろうが、こう言っている。「僕らとしては、あんまり、それは、あの、理解言うても、なかなかその、奥さんにも理解できんようなことを。」

うつ病は、奥さんにもなかなか理解し難いんだから(4月に、私が心を開いて校長と学年主任に訴えた病状の説明を、逆手に取っている→これまた悪質)、

うつ病の理解と言うても、なかなか、自分にできるわけがないじゃないか、という開き直りである。

 

 

4月26日に、「毛布のことで苦情の電話があった」と教頭が言った。そのとき私は「あれっ?」と思った。毛布は職員室でしかかぶってなかったからだ。

生徒の前ではかぶってないのに、どうして?と思っていた。妻が後に、「あれは内部から出たんでしょう?」と聞いたとき、管理職からは、否定も肯定もなかった。職員室で毛布をかぶっている私の様子を「2,3人の生徒が見た」という返事だった。

 

「この間も地域から、苦情があった」と、教頭は3ヶ月間ずっと私たちに言ってきている。

うつ病に対する理解がなければ、どんな小さなことでも、これからも揚げ足を取って、私に不利になるように持っていくことができるだろう。

もし、2学期以降私が自律訓練法やホッカイロやサポーターを駆使するのをやめなければ、そのような苦情の電話はいくらでも《製造》できるであろう。

 

(2学期は季節が秋から冬へと変わる。去年の12月から3月まで体の冷えに悩まされたので、今年も大変心配である。)

なお、教頭は、「教師は夜10時まで学校に残って仕事をやるのが当然だ」というようなことを言っている。これも、管理職が、公然という言葉ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上、この行為の悪質性をまとめると次のようになる:

 

 

「本人のため」と言いながら、「職員室でつらいことがあったとき」という箇所に過敏に反応して、保身に走る。その道具として、《うつ病》を利用する。教頭の心の内に《うつ病》に対する差別心があるから、それと同じものが社会に広く深くある事をよく分かっている。そして、それを「地域の声」と称して利用するわけである。

 

 

また、「本人がきつそうだから」と言いながら、病休を本人の意に反してムリヤリ取らせる(授業時間以外すべて)。そうして、病休を早く使い終わらせて、その後《服務》の名のもとに潰しにかかろうとする魂胆を感じさせる。これは、大きな脅威であり圧力である。

 

 

配慮のかけらもなしに、6月に圧力を掛けてくるのに使った《病休命令》と《服務報告命令》は、管理職という権力を乱用した、悪質なパワーハラスメントである。

 

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3.    ○○○へのお願い

 

 

以上のことから、切に切にお願いしたいことは、

 

私および妻の人権救済のお願いです。

 

今のままだと、私は土居中で差別とパワーハラスメントを受けて、2学期にはつぶされてしまうだろうと思います。

 

 

主治医は、

「一学期、厳しいパワハラの中で、授業がそれだけできるようになったのは、すごいことだ。だいぶスモールステップのこつをのみこんできたので、このままいければうつ病の再発はあまり心配しなくていい」

と言ってくれました。しかし、同時に、

「2学期、パワハラがどうなるかで、せっかくここまで復帰できてきたのもどうなるか分からない。」

とも言われました。そして

「早めに○○○に相談した方が良い」

と何度も言われました。

 

 

 

どうか人権救済の手立てをお願いします。

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付記

 

以下は、校長に要望したいことの草案です。下記(1)、(2)、(3)、(4)(特に下線部)の保障が、私にとって2学期に早急に必要であることは、ここまでお読みいただけると分かると思います。(1)、(2)、(3)、(4)について、○○○から管理職を指導していただけるとありがたいです。

 

(5)が実現されれば、実は、自然に残りのことも解決していくと思うのですが、土居中においてはもっとも難しいのが(5)だろうと思います。(5)についても、今後慎重に改善の対策をとっていただけるとありがたいです。

 

ただし、土居中学校におけるこのようなパワーハラスメントには根深いものがあるように感じます。生徒集団のイジメ同様に、中途半端な姿勢で臨むと、ますます陰湿化する恐れがあります。そのことをご配慮の上、お願いできたらと思います。

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校長への要望     ※ 8月上旬までにお返事をいただきたい。

 

(1)  病休のこと

本人は今年、病休はとりたくなかった。しかし病休をとらざるを得ない状況に追い込まれた。

うつ病に対する正しい認識を持ち、温かい配慮を具体的に示してほしい。本人は、自律訓練法など、ドクターから教えてもらったツールを駆使してなんとか授業ができるようになった。

こうして完全復帰に向けてがんばっている。

それには、時間がかかる。ひとつひとつ、無理をせずにやっていくしかない。

すぐに2学期に全部ができるようにはならないだろうし、逆にそのようなことを目的にしたら倒れてしまう。

2学期は、学校で授業の準備をしたり、校内に居ることに心身を慣らすことも、大切な勤務であると認めてほしい。授業以外にも校内に居る時間を勤務時間として認めてほしい。

 

 

 

 

(2)  報告(服務)のこと

残念ながら、1学期に5人(校長、教頭、教務、伊T学年主任、同推)から受けた、差別とパワーハラスメントによる心の傷は大きい。

主治医から、「私の病状にとって危険な人物との接触はできるだけ避けるように」と言われている。

それで、妻が私に変わって、毎日報告を行っていたが、妻も7月には精神的ショックを受けた。また、今後私の体調が良くなって自分で運転していけるようになったとしても、その後も報告だけのために、妻が土居中との往復を続けていくのは、負担が大きい。

そこで、前もって1週間ごとの勤務予定を示すので(それで私の所在ははっきりする)、毎日報告は直接しなくてもいいように配慮してほしい。(どうしても報告が必要なら保健室に報告すればいいようにしてほしい。)

 

 

 

(3)  評定のこと

 

評定は、教師が、そのかかわる子供一人一人を見つめて、学期の最後に、子供及び保護者に渡す大切なものである。

そこには大切な「目的と理念」がある。

ところが、『通知表(評価)の記入について』というプリントの「1.通知表の役割、2.留意事項 のところに書かれていることは、土居中では建前化してしまっている。

その結果、公にはできないようなとんでもない事を平然とやってのけるところまで、管理職たちは暴走してしまった。

少なくとも、教科担任がその良心においてうなずけるようにしてほしい。

そのために、2学期以降は、少人数学級においても、教科担任が自分でその関わる子供一人一人の評定を出せるようにして欲しい。また1学期の評定についても、再度徹底的に吟味・検証をして、教科担任(私)が納得いく返事をして欲しい。

(※ 未だに私は、校長から、成績についても評定についても、その詳細や規準を一切知らされていないし、その理念についての共有も一切されてない。ただ、1学期の私の教育活動を否定されただけで終わっている。このままでは、2学期の授業のイメージを創れない。)

 

なによりも、校長がしっかりと心を開いて教科担任(私)の思いを聞いて、そして、受け止めて欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

(4)  心身症対策用の「ツール」のこと

 

2学期は秋から冬へと季節が大きく変わるときである。昨年、学校という現場は寒さに関して無防備でありすぎることを痛感した。

土居中でも、校内に体温調節(自律訓練法)をできる場所が「ない」と言われることは大きな不安材料である。自分で最善の注意を払っていても、気候の変化にダメージを受けて、倒れてしまうようなことがあるかもしれない。

体温調節のための種々の《ツール》が私にとっては必要不可欠のものであるということを理解して、「それをやめろ」というような圧力は掛けないようにして欲しい。また、4月からお願いしている、身体を横たえて体温調節(自律訓練法)できるような場所を考えて欲しい。

 

 

 

 

(5)  職員研修のこと

 

うつ病と戦う苦しさ以上に、パワーハラスメントを受けて倒れそうになる苦しさの方が今は大きい。

もうこれ以上私たち夫婦を苦しめないでほしい。

本当に、一人の人間として、心を開いてほしい。

 

5人(校長、教頭、教務、伊T学年主任、同推主任)がこれまでの路線でいく限り、それは難しいのかもしれないが、校長はリーダーなのだから、人間的な心を持って、4人をまずリードしてほしい。

 

まず、身内(4人)に甘く、弱い立場の教師に厳しいという姿勢を逆にしてほしい。

例えば、

・タバコは通用門のところでも吸わせない。

・学年主任など4人の服装はきちんとさせる。

・更衣室を4人のランチルームとさせない。  …など

逆に、少なくともうつ病などドクターからの診断書のある教師に対しては、臨時休憩室を準備する等して、メンタルヘルス対策を、具体的な形として行ってほしい。

 

 

今は、5人が、他の弱い立場にある教師を心的に脅かす存在になってしまっている。そして、5人を中心として、不当な事がまかり通っている。そこのところを変えなければ、根本的には何も変わらないだろう。これからも、不当に差別されて苦しむ教師を、作り続けるだろう。まず、管理職がこれを改悛して欲しい。

 

 

そうして、大切な情報はどの教師にも当たり前に伝えられるような、仲間意識の持てる学校教師集団を、まず5人が範となって作ってほしい。

 

 

 

さらに、その上で、うつ病について職員研修の場を持ち、うつ病やメンタルヘルスに対する知識と理解と共感を、教職員が深めるれるようにしてほしい。

それが、一日も早く実現することを、私は望んでいる。

 

 

うつ病の《自殺衝動》は、突然やってくるもので、それは、周囲の不理解によるところが大きい。それは、『自殺総合対策大綱』にも明記されている(『追い込まれた末の死』)。そのような観点からも、『自殺対策基本法』の基本理念に則って、一日も早く、《誰もが安心して居ることのできる学校社会》を実現させて欲しい。

 

なお、学校内における具体的なメンタルヘルス対策として、《教職員の心の健康を図るための必要な措置》を早急に講じてほしい。

 

 

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執行部註3:

 

教頭、教務、伊T学年主任、同推主任の4人は、同じ3年学年団の所属でした。1学期の時点では、生徒指導主事は直接的には、このイジメに関与していません。

 

この後、夏休みにも、校長との対応で、A教諭は心を痛め、9月になってからふたたび、病気休暇取得命令でA教諭にいっそう激しい攻撃がかけられます。

 

校長は、別の何者かの権力によって動かされているに過ぎません。それで、自分では何も決定できないのです。その陰の権力の代表が、S教頭です。ただ、上の7月17日の様子を見てみると、ずるがしこくて陰湿で悪知恵は働くけれども、すべてをS教頭が取り仕切れるほどの知力もないようです。

 

つまり、S教頭の後ろにさらにより強力な悪知恵を働かせる勢力(権力)が存在しており、彼らの密談の繰り返しによって、イジメの方法を決定していく様子が推測されます。

 

彼らは、A教諭に対しては、かような戦略で責めていけば「潰せる!」と考えたのです。

 

2学期、9月26日は、大変危ない日でした。

 

「『授業以外は病休にせよ』と学校が言っている」とA教諭から相談を受けた組合が、「なんて馬鹿なことをいよるんだ!?教材研究の時間は全部勤務です。県の方へ言いましょうか? それとも、学校へすぐに乗り込んでいきましょうか!?」と即座に動く姿勢を見せました。

そのおかげで、A教諭は、最大の危機を回避できました。

 

しかし、その後、生徒指導主事も加わって、さらに執拗な圧力をかけようとしますが、11月15日、この文書の存在を知って、やっとイジメの暴走にいったん歯止めがかかることになるのです(翌年1月15日まで)。

 

 

生徒のイジメについては記事やニュースにもなりますが、大人のイジメは、なかなか表面化してきません。

特に土居中の場合は、イジメの加害者側が、権力側にあり、何層にもそのイジメのパイの皮をかぶっているため、容易には解決できないのです。

 

そして、こうして《イジメのプロ集団》化した彼らは、これまでに何人もの被害者を作り出すことで経験をつんできました。

 

「おそろしいところだ」…正直なところ、そういう気持ちを持っておられる人(保護者、生徒、教職員)は、大勢おられると思います。

 

しかし、また、そういう中で、何事もないように平然と日常生活が営まれている土居町、土居中が、あるのですね。

 

土居町の人が、土居中の人が、何とかしなければなりません。

子々孫々のために。  そう、思います。

 

 

A教諭の例は、一つのイジメ被害の例です。

彼らは、保護者、生徒、教職員の別なしに、「邪魔者」にはすべて、イジメをかけてきます。

 

A教諭の例から、何かを読み取っていただき、今後、あなたやあなたのお子様が、少なくとも被害を回避するのにお役立ていただけたら、幸いです。

 

 

 

最後に、貴重な資料を提供してくださったA教諭に感謝いたします。

 

 

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