さまよえる王子

 

原作　：　五月雨次郎　、　夕立三郎

目次　　　　　　　　　　　　　　　　HOME

 

プロローグ

第１章

第２章

第３章

第４章

第５章

第６章　　〔５〕　　〔６〕

第７章　　〔１〕　　〔２〕　　〔３〕　　〔４〕　　

エピローグ 〔１〕 〔2〕 〔3〕 〔4〕 〔5〕 〔6〕 〔7〕 〔8〕

〔9〕 〔10〕 〔1１〕 〔１2〕 〔１3〕 〔１4〕 〔１5〕 〔16〕

〔17〕 〔18〕 〔１9〕 〔20〕 〔21〕 〔22〕（最終）　

 

《余話１》　《余話２》

 

 

ご　あ　い　さ　つ　

 

読者から、「面白い」との声がたくさんありました。そして、掲示板では読みにくいので、新たに読みやすくして欲しいという声が複数ありました。

 

そこで、大山代表に相談しましたところ、私が責任を持って構成することになりました。原作者の方は了解済みです。

 

皆様で、全文をワードや一太郎などにコピペして、読みやすいように文字の大きさなどを直し、印刷して読まれるのが一番読みやすいかと存じます。

 

なお、原作者の五月雨次郎さんと、夕立三郎さんがおっしゃっているように、この物語には実在の地名や名称が出てきますが、フィクションであることを改めて記しておきます。

　　　　　　　　　

 

　まごころ教育友の会執行部副代表　　浅井洋二郎

 

 

 

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プロローグ

 

 

1137　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 10:44

↑　　　　↑　　　　↑　　　　↑　　　　↑

　　　　　
　　　　　　てえへんだ！　てえへんだ！！

　　　　　　
　　　　　　《　大　　　御　　　令　》

　　　　　　　
　　　　　　　が、　　出　　た　　ぞ。




（途中省略）

 

 

 

1208　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:06




控えおろう！　控えおろううぅぅ！


ただいまより、土居町部落大帝王の仰せがあるによって、控えおーろーうーぅ


1209　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:06

第４９期王位戦紅白リーグは５回戦すべてが終わり、紅組は羽生善治王座・王将が５戦全勝で優勝。白組は３勝１敗同士の直接対決で、橋本崇載七段が丸山忠久九段を破って優勝した。深浦康市王位への挑戦権を争う羽生と橋本の挑戦者決定戦は１９日に行われる。

1210　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:07

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1211　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:07

321
589
671

1212　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:07

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1213　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:07

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1214　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:07

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1215　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:08

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1216　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:08

だつ

1217　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:08

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1218　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:08

がふばｌｓ

1219　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:08

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1220　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:08

んｂｄｆｓｋｖ

1221　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:09

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1222　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:09

ｈｓｂう゛いえ

1223　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:09

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1224　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:09

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1225　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:09

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1226　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:10

ｈｇｌｃｂんｂｈｇｊｋ

1227　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:10

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1228　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:10

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1229　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:11

　ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1230　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:12

あいうえお
あいうえお
あいうえお

1231　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:18

第４９期王位戦紅白リーグは５回戦すべてが終わり、紅組は羽生善治王座・王将が５戦全勝で優勝。白組は３勝１敗同士の直接対決で、橋本崇載七段が丸山忠久九段を破って優勝した。深浦康市王位への挑戦権を争う羽生と橋本の挑戦者決定戦は１９日に行われる。

1232　 大帝国王子 　 2008/06/16(Mon) 11:18





くすん。土居町部落大帝王の仰せがあるって言うのに、だーーれも聞こうとしてくれないんだ。部落帝国なんか作ろうとするからだ。
土居町部落大帝王なんて、間違ってるんだ。

（立ち上がる）

ねえ。みんな。そう思わないかい？

　　　　　　　　　　　　　　　　　　土居町部落大帝国王子






1233　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:20

新羅（しらぎ[1]／しんら／シルラ、紀元356年[2]- 935年）は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。

1234　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:21

ほー

1235　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:21

第４９期王位戦紅白リーグは５回戦すべてが終わり、紅組は羽生善治王座・王将が５戦全勝で優勝。白組は３勝１敗同士の直接対決で、橋本崇載七段が丸山忠久九段を破って優勝した。深浦康市王位への挑戦権を争う羽生と橋本の挑戦者決定戦は１９日に行われる。

1236　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:21

ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。同大統領のニューディール政策の柱と位置づけられた。

1237　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:22

へー

1238　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:22

ｈじゃしうっうぇｆｂ

1239　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:22

；えｈｆぶいｆｌ；

1240　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:23

ウォール街の株価大暴落に端を発した世界大恐慌（１９２９年）により沈んだ米経済の立て直しを目的とした全国産業復興法（ＮＩＲＡ）が、フランクリン・ルーズベルト米大統領の署名によって成立した。

1241　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:23

新羅（しらぎ[1]／しんら／シルラ、紀元356年[2]- 935年）は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。

1242　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:23

月１回程度の間隔で顔合わせする幹事会の席上、文語の素晴らしさを世間に見直してもらおうと、文語文の精粋を集めて鑑賞の手引を施した単行本を発刊することが決まり、鈴渓学術財団（盛田英夫理事長）、（株）池袋松屋（伴紀子社長）からの助成金も得て、約１年をかけて編集作業を進めてきた。それが２０日に『文語名文百撰　日本語はこんなに美しい』（海竜社、税込み２０００円）として刊行されることとなった。

1243　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:24

ｈｊかｄｂｋｑｄｈｑうぇｋｈｄｓｑあｎ

1244　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:25

750÷５＝150？

1245　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:25

あｖｈｌｓづいｒ

1246　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:25

月１回程度の間隔で顔合わせする幹事会の席上、文語の素晴らしさを世間に見直してもらおうと、文語文の精粋を集めて鑑賞の手引を施した単行本を発刊することが決まり、鈴渓学術財団（盛田英夫理事長）、（株）池袋松屋（伴紀子社長）からの助成金も得て、約１年をかけて編集作業を進めてきた。それが２０日に『文語名文百撰　日本語はこんなに美しい』（海竜社、税込み２０００円）として刊行されることとなった。

1247　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:26

12213742
85134682
78218315

1248　 名無しさん 　 2008/06/16(Mon) 11:26

月１回程度の間隔で顔合わせする幹事会の席上、文語の素晴らしさを世間に見直してもらおうと、文語文の精粋を集めて鑑賞の手引を施した単行本を発刊することが決まり、鈴渓学術財団（盛田英夫理事長）、（株）池袋松屋（伴紀子社長）からの助成金も得て、約１年をかけて編集作業を進めてきた。それが２０日に『文語名文百撰　日本語はこんなに美しい』（海竜社、税込み２０００円）として刊行されることとなった。

1249　 大帝国王子 　 2008/06/16(Mon) 11:27




やっぱり、間違ってるんだ。土居町部落大帝国なんかをつくろうとしていることが間違っているんだ。
父上、母上、どうしたらいのですか？

え？　気に食わない奴を、切腹させろ、ですと？？

だめです。そんなこと、できません。

え？　土居町民が言っていただろうって？　え？　彼は、帝国の秘密工作員だったんですって？

だめです。切腹も、土居から追い出すのも、ダメです。

ああーー。ボクはどうしたらいいんだ？？

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　土居町部落大帝国王子


 

こうして、真性土居中スレの中をじゅうたん爆撃荒らしが飛び交う中でこの物語は始まりました。

 

 

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第１章

 

 

1258　 ナレーション 　 2008/06/16(Mon) 11:32

こうして、土居町部落大帝国王子は、家を出た。一人さまよい続けた。

仏崎から、海を見た。遠くかすかに聞こえる波の打ち寄せる音。

南を向くときれいな山があった。

「あの山に登ろう。もう、あとはどうなってもいい。こんな、ウソで塗り固めたところなんて出てしまおう。」

王子の足は、南へ向いた。

 

 

1271　 さまよえる王子（４） 　 2008/06/16(Mon) 11:44




山の懐に差しかかる前に、美しい少女にあった。

ふたりの目と目が合った。

その瞬間、二人は恋に落ちた。

王子は、救いが欲しかった。ウソでない真実なもの。

王子は少女に言った。「結婚しよう。」

少女は、うっとりと、「ええ。」

そこへ、少女の両親が家から出てきた。

王子は両親に心をこめて言った。

「ボクは王子です。娘さんを…」

といい始めた途端、両親は二人とも顔の表情が固まってしまい、全身硬直して動かなくなった。二人の目には恐怖の色がにじんでいる。

ふと、横を見た。
ああ。あの少女までもが、恐怖の表情をして、「ぶ、部落帝国は誇りなんです。将軍様は絶対なんです。差別はいけないんです。わ、私は何もしていない。たすけてー！」

王子が一歩足を踏み出したとき、少女はがけから落ちてしまった。それでも両親は動かない。

深い恐怖。これまで散々脅されてきたために、わが子ががけから落ちても、動けないのだった。

「ああーーーー！」王子は、頭を抱えて、山へ向かって走り出した。

 

1275　 さまよえる王子（５） 　 2008/06/16(Mon) 11:53


王子は、山道を走った。走って走って駆け上がった。息が詰まると、ぶっ倒れて泣いた。
そして、また駆け上った。

日が真上に昇る頃、ふと王子が気がついてみると、もう上がないのだ。

「ここはどこ？　もしかして天国？」

３６０°の美しいパノラマ。カタクリの花がここあそこに咲いている。

赤星山の山頂だったのだ。土居町を見下ろした。美しい平野。美しい海岸線。自分の通った懐かしい学校。

「しかし、部落帝国なんてもので恐怖で人々を支配しようとしたって…。」

山に登り始める前の、少女とその両親の恐怖にゆがんだ顔を思い出す。

「く、そーーーーーぉ！！」
と王子は、声の限り叫んだ。

 

 

1279　 さまよえる王子（６） 　 2008/06/16(Mon) 12:05



思い切り叫んだ王子は、上ってきたのと別の道を下り始めた。家へ帰るつもりはなかった。途中から道は谷へ下りていく。

美しい滝があった。

道は険しい。3段になって落ちている。

ふと、2段目の滝を見ると、一人の老人が、座禅を組んで滝にうたれていた。

王子がじっと老人を見つめていると、老人は座禅を解き、滝から出て王子のほうへやってきた。

老人の目を見たとき、思わず王子は泣き出した。

やさしく、温かい目だった。

老人は何も言わない。

ようやく落ち着いた王子が顔を上げると、老人は言った。

「さあ。もう大丈夫じゃ。山を降りなさい。」

王子はしかし、老人の顔を見たまま、かすれる声できいた。

「部落帝国があるために、ボクは《特別》なんです。学校でも、ひいきされるし、そとでいじめられることはないけど、今日の目で見られているんです。」

老人は聞く。「お前が悪いからか？」

少年「ボクは、悪くないと思う。」

すかさず老人が、「そうじゃ、お前は悪くない。でも傷ついておる。山を降りなさい。傷ついた心は、温かい人の中にあって始めて癒されるのじゃ。」

 

1288　 さまよえる王子（７） 　 2008/06/16(Mon) 12:25




王子はコクリとうなずいて、再び山を下り始めた。

険しい急な斜面を降りていった。美しい渓谷だった。

しばらく降りるとようやく勾配が緩やかになり、川を渡る。あまり大きくはないが、白糸が流れるような滝が続き、王子はあっと声を上げた。垂直に落下する滝。その背景となる長方形の一枚岩の迫力。

ゴォゴォと鳴り渋く滝の音の中で、一瞬鈴が鳴ったように感じた。

ふりかえる王子。

「ようこそ。いらっしゃい。お待ちしてました。」

王子は、ドキンと胸が鳴るのを感じた。この人だ。そう感じた。

山を登る前に出会った少女も美しかった。あの時王子は美しさに引かれた。

けれども、今度は、自分もこの人と出会うことを待っていたんだということが、魂の奥で分かった。

少女が手を差し出す。微笑みながら。王子はその手をとり、少女が咲きに王子が後になって、山道を降りていく。

1291　 さまよえる王子（８） 　 2008/06/16(Mon) 12:32

ときどき少女が振り返る。にっこりと微笑みながら。

王子も大丈夫とうなずいて微笑み返す。

ようやく林道に出て、二人は方を並べて歩いた。

王子が聞く。「キミはボクがあそこへ行くことを知ってたの？」

少女は立ち止まる。王子も立ち止まる。

少女は、じっと王子の目を見つめて、「ええ、知っていたわ。」

王子は、なんて美しい目なんだろうと思いながら、「でも、どうして？」

「フフフ。どうしてでしょうね。」

少女は笑いながら、坂道を駆け出した。

王子は追いかける。「待ってくれよ。なんで、知ってったんだよ？」

1292　 さまよえる王子（９） 　 2008/06/16(Mon) 12:40



少女は、まるで蝶が舞うかのようにヒラリヒラリと駆け下りていく。

王子も足には自信があったが、なにせ、赤星まで足って登った帰り道ゆえ、ひざに来ている。

「おーい。待ってくれよう。」と王子が叫んだ途端、大きな石を踏んで、王子は転んでしまった。

ひざを小石で切ったようだ。ざっくり５センチほど切れている。

いつの間にか、少女が戻ってきて心配そうに見ている。

少女は突然、切り口に口をつけ血を吸い始めた。

「あ痛」

しかし、次第に、少女の温かい舌の感覚が気持ちよくなって、王子はうっとりしてきた。

「ハイ。もう大丈夫よ。」

その少女のにっこり微笑む顔を、王子はいとおしいと感じた。

1293　 さまよえる王子（10） 　 2008/06/16(Mon) 12:49



今度は、肩を並べてゆっくりと歩いていった。

王子が聞く。

「ねえ。どうしてボクがあそこに行くことを知ってたの？」

今度は、少女は、笑わない。真剣な顔をしたまま道を見ている。

「気をつけて。よそ見してたら、また転んじゃうわよ。」

二人とも、うつむいて、足の先の石をよけながら歩いていく。

「ゆうべね。」少女が口を開く。「お父さんが夢に出てきたの。そしてね、大切な人が来るから、機滝へ午後２時ごろ言って待っているようにって。」

「え？お父さんが夢に？」王子がきくと、

「うん。私のお父さんは、私が小さい頃、亡くなったんだ。顔も写真でしか知らないんだけど、夕べの夢は、とってもはっきりとしてたの。お父さんの顔が。」

少女は、夢の中の父親の顔を思い出すように、ひとことひとことかみ締めるように、話した。

 

 

1299　 さまよえる王子（10） 　 2008/06/16(Mon) 13:11



ふと横を向いた少女は、「あっ」と小さな声を上げて、王子が歩くのを制し、かがみこんだ。

さっき止まっていたひざの血がまた出始めたようだ。少女が巻きつけてくれたハンカチが真っ赤になっている。

再び少女は、ハンカチをはずすと、王子のひざに口をつけた。

「ねえ。」と王子が声をかける。

「ん？」と少女が少年を見上げる。口の周りが血で真っ赤になっている。突然見たら、口裂け女と間違えてびっくりするかもしれない。

しかし、王子は、そんな少女を、たまらなくいとおしいと感じた。

「もしも、ボクが悪い病気を持ってたら、君にも移るんだよ。」

いまさら言っても遅いのだが、半分義務感から、そして半分には少女を試すような気持ちがあったかもしれない。

「かまやしないわ。」平気でひざに口を押し付けて血を止めようとする少女。

「ボクはエイズかも知れないよ。」エイズの人に申し訳ないと思いながらも、聞いてみる王子。

「平気。あなたのエイズが私に移るんでしょ。私うれしいわ。あなたはそのぶん、少しでも楽になるかもしれないわよ。」

1300　 さまよえる王子（11） 　 2008/06/16(Mon) 13:23


血は止まったようだ。少女は口を離し、ハンカチで傷口をぎゅっとしばった。

しばらく腰を下ろしたまま、夕日が尾根を照らすのを見ていた。

そして、王子は、隣に座っているこの少女こそ、自分にとって大切な人なのだと感じた。

王子の心は不思議なほど癒されていた。

帝国のことも、両親のことも、自分を贔屓した学校の先生のことも、今はもう全然にくくなかった。

そう思うと、しかし、次の言葉は出ないのだった。

少女に言いたい。伝えたい。

でも。

そう。恐ろしいのだった。山の懐に差しかかる前に出会った少女とその両親のことを思い出していた。

恐怖の目で見られている帝国。その帝国の王子。

この帝国は、多くの町民や生徒や教師を虐殺してきた。秘密裏に。しかし、みんなは知っている。暴力支配の帝国であることを。

1301　 さまよえる王子（12） 　 2008/06/16(Mon) 13:33


肩を並べて、次第に山の影が稜線に近づいていくのを眺めている二人。

ただ、横にいるだけで、いとおしい。

彼女を放したくない。

彼女は、夢に出てきた父親の言うことを信じて、あんなところまで来て自分を待ってくれていたのだ。

この気持ちを伝えたい。「好きだ」といいたい。

そしたら、きっと彼女も、「好きだ」と答えてくれるんじゃないだろうか。

それは、確信のように、王子の心の中にどっしりと腰を据えていた。

彼女は、自分がそれを言うのを待っている……王子には、分かっていた。

でも。自分が悪の帝国の王子だと知られたら、どうなるだろう？？

迷っていた。

王子は迷っていた。

1302　 さまよえる王子（13） 　 2008/06/16(Mon) 13:44


つと少女が立ち上がった。東の稜線が完全に山影に隠れたときだった。

「もう、日が沈むわ。帰らなくっちゃね。」

王子も立ち上がった。

「ぼく」

「え？」

「ぼく、悪の帝国の王子なんだ。」

少女の表情は変わらない。王子は、悪の帝国のことを知らないのかと思った。

「悪の帝国って、あの何でも脅して、町の人にものを言わせないようにしている帝国ね。生徒や保護者だけじゃなくて、教師でも、従わないものは抹殺するって言うあの帝国ね。」

少女は淡々と言ってのけた。王子は驚いた。

「そうだよ。じゃ、じゃあ、キミは、ボクがその悪の帝国の王子だと知っても、驚かないのかい？」

それまで淡々としていた少女が、にっこりと笑って、

「あなたは、自分がその悪の帝国の王子であることに、苦しんでいるんじゃなくて？」

王子は、ますます驚いて、無言のままうなずいた。


1303　 さまよえる王子（14） 　 2008/06/16(Mon) 13:58


少女が一歩王子のほうへ歩み寄る。少女は王子の両手を両手に挟みそれを自分の右の頬にくっつけて言った。

「ありがとう。」

王子は、何が何やら分からなくなっていた。「自分はまだ『好きだ』と言ってないぞ。あくの帝国のほうを先に言ったんだっけ。そして彼女は『ありがとう』って…。」

「あなたも苦しかったでしょう。そんなくるしいことを言ってくれてありがとう。」

王子の心の中に、突然、温かいものが入ってきた。言葉にできないほど温かい感覚だった。小さな小さな頃、こんな感じを味わっていたかもしれなかった。でも、物心ついてからは常に闘うことを教えられてきた。

そういえば、山から下りてくるとき老人が言った。
「そうじゃ、お前は悪くない。でも傷ついておる。山を降りなさい。傷ついた心は、温かい人の中にあって始めて癒されるのじゃ。」

これは、瞬間的に、王子の心の中で起こったことだった。

少女が言ったあとすぐに王子は、口を開いていた。

「ありがとう。ぼくこそ、ありがとう。……キミが…好きだ。」

「もう一回言って。」

「キミが好きだ。」

「私もよ。」

もう日の沈んだ谷底は薄暗い。それでも２つのシルエットが１つに重なったのを、帰りを急ぐ山鳥が目にしていた。

1304　 さまよえる王子（15） 　 2008/06/16(Mon) 14:12


谷底は暗かったが、二人が手をつないで、谷を出てくるとまだ日の光が平地を照らしていた。

少女が言った。

「私のうち、すぐそこよ。よって行って。」

王子は、「うん」といいながらも、心は少女の家に背を向けたがっていた。

彼女の家の人が、もしも、悪の帝国を許さなかったらどうしよう。

彼女の気持ちも分かった。ぼくたちは、将来一緒になりたい。

でも、親が反対したら、どうしたらいいんだろう？

そんなことを考えて、逡巡している王子の心を察したのだろう。

少女が聞く。「心配？」

王子が答える。「うん。キミのお母さんがなんていうだろうかと思ってさ、悪の帝国ってこの辺じゃ有名だろ？　きっと許してくれないんじゃないかと思って…。」

少女は、微笑んだのか、それともキッとしたのか、よく分からない。言った。

「ねえ。私のことをどう思ってるの？　もう一度言って。」

「好きだよ。」

「どのくらい？」

「う～ん。あのお日さんが沈んでいる山の向こうくらいまで。」

「じゃあ、そこまで聞こえるように大きな声で、言って。」

王子は一瞬ためらったが、西の夕日に向いて、思い切り叫んだ。

「好きだーーーー！！！！！」

いきなり、少女は王子に抱きついてきた。

「私もよ。私も好きよ！私も好き！！」

1305　 さまよえる王子（16） 　 2008/06/16(Mon) 14:25


「さあ！行きましょ！」

少女は王子の手をとって走り出した。

王子も走る。
しかし、このとき走りながら考えていた王子の心の中は複雑であった。

「家の人に反対されたら反対されたってかまわない。その時考えたらいいことだ。彼女はぼくのことを『好きだ』と言ってくれた。それだけで、十分じゃないか。ぼくは悪の帝国の王子なんだから。家に帰ったら、帝国の方針通り恐怖政治で、いけにえをどんどん抹殺していかなきゃならないんだ。そんなところへ彼女を連れて行くわけには行かない。」

少女が振り返ってにっこり笑う。王子も笑い返す。

「じゃあ、ボクが家を出ればいいんだ。でも、家を出るって言ったって、どこへ行ったらいいんだ？どうやって食べていったらいいんだ？それだって無理なことなんだ。今すぐには。将来は、家を出て彼女を連れて行くとしても、それまで、悪の帝国の王子として付き合うのか？双方の親はなんていうだろう？待てよ。悪の帝国は見境なしに邪魔者は抹殺するから、もしかして、彼女の母親を抹殺するようなことに、ならないだろうか？」

少女が立ち止まって、はぁはぁ言いながら言った。
「あそこよ。」

1306　 さまよえる王子（17） 　 2008/06/16(Mon) 14:37


「あそこよ」

少女が指差した家は、お世辞にも大きいとはいえない、粗末な一軒家であった。家のすぐ上がお墓になっている。

少女は王子の手を引いて小走りで家に向かう。王子のほうを向いて、

「もう、お母さん、帰っている頃なんだけど、帰ってるかなぁ。」

といいながら、入り口に立った。王子はもうどうやって自分が立っているのか分からない。

「ただいまぁ」と少女が言った。

「おかえり」と女の人の声がする。

出てきたのは、少女の母親だった。少女と同じ面影がある。

少女だけでなく、手をつないだ王子がいたことに少し驚いた風だったが、にっこり微笑んで

「いらっしゃい。さあ、どうぞ。」

どうやって、靴を脱ぎ、どうやって座ったのか王子は覚えてない。

丸いちゃぶ台を囲んで３人が座る。ちょうど、ちゃぶ台の円周を３等分した位置に顔を合わせて座る。


1307　 さまよえる王子（18） 　 2008/06/16(Mon) 14:51



「そう、この方だったのね。お父さんが言ってくれた人は。」

と少女の母親が言う。

「うん。やっぱりそうだったでしょ。私、絶対に居ると思ったわ。夕べの夢の中のお父さん、とっても優しそうに私を見てたんだもん。」

母親がうつむいて目頭を押さえる。

少しの間、静かなときが流れる。

王子は、口を開いた。

「あのう、ぼく…。ぼく、」

少女と少女の母親が、王子を見る。少女は、王子が何を言わんとしているのか分かっている。

「あのう、ぼく、悪の帝国の王子なんです。」

つばを飲み込んで、母親の返事を待たずに

「今日、山でお嬢さんに会いました。会ってすぐに言うのも変かもしれませんが、お嬢さんのことが好きです。」

王子は、どもりながらでは会ったが、一気にそこまで言った。

そして、大きく息をついて、机の上を見ている。一瞬、立ち上がって走り出したい衝動に駆られた。しかし、少女が王子の方にひざを寄せて手を握ってくれた。



1308　 さまよえる王子（19） 　 2008/06/16(Mon) 15:07


時計がカッチカッチと音を立てている。心臓がドックンドックンと鼓動している。どっちの音の方が強いのか分からない。

王子がチラッと顔を上げて少女の母親を見ると、母親とピタッと目が合った。ずっと、自分が顔を上げるのを待ってくれていたんだな、と王子は思った。

母親は、優しそうに口を開いた。

「王子さん。いらっしゃい。本当によく来てくださったわね。」

そして、母親は、少女が昨夜見た夢のことを少女から聞いて、それは本当に父親が大切なメッセージを伝えに来たんだと思ったこと。なぜなら、自分の夢にも整然のままの主人が出てきて、幸せそうに微笑んでいたからだということ。

少女が家に帰ってきたら、本当に誰かが居たのかを聞こうと思っていたこと。
そしたら、実際につれていていたから、びっくりしたことなどを話した。

少女の母親の話し方は穏やかでやさしくて王子は好きだった。どこかに、遠いところを見て話しているような感じがするのが不思議だった。

母親は言った。

「王子さん。あなたは、さっき『悪の帝国の王子なんです』っておっしゃったけれど、本当に『悪の帝国』なの？」

王子は思いがけないことを聞かれて、びっくりした。



1320　 さまよえる王子（20） 　 2008/06/16(Mon) 15:23


少女の母親は続けて言う。

「王子さん。あなたはいい人ね。あなたが苦しんでいるのが、私にもよく分かります。」

どこかでこんなことを言われたな、と思いながら、王子は、『そうだ、山道で少女がそんなことを言ってくれたような気がする』と思っていた。

そうして、次に、少女の母親が一呼吸おいて話し始めたことは、王子を心底びっくりさせた。

「王子さん。私も苦しんだことがあるのよ。だから、あなたが苦しんでいるのが分かる。って、言うことは、あなたは他人の苦しみが分かる人よ。私は、娘があなたを連れてきてくれたことを本当にうれしく思うわ。

「他人の苦しみが分かる人は、苦しんでいる人のそばに立って、癒して差し上げることができます。あなたは、王子さまでしょ。そしたら、あなたが苦しんだことによって、これから先、どんなに多くの人が苦しみから救われることでしょう。そう思いませんか？

「私の夫は、悪の帝国に殺されました。言いなりにならなかったので、追い詰められうつ病を再発させて、その後、復帰をめざしていたんだけれどもね、調子が悪いときがあって、ちょっと目を離した隙に、自殺していたわ。」

王子は、その瞬間、大きな渦巻きが自分を巻き込んで、グルグルと沈んでいくような気がした。

「私たちは、と言ってもこの子はまだ小さかったけれどね、おとうさんおとうさんと言って泣いていました。私たちは、この悲しみから抜け出すのに、どんなに苦しんだことか分かりません。」

「でもね、」

 

1323　 さまよえる王子（21） 　 2008/06/16(Mon) 15:41


「あなたが本当に人間としてすばらしい人じゃなかったら、王子様という地位にどっぷりと浸ってしまって、それを苦しむことなんてなかったでしょうね。

「また、私の夫が元気であれば、私たちはあんなにも苦しむことはなかった。ということは、今目の前にこうしてあなたがいても、あなたと言う人が分からなかったでしょうね。」

少女の母親がこういったとき、グルグルと沈んでいっていた王子の心はピタッと止まった。

少女が握っている手に力をこめて、王子の顔を横から覗き込む。王子がにっこりと微笑む。少女もにっこり微笑む。

少女は言う。
「不思議ね。王子様、あなたのお父様やお母様もこれまで苦しんでこられたことがおありなんじゃないかしら。あなたたちの『苦しみ』と、私たちの『苦しみ』があったから、今日、私たちは、出会えたのよ。ねっ。」

その意味が王子にはよく分かった。

もう、あのまま山の中で死んでしまってもいいと思って、駆け上った自分。
山頂から下りるとき、たまたま滝方向の道を選んだので出会った老人。その老人が言ってくれた言葉。『傷ついた心は、温かい人の中にあって始めて癒される。』
そして、今、自分は、深く深く癒されている。


 

1327　 さまよえる王子（22） 　 2008/06/16(Mon) 16:06


もう、外は暗くなっていた。

王子は、少女と少女の母親にお礼を言って家を出た。二人とも、外まで出てきて見送ってくれた。しばらくすると、少女の声がした。

「忘れ物よーー。」

王子は立ち止まって振り返る。
追いついた少女が、

「忘れ物よ。ハイ、うつむいて。」

という。おや？　帽子をかぶっていたかな？　と思ってうつむいた王子の左の頬に、少女のやわらかい唇がくっついた。

顔を上げて王子の顔を見ながら、
「忘れちゃだめよ」
という少女。周りはもうすっかり暗いので街頭の光でかろうじて見えるのだけれど、王子にははっきりと少女の顔が分かる。頬を赤く染めて、少し恥ずかしそうに、立っている。

「さようなら。」
「さようなら。」

三歩進んだところで、再び少女の声がした。
「王子様。」

振り返る王子。

少女は両手を大きく振って
「『苦しみ』ばんざーい！」

そして、母親の方へ帰っていった。

「『苦しみ』ばんざい」　王子は口の中で繰り返す。


なんて長い一日だったのだろう。でも、なんて大きな出会いだったのだろう。

ありがとう。ありがとう。王子の頬を涙が止めどなく流れ落ちる。

次に、いつ会うか、約束はしてない。でも、王子の心の中には、少女や少女の母親との間に固い絆が生まれたことが手に取るように分かる。


「『苦しみ』ばんざい」　王子は、もう一度、口の中で繰り返す。

君が寄せてくれた信頼。君が吸ってくれたぼくの傷。君が癒してくれたぼくの心の傷。

ぼくも、これから、人の苦しみを癒せるような、温かい心を育もう。

そうして、君と、君のお母さんとお父さんに恩返しをするんだ。

今日の不思議な出会いをくれた赤星山。ありがとう。

あなたが山頂から見つめている全ての人に、恩返しをするんだ。

１０００年…。２０００年…。ぼくの魂の限り。

 



1331　 さまよえる王子　あとがき 　 2008/06/16(Mon) 16:31


ご精読どうもありがとうございました。一体自分でもどうなっていくのか分からないまま、キーの打たれるままにうっていきました。ひとまずこれで、「終わり」です。しかし、二人の未来はこれから始まっていくわけで、新たな出会い、そして降りかかる障害は、今から切り拓いていかなければなりません。

赤星山は、いつも私たちを見下ろしています。
１０００年前も、２０００年前も、今と変わらずに見下ろしていたのでしょう。

赤星山や赤石連峰から流れてくる清流。その水に育まれた土居平野。そして、美しい瀬戸内海に臨む海岸線。仏崎から見る海岸の景色は、私がもっとも好きな景色のひとつです。

この日本一美しい自然を持つ土居町を大切にしていきたい。

書いているうちに、そういう思いが強く強くなっていきました。

王子と少女。名前はついに出てきませんでした。この二人は今後どうなっていくのでしょうか？　
二人の未来が周囲の人々からも育まれ、祝福されることを祈りつつ、あとがきにかえさせていただきます。
五月雨次郎

 

　　　　　　　　　第１章　終わり　　　　　　　　目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第２章

　　　　　　

 

　　　　　　　　　　〔１〕

 

王子にとって、１週間が早かったのか遅かったのか、自分でも分からない。また、少女に会いたい。少女と出会ったあの滝のこと、帰りの山道、少女の母親との出会い、見送ってくれたときの少女のくちびる…それらの一つ一つの断片が、次から次へと浮かんでくるのだった。気がつけば、ぼうっと、少女のことを考えていた。

次の土曜日、朝８時半、少年は、少女の家へ行った。

『朝早すぎてもいけない。遅すぎると少女は出かけているかもしれない。』そう考えて決めたのがこの時刻だった。

県道を南に入って、ちょっと急な坂道を登ると、少女の家があった。坂道の左手には川がある。傾斜に沿って勢いよく水が流れている。それほど大きな川ではない。

王子は、ポケットに手を入れてハンカチを取り出した。あの時少女が、傷ついた足に巻いてくれたハンカチ。傷は、翌日病院で１２針塗った。あれから、何度も何度も、少年はハンカチを洗った。石鹸をつけて、両手で何度も洗った。しかし、血のあとは完全には消えなかった。薄く茶色くなっている。アイロンをかけてシワ一つないようにしたが、ハンカチが真っ白でないのが残念だった。

 

 

 

 

〔２〕

 

玄関の戸は開いていた。その前に立ったときだった。玄関から上がったすぐの６畳の部屋から、ザッという音とともに、小さな砂のようなものが飛んできた。そして、次に現れたのが、少女だった。お互い、顔を見合わせて、数秒間、声が出ない。そして、次の瞬間二人とも同時に笑い出した。

「ごめんなさい。あなたに埃を掃きつけちゃったわね。」

「いや、僕が勝手に立っていたから。掃除してたんだね。」

「ええ。土曜日の朝は、大掃除の時間よ。」

少女は、玄関を降りて、王子の服についた埃を払う。そして、顔を上げて

「さあ、上がって。」

すぐ目の前に見る少女の、笑顔。それは１週間前と変わらぬ、明るいやさしい笑顔だった。

「じゃあ、…おじゃまします。」

と言って玄関を上がった王子は、

「お母さんは？」

と訊く。はじめに挨拶をして、１週間前のお礼を言いたいと思ったからだ。

「母さんは今日はお仕事よ。だから、私が、１週間分の掃除するんだ。ちょうどいいところに来てくれたわ。掃き掃除が終わったところだから、今から拭き掃除するの。バケツに水を汲んできてくれる？　前に川があるでしょ。あそこで組んでね。」

少女に渡されたバケツを持って王子は、また外に出た。さっき上ってきた坂道はさらに続いて、その終点が墓地になっている。そこはちょうど少女の家の屋根の高さと同じである。その一角に黄色い山吹の花が咲いていた。

『今日の彼女は、山吹の花みたいだ』と王子は思った。

バケツを川に入れると、いきなり体ごとぐっと引っ張られた。小さい川だが、水の流れる勢いはかなり強い。

顔にかかった水しぶきをぬぐいながら、家に入る。少女は、玄関とその周辺を掃き終えたところだった。

 

 

 

 

〔３〕

 

 

少女は笑顔で言った。

「あのね、あなたが拭き掃除を全部やってくれるんなら、その間に私、洗濯ができるから助かるんだけど…。」

王子は、笑う。少女の口調には、もう王子がそうするものと決め付けているような勢いがあったからだ。でも、王子は却ってそれがうれしい。

「どこを拭いたらいいんだい？」と訊く王子に、

「全～部よ。ぜんぶ。」と、相変わらず笑いながら少女は雑巾を差し出す。「畳の上は特に雑巾を固く絞ってね。」

そう言うと、少女は、洗濯籠を持って外へ出て行った。

 

王子は玄関の床からはじめ、縁側、食事場…と板の間をどんどん拭いていき、バケツの水が黒くなったので、水を替えに外に出た。少女は、皮の一番上のところにある、河が直角に曲がっているところ（そこは少し広くなっていた）で、洗濯板を立てかけて、ゴシゴシとこすっていた。

「それ、何だい？」

「あら、洗濯板よ。知らないの？」

「はじめて見るよ。洗濯機使わないの？」

「ウチには洗濯機はないの。」

「フーン」

少女が手際よく洗濯板に服をこすりつけ、服の裏表全ての面を次々ときれいにしていくのを、王子は感心してみていた。

「これはね、手作りの固形石鹸よ。川に流しても、環境に影響がないのよ。」

少女は石鹸を見せて、次の服にこすり付ける。

少年は、また水を汲んで、家の中へ入っていった。そして、さっきよりももっと力を入れて、畳の上を、固く絞った雑巾で拭いて行った。

『雨の日も外でああやってやるのかな？雪の日も？』

ハンカチ一枚を何度もゴシゴシとこすって洗ったこの１週間。それを思い出して、王子は、何か少女が自分より年齢が上のしっかりしたお姉さんのような気がした。と同時に、あの小さな体で、一生懸命洗濯板でゴシゴシこすっている姿を見ると、いじらしいような、なんとしても守ってやりたい妹のような気もした。

 

 

 

 

 

〔４〕

 

掃除と洗濯が全部終わったのは、１０時半頃であったろうか。

と言っても、最後の洗濯物を干すのは、少女が一人でやって王子に手伝わせなかったので、王子は一人で、家の周りをぶらぶらしていたので、王子自身は実質１０時までだった。

洗濯物を全部干し終わった少女は、いかにもうれしそうに、ニコニコして王子のところへやってきた。

「ありがとう！おかげで大助かりよ！午前中少し遊べるわね。お墓に行こうか。」

「遊ぶ」ことと「お墓」とがいまいちピンとこなかったが、王子は少女について、歩いて行く。さっき見た山吹の花が、咲き誇っている。「アッ」と少年は思った。少女のブラウスの背中に黄色のスマイルのマークがプリントされている。少女らしいな、と思った。

「その背中のマーク、かわいいね。」

歩きながら王子が言う。

「ああ、これ？　私はあまり好きじゃないのよ。ちょっと幼すぎるでしょ？」

『そこが、君らしくて、またいいんだよ』と言おうと思った王子は、

それを口にするのはやめた。

「いつも、ああやって、君が、掃除と洗濯をするのかい？」

「そうよ。母さんはね、お仕事が大変なの。それに体がよくないのよ。だから、母さんには家ではできるだけ休んでもらうようにね、私がするの。」

「洗濯機や掃除機は使わないのかい？」

「そんなものないわ。お金がかかるでしょ？ウチはできるだけ節約しなくちゃならないからね。電気代もただで済むでしょ？」

「えらいなあ。」

王子は、心の底から言ったのだった。

「そうかな？私は、掃除機や洗濯機を使う方が変だと思うわ。そんなもの使わなくても掃除も洗濯もできるもの。あなたは、どうしているの？」

掃除も洗濯も家ではほとんどしない王子は、どぎまぎして、

「あ。そうだ。これ。」

ポケットからハンカチを取り出した。

「ボクが洗ったんだ。ゴシゴシこすってね。」

王子は元気に言った。

「まあ…！」

少女はそれを手にとって、しばらく見つめていた。

王子はその時、ハンカチが血の跡だらけで真っ白になってないことを思い出した。

「あ、それ、何日もかけてこすったんだけど、どうしても血の色が取れなくて…、汚くて、…、ごめんね。」

あわてて、王子は付け足す。

「アイロンもあなたが自分でかけたの？」

「ああ。ちょっと、端っこの方がずれてるけどね。」

もう、王子の言葉には元気がなかった。

じっとハンカチを眺めていた少女は、突然、ハンカチをカ両手で顔にくっつけた。そして大きく息を吸い込んで言った。

「あなたの匂いがするわ。」

ウグイスの泣き声がする。どこから飛んできたのだろう。

ハンカチを離した少女の顔は、とても穏やかだった。『天使ってこんな顔なのかな？』と少年が思うほどだった。

「ありがとう。真っ白じゃない方がいいの。あなたの血の匂いがするほうがいいの。あなたが、心をこめてきれいにしてくれたことがうれしいの。ありがとう。」

少女は、王子の目を見て、そう言って、にっこりした。

山で初めて出会ったときの目だった。

 

 

 

 

 

〔５〕

 

少女と王子は墓地に入る。

少女が言う。

「私ね。小さい頃から、いつもここで遊んでいたの。ほら、ここを上がってねここを見て。足が置けるでしょ。そこに足をかけて上に上るの。小さいときは、すごく高いところに上った気がしてたわ。ホラ。これはその頃隠した。指輪よ。宝物。」

王子と少女二人が上がるには狭かったかもしれない。しかし、少女の後から上がって、王子は景色を見ながら、小さな少女が一生懸命上って宝物を隠している姿を目の中に浮かべて微笑んだ。

 

そこを降りて、墓地を奥へ歩きながら、少女はいろいろと案内してくれた。

大きな木があったところ。近所の友達大勢とその気に上ったりブランコをしたりして遊んだこと。でも、今はその木はもうない。

墓地内の通路は、昔は土の道だったのに、いつの間にかコンクリートで舗装されたしまったこと。

地域の子供会の夏の行事で、肝試しをやったとき、ちょうど少女の家の前にみんなが集合待機して、一人ずつ出発して、お墓の一番奥まで行く。そのとき、待機している子供の一人が少女の家の壁を見て「ゴキブリがいる！」と言って懐中電灯で照らし、大きなゴキブリを見たみんなが気持ち悪がったこと。

「ゴキブリがスルスルーと家の中に入っていったときは、恥ずかしくてたまらなかったわ。」

墓地の中を歩きながら、そういった一つ一つの小さな思い出を少女は話してくれた。

お墓を通り過ぎると、畑や小さな森や小川のある田園風景が広がる。

「この道はね、がけ際にあって危ないから、『もうひとつ奥のアッチの道を通りなさい』って母さんに言われてたんだけど、その言いつけは守らなかったわ。だけど、おうちに帰ったら、『奥の道を通って帰ったヨ』って、ウソをついてたの。」

ウフフといたずらっぽく少女は笑う。

 

そして、少女は太陽が高く上ったのを見て、言った。「さあ、もうお昼ね。」

少女は昼から部活動があると言う。２人でと通ってきた道を逆に戻る。

「ちょっと待っててね。」

と言って少女は家へ入っていった。

王子は、もっともっといっしょに居たかったのに。あっと言う間だった。

今日は、手さえつないでない。１週間前のことは、一体なんだったのだろうか？

今日午前中、少女と一緒に居れたことが、王子にはとてもうれしかった。幸せな時間だった。しかし、それは、終わった。

１週間前に少女は、「好きよ」と言ってくれた。あれは何だったのだろうか？　

「もしかして、自分のことを『父親として』好きなのではないだろうか？」

それは、突然、王子の心の中に浮かんだ考えだった。１週間前のことをまた思い出してみる。父親の夢の話。夢の中で語ったところへ行ってみたら、自分がいた。そこに彼女は父親の姿を重ねてみていたんじゃなかろうか？

王子は、がっかりする自分を意識した。

「でも。」と思う。「じゃあ、自分は彼女のことをどう思っていたんだろう？」

「恋人として？」……いや、……違う。

自分には兄弟がいない。でも、もしいたとしたら、妹のような、そんな感情だろうか？

彼女のしぐさや表情の全てがいとおしかった。かわいらしかった。

今日見た彼女は、現実世界の中で、汗を流して働いている彼女だった。墓地を遊び場にしていたという思い出を語ってくれた彼女だった。そんな彼女もいとおしかった。

 

ぼんやりそんなことを考えていると、少女が、「ゴメンね。待たせちゃって。なかなか見つからなかったの」と言って、出てきた。

「ハイ、これ。」

差し出された少女の手のヒラには、一片の栞が載っていた。

その栞には、山吹の花の押し花が、テープで止められていた。

「これ、あそこのあの山吹？」

「ええ、そうよ。」

「君が作ったの？」

「ううん。お父さんがまだ生きていたとき、いくつか作ってくれてたの。」

「そんな大切なもの、君が持ってないとダメだよ。」

「持ってるわ。ホラ。」

少女の片方の手には、同じような栞がある。

「ね。おんなじでしょ。でも、私は、こっちの方が好きなの。だからあなたはそっち。ね。」

「ありがとう…」

王子はその栞を見つめる。

「大切にしてくれるわよね。」

「うん！もちろん。大切にするよ。」

少女はにっこり笑って、

「じゃあ、またね。」

と言った。王子も、にっこり笑顔を作って

「ウン。じゃあ、また。」

と言った。

「部活に遅れるから、私お昼にするわね。さよなら。」

少女は、もう一度にっこり微笑むとそう言って家の中に入っていった。

 

 

 

 

〔６〕

 

次の週も、王子は行ってみた。会えなくてもいい、とにかく行くだけでも行ってみよう、と思って。

果たして、少女は川で洗濯をしていた。

ゆっくり王子が上がっていく。少女は気がつかない。

家の前に差しかかる頃、やっと少女は、顔を上げた。王子と目が合う。王子を見て少女は、まるで来るのを待っていたわと言うかの様にニッコリとした。

「掃除しようか？」と王子が言うと、少女は

「ううん。もう全部やったわ。今朝はいつもより早く始めて、気合入れてがんばったの。もうこれ干したら終わりよ。」

手を止めず、明るく答えた。

全部洗い終えて、洗濯籠を運ぼうとする少女に、王子はさっと手を出し、洗濯籠を受け取る。王子が先に立って、家の南側に運んでいく。少女はその後から、ついてくる。山吹はもう半分以上散っている。王子が籠から洗濯物を取ろうとすると、少女は、あわてて

「ダメ！ダメ！」と王子を制した。そして、

「女の子の下着が入ってるのよ。それに触るつもり！？」と口を膨らませる。それを見て王子は、怒った顔もかわいらしいと思う。

「後はいいから、あっちで待ってて。」

「ハイハイ。」

こうしてみると、追い出されて、散っていく山吹の花を肩に乗せながら、歩いていくのも風情がある。

 

１時間後、少女と王子は、赤星山のふもと、渓谷の入り口に来ていた。２週間前に一緒に歩いた渓谷とは違う。もうひとつ西の面白渓谷である。少女は、まるでカモシカの子供かと思うように、上るのが速い。時に走り出して「野イチゴの実がなっている」と王子を呼んだり、時に後ろから木の葉のついた枝で王子をくすぐって、逃げ出したり。美しい緑の渓谷の林道をどんどん登っていった。

ある場所に来たとき、少女は止まって何かを探していた。そして、谷川の遠くを指差して言った。

「ずーーっと向こうにね、きれいな滝があるの。面白の滝っていうの。わたし、かすかに覚えてるんだけど、昔、お父さんにつれてきてもらったことがあるの。そのときはね、まだこの林道は滝まではつながってなくて、ここから細い山道を歩いていったのよ。」

少女は、その昔歩いたという山道の入り口を探していたようだ。しばらくして、「ダメね。」とあきらめて林道へ降りてきた。林道ができてから、その山道は使われなくなって、木々の中に埋もれてしまったらしい。

二人は林道を歩いていった。

しばらく、くねくねと林道を歩く。

しばらく歩いてカーブを曲がったとき、少女が言った。

「ホラ、あれよ。」

谷の中に、斜めに落ちる滝が堂々とした姿を現した。

「ほーー。」

突然あらわしたその滝の雄姿に、思わず声を上げる王子。

そのダイナミックな景色の変化のなんと心地よいことよ。まだ滝そのものは遠方にある。しかし、何か厳かさを感じる。

「行きましょ！」

少女が走る。それから、少し行ったら、滝に着いた。林道から、林の中をくぐって、まず少女が滝の真上の岩の上に立つ。

「ああーーー！いい気持ち。」

少女が両腕を上げて空を見る。そして振り返って、王子に

「ほら、こっちに来てごらん。」

と、王子の立つ場所を空ける。おそるおそる岩の上に立つ。こんなところで空を見上げたりしたら、滝に吸い込まれそうだ。その気持ちを感じたのか、王子の右手に、少女の左手が滑り込んできて、ぎゅっと握ってきた。

微笑む少女の目は「ほら、大丈夫でしょ」と言っていた。

 

 

 

 

〔７〕

 

その岩の上に並んで座って、二人は、少女の作ったおにぎりを食べる。

「うまい。うまいなあ。」

王子が絶賛する。

「あたし、お料理、得意だからね。」

と得意そうな少女。

「問題は、この中に入っている梅干なの。これをつけるのが難しいのよ。」

「へぇ－。この梅干、君が作ったのかい？」

「そうよ。お母さんから教わったの。お父さんが大好きで、毎年作っていたんだって。」

西の稜線と東の稜線の間、ずっと向こうに瀬戸内海が見える。今、すぐ横を通って滝を落ちている水は、はるかな旅をして瀬戸内海へ辿り着くんだなあ、と思いながらその景色に見とれ、そして思い出してはおにぎりを食べ、ふと気がつくと、少女も黙っておにぎりを食べている。しかし、その目は瀬戸内海よりもずっとずっと遠いところを見ているようだ。

王子にはその瞬間、少女の心の中が、手に取るように見えた。

「おいしかったよ。」

と言うと、少女ははっとしたようにわれに返って、王子の顔を見た。

王子が口を開く。

「きっと、君のお父さんは、君の作った梅干を食べたかっただろうね…。」

見る見る少女の目が涙でいっぱいになり、それは岩の上にポタポタと落ちた。少女の右手にはまだおにぎりが残っていた。しかし、そのおにぎりは手から離れ、川の中へ。そしてたちまち滝に吸い込まれて、はるか下へ。少女は、反対側へ体を向けて両手を洗い、そして、顔を洗った。何度も何度も水を救っては顔を洗った。

王子は、何も言えなかった。胸がいっぱいだった。王子の目からも涙がこぼれそうになった。王子はようやく我慢した。王子は立ち上がって少女の方へ２,３歩進み、右手を自分のズボンで拭いて、少女の後ろにしゃがみこんだ。

両手を軽く、触るか触らないか分からないくらいに軽く、少女の両肩に置き、言った。

「ごめんよ…。」

少しして、少女は、立ち上がり、ハンカチで顔を拭いてゆっくりと王子のほうに顔を上げた。目が赤い。でも、スッキリとした表情である。

「わたしこそ、ゴメンね。」

少女は、ハンカチのぬれていないところを王子の顔に伸ばし、王子の目を拭いた。

 

 

 

 

〔８〕

 

「滝の下へ降りてみようか。」

と少女が行った。

「降りられるのかい？」

「うん。こっちよ。」

少女の後について細い道を歩いて行くと、さっき上から見おろしていた滝が真横に見える。斜めに落下して行く滝の水が木々越しに見える。

少女は相変わらず、身軽だ。ぴょんぴょん飛び降りるように進んでは、振り返って王子を待つ。王子は、滑って尻もちをつかないように慎重に足元を見て降りて行く。

急に明るくなったと思って前を見ると、正面に滝つぼがあった。少女が言う。

「どう？素敵でしょ？」

「きれいだねえ。」

王子は、滝を見上げる。上から下を見下ろしたときよりも、滝のてっぺんは低いように思えた。滝の周囲は開けていて、明るい。そして、山の木々が日の光を受けて豊かな緑を見せている中を、キラキラと斜めに流れ落ちてくる白い水。その風景にしばらく二人は見とれている。

突然少女が行った。

「ねえ、私を肩車してくれない？」

「えっ？」

「肩車よ。こうやって、しゃがんでくれたら、私、首のところにまたがるから。」

王子は言われたとおりにする。思ったより、少女は軽い。ゆっくり立ち上がる。少女が言う。

「アッチの方を向いて。滝の反対の方。」

滑らないよう用心してゆっくりと王子は体の向きを変える。

滝の上から見えた瀬戸内海は見えない。しかし、東西の稜線が両方から４５°の交わり、その上を青い空が覆っている。そのコントラストが美しい。

少女は何も言わない。

王子は、じっと少女が次に口を開くまで待とうと思った。

「お父さん…」

それは、王子の空耳だったのかも知れない。

王子が「えっ？」と聞き返すのと、少女が「いいわよ。おろして。」と言うのが同時だった。王子はゆっくりとしゃがんで少女をおろす。

少女は、まっすぐ王子のほうを向いて、

「ありがとう。」

と言った。その表情は、これまでに見た少女のどの表情とも違っていた。

少女は、じっと王子を見つめている。王子も、少女を見つめる。

ふと視線を落とした少女は一歩足を踏み出し、その顔を王子の胸にくっつけた。王子はドギマギした。王子は体が動かない。少女の両腕が王子の胴体にまわり、体がぴったりとくっつく。王子は、少女の両肩を軽く、触れるか触れないかくらいに軽く触る。

少女は、ますます、顔を王子の胸にうずめて、イヤイやをするかのように、左右に振る。

太陽が、西の稜線にかかる。

 

 

 

 

〔９〕

 

つと、少女は体を離して、王子を見た。そして言った。

「ありがとう。わたし、どうしても、こうしてみたかったの。」

「うん。」

「ゴメンナサイね。あなたのシャツを少し濡らしちゃった。」

王子は自分の胸を見る。確かに少し練れている。『少女は泣いていたのか？』

「鼻水じゃないからね。」と少女はいたずらっぽく笑う。しかし、その顔には、まだ、さっきの一種真剣な表情が残っている。

「私ね。」

少しの間をおいて少女が口を開いた。

なんとなく、次に出てくる言葉がすでに分かっているような気持ちで、少年は少女を見ている。

「あなたに会ったときから、ずっと、ここに来て肩車をしてもらいたいと思ってたの。お父さんがなくなる少し前に、家族3人でここに来たんだって。私には、なんとなく記憶があるようで、でもはっきりした記憶はないの。ここで、お父さんに肩車をしてもらって、いる写真が１枚あるわ。お父さんと私が一緒に写っている写真はそれが最後なの。」

少女は、王子を見ながら、一気にそこまで言った。そして、大きく息をつくと、涙をポタポタこぼしながら、続けて言う。

「そのお父さんは……」少女の方が震えている。

「うん」と王子はうなずく。

「お父さんは、笑っているのよ。」

少女は、突然、ううーーと声を上げて泣きじゃくりだした。

泣きじゃくりながら、声にならない声で話し続けた。

「お父さんはうつ病だったの。

「私が生まれて少ししてうつ病になったらしいわ。

「だから、私が生まれてからあとの、お父さんの写真はあまりない。」

王子が、今度は一歩踏み出して少女の両肩に手を当てた。自分でも、何も考えず。そして、次の瞬間気がつくと、両腕で少女を強く抱きしめていた。

少女は、王子の腕の中で激しく泣く。顔をさっきのように王子の胸にうずめて激しく泣く。王子は右手で少女の背中をさする。

何分経っただろうか。

ようやく、少女は泣き止んだ。王子は少女を抱いていた腕を離して、一歩下がる。少女はうつむいたまま、

「ごめんね。」

と言う。

「今度は、ホントに鼻水もついちゃった。」

王子が自分の胸を見ると、確かに、グショグショになっている。

しかし、王子は、それがうれしかった。なぜ、そんな気持ちになるのか分からなかったけれど、汚いとはちっとも、感じなかった。

王子は言う。

「よかったよ。前は、ボクの血を君のハンカチにつけただろ。今度は君の鼻水をボクの服につけてもらえて。ぼく、こんなのが欲しかったんだよ。」

それで、ようやく少女は、涙にぬれた顔を上げる。

「ありがとう。」

そう言って、少女は、王子の右手を取って自分の左の頬に当てた。

「帰りましょうか。」

「そうだね。」

 

 

 

 

〔１０〕

 

帰りは、王子のほうが速く進みがちだった。あの跳ぶようにはねていた少女に比べると、とてもおとなしく感じた。元気がないように感じた。実際に少女は、おとなしかったのである。帰り道では、二人ともほとんどしゃべらない。

二人で方を並べて歩いて行く。

そんな少女が、最初に口を開いたのは、道の傾斜がほとんどない緩やかな平坦部を歩いているときだった。

「この前、私が、お父さんが夢に出てきたことを話したでしょ。」

「うん。」

「わたしね、お父さんが、生き返ってきてくれるような気がしてたの。」

「うん。」

王子は、いつか、少女からそのことを聞くだろうと思っていた。

「機滝（はただき）に着いて、少し待っていたら、あなたが現れたのよ。わたし、ほんとにお父さんだって気がした。神様が、天国からよこしてくださったんだなって思った。」

王子は、（ぼく、老けてるからね）と冗談を言おうかと思ったが、まだそういう空気ではないと思って、ただ、

「うん。」

と答える。そして、次の少女の話を待ったが、少女がまた黙ったので、王子は、

「ぼくと、君のお父さんは似てる？」

と訊いた。少女は、すぐには答えない。しばらく黙って歩く。

「わたしね、」

「うん。」

「お父さんのことを、知らないのよ。よく覚えてないの。写真はあるのよ。だから、お父さんとお母さんが結婚する前にお付き合いしていた頃の写真とか、私が生まれて私を抱っこして喜んでいる写真とか、写真でだけ、お父さんを知っているの。」

「うん。今日の滝の写真がさいごの写真だっ…」

（たんだね）と言おうとして、王子は『しまった』と思った。父親が自分と一緒に写って笑っている最後の写真。

急に黙ってしまった王子の心を察して、少女は王子の手を握り、王子のほうを向いてにっこり笑って、

「そうよ。」

と言った。ずっと、足元を見て歩きながら話をしていた少女が、このとき初めて自分の方を見て笑顔を作ってくれたことを、王子は真にありがたいと思った。自分にとって、つらいことに違いない。最愛の肉親の、一緒に写っている最後の写真。しかし、それは、実体験としての少女の記憶の中には、はっきりとしては、残ってないのだ。

今度は王子のほうが先に口を開いた。

「君は、確かめたかったんだね。」

歩きながら、こっくりと少女がうなずく。

「あなたが家に来てくれるようになって、私はとってもうれしかったの。もし、お父さんがいたら、こんな風に一緒にお掃除をしたり洗濯したりしてたかも知れない。そんな気がして、お父さんと一緒にやっているようで。お墓で小さい頃遊んだことも、お父さんに聞いてほしかったんだ。きっと。」

王子は、思い切って、訊いた。

「どうかな？　その、…、今日、面白の滝でね、ぼくが肩車したよね。お父さんのこと、…、その、何か思い出した？」

少女に対して、厳しい質問であることは分かっていた。でも、これを訊いておかなければ、少女とは、これっきり会えなくなってしまうような、そんな気がしていた。

少女の答えを待ちながら、何歩か歩く。

「思い出したかもしれない…。」

少女が答えた。

「でも、よく分からない。」

少女が足を止める。王子も立ち止まる。

少女は王子の方を向いて、言った。

「でもね、あたし、本当に幸せよ。お父さんが夢で言っていたとおりに、誰かが現れて、その人のことを私は好きになって。ずーっとずーっとやってみたいって思ってた、あの滝の下での肩車も、してもらえて。わたし、お父さんは、本当にいたんだって、今日、とっても、そう思ったの。ほんとに、ありがとう。」

王子は、黙ってうなずいて、林道を降り始めた。少女が一歩遅れて、その斜め後ろを歩く。

王子は、涙がこぼれそうになったのだった。

少女が「ほんとに、ありがとう。」と言ったとき、急に、涙がこぼれそうになったのだった。

それを、少女に見られたくなかったのだ。

少女は、横に並んで歩く。

『この子のためになることなら、ぼくは何だってしよう。火の中にだって入ろう。』

王子はそう思っていた。

 

 

 

 

〔１１〕

 

この二人の間に生まれた感情をなんと呼べばいいのか、私は分からない。恋愛ではない。しかし、ほのかな恋愛の香りもする。

王子が『この子のためになることなら、ぼくは何だってしよう。火の中にだって入ろう。』と思ったとき、それはすでに無償の愛と呼べるものになっていたのではないか？　たとえ、今後少女がほかの人と恋愛をするようになったとしても、このときの王子の気持ちであれば、嫉妬の心は起こらないであろう。その恋愛の成就のために自分が火の中に入ることだって、迷わずするだろう。

 

一方、少女は…？　少女は王子よりもさらに幼い。しかも、洗濯機も掃除機もテレビも無い環境で、母と子の生活を支えあって一生懸命生きている。そんな中で、少女は、亡き父親との絆を確かめたかった。物心着く前に分かれることとなってしまった父親。その父親との絆のはっきりとした記憶がない。それを確かめたい。小さいときから質素に暮らしていく中で、同級生が欲しがるような”もの”は少女にとってどうでもいいことだった。少女の心の中では、家族の絆を確かめることが何よりの願いだった。かといって、どうやって確かめればいいのだろう？これまで何度も何度も繰り返してみた、あの滝の前での父親との写真。たどって行くかすかな記憶。しかし、つながらないもどかしさ。そんな中で、現れた夢の中の父親と、現実の中の王子。王子がいなければ、つながることはなかっただろう。王子でなければならなかったのである。まだ、少女の心の中では意識化はされてないが、潜在意識の中でははっきりと分かっていた。自分にとって、この人が必要な人だということが。父親と同じくらい大切な人だということが。その父親のためなら、自分の命を迷わず投げ出すであろう。

 

としてみれば、王子にとっても、少女にとっても、この出会いは運命の出会いだったのである。

しかし、運命は、時に残酷である。過酷な試練を投げつけるのである。

そして、すでに、二人とも、それを予感していたのである。

 

 

　第２章　終わり　　　　　　　　目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

　　　　　　第３章

 

 

 

　　　　　　              〔１〕

 

梅雨に入った。

それでも、王子は傘をさして、土曜日ごとに少女の家へ行った。

少女は、以前のように明るく、いやむしろ以前よりも兄妹のように親しく振舞った。

先日の面白の滝（つらじろのたき）でのできごとがあってから、お互いの心の間の轍が、ひとつ埋められたようである。

 

王子は前よりも早く少女の家に行くようになった。母親に挨拶する。そして、仕事に出かける母親を少女と共に見送る。

それから、早速仕事だ。掃除は全て王子がやる。その間少女は洗濯を。雨が降っているので、傘を差して洗濯板でゴシゴシやっている。窓からその様子を見て、王子は感心する。『器用だなあ。』そう思って、すぐ気がつく。『そうじゃないんだ。彼女は小さいときからずっとこうやって苦労してきたんだ。だから、なんでもないように、できるんだ』

以前はやらせてもらえなかったトイレ掃除とお風呂掃除も、今は王子の仕事である。まるで家族であるかの一員のように心を開いてくれることが、王子は嬉しい。心をこめて、磨く。

少女の家の風呂は、外から薪をくべて炊く鉄の丸い風呂だった。つまり、風呂沸かしも少女の仕事なのであった。そのための薪集めも少女の仕事なのであった。

そして、朝、夕の食事も少女がする。買い物も。

そんなことを、少女の家に通う間に、王子はだんだん知っていったのだった。

そのたびに王子はびっくりした。

この小さな少女が、なんでもないように、これらの仕事を毎日こなしているなんて。少女には学校生活もあるじゃないか？　じゃ、宿題はいつやってるんだ？　友達と遊びに行ったりしないのか？

少年は、少女に聞いたものである。

「宿題？　できるだけ学校で済ませてくるようにしてるわ。先、先やっていくの。漢字とか社会科の予習とか、そういうのは、前もってできるときにやっておくのよ。」

「遊び？　遊ぶ暇はあまり無いわね。それに、あたしね、みんなとは何か違うのよ。みんなの話題についていけないの。もちろん、学校では、話をあわせて楽しそうにやってるわよ。でも、それ以上に特に仲良くなりたいとは思わないの。」

なぜ、少女がそれほど家事に精を出してやるのかも、王子は少女から聞かされた。

少女の父親が亡くなった後、母親は悲しみに打ちひしがれたこと。そして、「オトーチャン、オトーチャン」と泣く少女を抱いて家の周りを何回も歩いたそうだ（後に少女は母親から聞かされて知った）ということ。母親も、その後まもなくしてうつ病になってしまったこと。軽度の状態ですぐ投薬治療に入ったので、病状は父親ほどには悪くならなかったこと。しかし、それまでやっていた仕事はやめざるを得なくなたこと。うつ病がようやく回復しても、ムリがきかないためパートの仕事を時間給で４時間。１年前から。知人の勧めで工場での内職を４時間。ようやくこれだけ働けるようになったのだということ。それ以上のムリはできない。家に帰ったらすぐに横になって休む。日曜日は丸一日何もせずに休む。そうやって、どうにか、やっているのだということ。

また、父親が亡くなる１月前に、運悪く、それまで賭けていた生命保険を、新しいのに賭け返るため、解約していたこと。わずかな遺族年金とそれまでこつことためてきた貯蓄、そして、今の母親の収入（年収百万円程度である）で、賄ってなければならないこと。

しかし、貯蓄には、手をつけないようにしている、なぜならばそれは父親の命のような気がして。少女の進学のときか、家族どちらかが万一入院するようになったときのために手はつけてないこと。

 

「だからね、電気代も水道代もそういうのはできるだけ節約するようにしてるの。」

ごく普通のことを普通にやっているというように、少女はさらりと言ったものだ。

 

 

 

 

　　　　　　              〔２〕

 

掃除と洗濯が終わって、王子と少女は、傘をさして外に出る。

家の裏にわずかだが、畑があり、そこに少女は野菜をいくつか植えてあるのだ。もう大きくなりはじめたキャベツに虫がついていないか調べる。

ほかにもトマトやキュウリを植えてある。突きたてた竹の棒に勢いよく蔓が絡まっている。

「今年は梅雨に入るのが早かったわね。」

と少女が言った。

「そうだね。長く続くのかな？」

「アタシは梅雨は好きよ。シトシト雨が降る音を聞いていると、なんだか懐かしくなってくるの。あなたは？」

「ぼくは、あんまり好きじゃないなあ。不便だろ？　傘を差さなきゃならないし。」

「じゃ、傘をささなきゃいいのよ。」

突然少女が、自分の傘を折りたたんだ。そして、王子のほうを見てニッコリ笑う。王子もニッコリ笑って、傘を折りたたむ。

頭や手足に当たる雨は、ちょっと冷たい。

しかし。

しかし、なんで、こんなに気持ちがいいんだろう。

「さあ、家に入りましょう。」と少女が王子の手を取って、家に向かった。少女の後姿を見て、王子は思う。『紫陽花のような子だ。』

保育園のとき、こんな雨の振る頃、色紙を折って紫陽花をみんなで作ったのを覚えている。教室の後ろの壁に完成した大きな紫陽花、小さな紫陽花。それからと言うもの、梅雨になると、王子は保育園の頃のあの紫陽花を思い出すのだ。雨の中でひときわ美しさを際立たせる紫陽花。紫陽花は王子が好きな花のひとつだった。

 

 

家に入って、少女は、王子にタオルを差し出した。王子が顔と頭を拭く。少女はタオルを受け取ると、王子の背中や後頭部を拭いて、それからそのタオルで自分の神や顔を拭いた。

「私、着替えてくるから。あなたも、このＴシャツに着替えてね。ちょっと小さいかもしれないけど。」

と言って少女は、たんすから出した白いＴシャツを王子に渡して部屋を出て行った。

 

確かに、着てみると胸も腕も肩も隙間なく張っていて、窮屈だ。

しばらくすると少女が来た。薄いピンクのＴシャツだった。

「梅雨が好きだって言ったけど、洗濯物が乾かないのは困っちゃうわね。もう、今乾いているのはこれしかないのよ。」とちょっとおどけた風に言う。

「君は何を着ても、よく似合うよ。」

王子は今では、そんなことも自然に言えるようになっていた。

「ありがと」

少女は軽く受け流しながら、王子の着ているＴシャツを見る。

そして、声を出して笑う。

「あなたには、そのＴシャツ、ちょっと小さかったわね。」

王子も笑う。

 

 

 

　　　　　　　　　　　　〔３〕

 

二人は縁側に座って、窓の外を見る。少女の家は山のふもとの小高い丘にあるので、国道11号線が見える。そして、その向こうに長津小学校のグランドが、さらには瀬戸内海が。天気のよい日は瀬戸内海に浮かぶ島も島もきれいに見えるが、今日は島は見えない。

少女が口を開く。

「『ゆるさんど行進』ってあるでしょ？」

王子は、どきりとした。王子から少女に訊きたいことでもあった。しかし、これまで、言い出せなかった。それを、今、少女が口火を切ったのだった。

「ああ。」

「あなたは、もちろん出るわよね。」

「……」

少女はしばらく王子の返事を待っていたが、返事がないので、さらに続けて言った。

「あたしは出ないわ。」

王子は、少女を見る。少女はまっすぐ窓の外を見ている。

しかし、その表情は、一種形容しがたい厳しさを湛えている。

「そのＴシャツはね、母さんが買ってきてくれたの。『ゆるさんど行進』にこれがいるでしょうって。

「でも、アタシは、参加申込書は出してないわ。母さんは判子も押して１０００円渡してくれたけどね。

「そのＴシャツ、いくらしたのかしら？　あたし、自分で服を買いに行ったりしないから、わからないんだけど。」

少女が王子に顔を向けて訊いてきたので、王子は答えた。

「安く買えたら５００円位かな。でも、これだったら、１０００円以上はすると思うよ。安いのは、すぐダメになるからね。きっと長持ちするように、高い方のを買ったんじゃないかな？」

少女はまた窓の外に顔を向けて、

「お母さんってバカね。」

と言った。

そして、じっと、窓の外を見ている。

今度は王子のほうが、口を開いた。

「参加申込み書を出さなくて、先生から何も言われなかったかい？」

「……」

王子は少女の方に顔を向ける。

これまで、見たことが無い、イライラしたような表情があった。

少女は口を開いた。

「あたしたちの担任は、ま、言えば《やり手》なのよね。『みんな。差別をなくするためには黙っていちゃダメだ。行動しなくちゃダメだ。さっそくこの行進に参加しよう！』ってね。あれって《正義の演説》とでも言えばいいのかしらね。そして、『じゃ、全員書いておこうな』って言って、〔参加申込書・誓約書〕って全員の〔ましみず〕に書かせるのよ。あたしは書かなかったけどね。それで、あたしたちのクラスの子らは、次の日、ほとんどの子が1000円添えて、申込書を出したわ。」

王子が言う。

「君は出さなかったんだね。」

少女は、相変わらずイライラした表情で海を見たまま答える。

「次の日に、朝の会で、担任は『〔参加申込書・誓約書〕を出してない人、何番と何番…』って言って、黒板の隅に番号を書くの。そして、終わりの会のときに、アタシを入れて４人いたかしら、担任に呼ばれて、一人ひとり訊かれたわ。『明日は出せるのか？』ってね。バッカみたい！」

「で、君は何て答えたの？」

「決まってるでしょ。『私は趣旨に賛同できないから出ません』ってはっきりと言ったわ。」

「後の３人は？」

「『ハイ、持ってきます』って言って、次の日に持ってきたわ。」

「じゃあ、君のクラスでは、申込書を出してないのは君だけ？」

「うん。それと、学校を休んでる子がいるんだけど、その子と、二人だけみたい。」

王子は、知っている。そのような強引なやり方をする担任がいることも。そして、土居中では、そのような担任が正義なのであり、申込書を集められない担任は、上から散々責められるのである。

去年の第１４回「差別ゆるさんど行進」のご案内プリントまでは、会長名があった。そして、「学級担任まで申し込んでください」と明記されていた。今年の第１５回「差別ゆるさんど行進」のご案内プリントでは会長名は伏せて、ただ『ゆるさんど会』となっている。２０００８年６月１日にプリントは出されている。しかし、申込み締切日は７月６日である。１ヶ月以上かけて、ジワジワと不参加者を追い詰め、《全員参加》に限りなく近づけようとしているのである。

申し込み先も今年の案内書には明記されてない。アンダーラインと空白があるのみ。担任でだめな場合は、より強力な教師の名前を申し込み先に書いて、２枚目のご案内を渡すのだ。そして、それでも申込書が出ない場合は、全校で申込書を出していない生徒がいっせいに呼び出され、何人もの教師に囲まれて提出を強要される。帝国会議で、そのような策略が練られたのを王子は聞いているのだ。

もう６月も終わり。少女の、学級の中での様子が、王子には分かる。帝国が、許すはずが無い。ましてや、完全に帝国側につく担任の場合は、学校組織全体として、少女をいじめていくだろう。巧妙に。

 

 

 

 

　　                                         〔４〕

 

王子は、少女から目を離さず、訊いた。

「それで、君は、それでも出さないのかい？」

少女は、表情を変えず、きっぱりと言う。

「ええ。出さないわ。」

長い時間、二人とも黙ったまま、ただ雨の音を聞いていた。

縁側の東の端の隅に机が置いてある。そこが少女の勉強コーナーである。机の上には、中学校１年生の教科書がきちんと並べてられている。

「中１だと、みんな分からないんだよな。だから、先生の言うままにするんだよ。君は偉いよ。」

少女はひざを抱えてアゴをひざに乗せた。表情はやはり険しい。

「あなたは、３年生でしょ？　３年生はどうなの？」

「３年生は、参加申込書を出さない子が大勢いたよ。それで、学担だけじゃない、副担も入って、学年集会までやって《出せ出せコール》だよ。それで、転ばされていく子が出始めたんだ。いい先生ほど、そういう強制はしないから、そのクラスの参加人数が少ないままだろ？　そうすると、ヤツラは、そういう先生をいじめるのさ。」

「ヤツラって？」

「教頭や教務主任や、とにかく役のついたヤツラが、職員会で、そういういい先生をつるし上げるのさ。で、自分たちの担任が苦しむのを見ていられなくて、申込書を出す生徒も出てきてる。きっと、７月６日までには、ほとんど前員、出すだろうな。」

少女がひざからアゴをあげて、初めて王子のほうを見た。

「くわしいのね。」

「…うん。王子だからね…。」

普通に答えたつもりだったが、その声はのどの奥でつぶれたような声になってしまった。

自分の思いだけで必死だった少女は、我に返ったように王子の顔を見た。そして、言った。

「ごめんね。あなたも苦しいのに…わたし…。」

王子は体を少女の方に向けていった。

「ううん。君が謝ることじゃない。悪いのは、全て帝国のほうなんだ。ごめんよ。許してね。ぼくの苦しさなんか、今の君の苦しさにくらべたら、よっぽど、マシさ。」

王子は少女の右手をつかんだ。

「こっちを見て。」

言われるままに、少女は、王子のほうへ体を向けた。

「もう、たぶん君はやられていると思うけど、学級でつらい思いをしてないかい？」

王子が、じっと少女の目を見て訊く。

少女は、視線を外す。

「土居帝国の正義なんか、大間違いさ。そのいいなりの土居中の先生たちも最悪さ。でも、学校の中ではそれがまかり通るんだよ。申込書を出すのが正で、出さないのは悪。君は、学級の中で、目をつけられて、次第に学級の友達が君から離れていく。そうなってないかい？」

少女は視線を外して、じっと床の上を見ている。かみ締めたくちびるがかすかに震えている。

「わかるだろ？　みんな洗脳されてるのさ。３年生は、今年《まごころ教育》ってサイトが出たおかげで、やつらの手のうちを知った。だから、洗脳から解けた生徒が出てき始めた。でも、学校の中では必死で、その正しい情報が漏れないように工作しているのさ。教頭が中心になってね。」

「私も３年生だったらよかった。そういえば、生徒総会で３年生がそんな意見を言っていたわね。」

「うん。みんな、闘おうとしてるんだよ。」

「勝算はありそう？」

王子は、窓の外を見て大きく息を吐いた。

「分からない。帝国は、ずっとこのやり方で支配してきたのさ。そして、住民がみな恐怖心を持っている。土居町の住民は、ちゃんと知っているのさ。自分がターゲットにされたら、子供は学校でみんなから無視され、家族は地域で無視され、そこには住めなくなることをね。

「帝国にとって《ゆるさんど行進》は１年間の中でも、自分たちの力を見せ付ける一大イベントなのさ。その成功のためには、人数が必要なのさ。だから、中学生をこうやって駆り出すんだよ。

「いいかい。今、君は、それほど大きな渦巻きの境にいるんだ。」

王子は、少女の両手を取って、少女の目を見て言った。

「今なら、まだ間に会うよ。『やっぱり参加します』って参加申込書を出せばね。そうしないと、２学期からあと、君はしんどくなる。土居中の中では、ゆるさんど行進に参加しないことは《差別》なんだ。差別者のレッテルを貼られて、差別者として、２学期からあとの同和問題学習を受けなきゃならなくなる。針のむしろだよ。」

少女も王子の目を見て、じっと聴いている。

少女が、訊いた。その声には、これまで聞いたことの無かった切実さがあふれていた。

「生徒が参加しなくても、何も文句を言われなければいいのよね。もし何か言われるとしても、参加したくない人は参加しなければいいのよね。３年生にはそういう声もあったのよね。できないのかしら？　洗脳から抜け出した人が参加しなくて当たり前、参加したい人だけが参加すればいいっていうのが、当たり前のことでしょ？　そうできないのかしら？　私には、参加しない大きな理由があるの。なのに、どうして参加しなければ、目を付けられてイジメられるの？」

王子はじっと少女の目を見ていた。しかし、何も言わなかった。いや何も言えなかったのだ。その苦しさを、少女も王子も、二人ともが、それぞれに背負っている。苦しい時間。

とうとう、王子が立ち上がった。

「ごめんよ。」

その声には力が無い。

「ぼくは、また考えてみる。でも、ぼくには、なんの力も無いんだよ。帝国のやり方を全て知っているから、何をやってもダメだということが見えてしまうんだ。

「だから、ね。ぼくをお父さんだと思って聴いて欲しいんだ。申込書をすぐにでも出したほうがいい。締め切りは今週いっぱいだ。とりあえず、出しておいて、当日、行進には出ないということもできるだろ？

「ね。いいかい？」

そして、少女の返事を待ったが、少女はうつむいたままだった。

王子はＴシャツを脱いで、自分の服に着替えて、玄関を降りた。

少女は見送りには出てこなかった。

いつもは次に会う日のことは何も訊かずに分かれるのだが、その日は王子は訊いた。

「来週、また来てもいいかい？」

少女は、黙ったまま、首を立てに振ってうなずいた。

 

 

 

 

〔５〕

 

その年は梅雨の明けるのが早かった。７月にはいると、もう雨は降らなかった。少女の仕事がひとつ増える。畑の野菜に水をやるのだ。朝と夕、バケツで川から水を汲んできて撒いていく。

７月に入ってからは、少女は１時間早く起き、水遣りをする。バケツを２つ使うがそんなにたくさんの量は運べない。川と畑とを何回も往復する。そして、また、いきなり真夏日が続くようになった。

７月に入って最初の土曜日、いつものように王子がやってきた。少女の母親に挨拶をする。母親は、いつものように掃除などのお礼を言って、笑顔で仕事に出て行く。

その日、少女は、外にはいなかった。玄関を入って、

「いるのかい？」

と訊くと、奥から、

「ええ。いるわよ。」

と声がした。

「上がってもいいかい？」

「どうぞ」

王子が上がって奥の部屋（そこは母親が寝室に使っていた）へ行くと、畳の上に少女が転がっていた。少女は王子を見上げて、笑顔を作る。

「いらっしゃい。」

「今日はどうしたの？　調子でも悪いのか？」

少女はゆっくり起き上がって、

「ううん。大丈夫。ちょっと暑さにやられたのかなあ。しんどくて。」

確かに、いつものような元気さがない。

「よっしゃ。今日はぼくが、掃除と洗濯全部してあげるよ。あ、下着は洗濯しないから、それ以外全部ね。」

少女は拒むかと思いきや、案外あっさりと、

「あなたに洗濯できるかしら？」

「できるできる。任しときな。君は、その間寝てたらいいよ。」

王子はそう言って、まずいつものように、掃除からすることにした。

もう要領を得たので、早い。部屋のたんすの上などにはたきをかけてから、ほうきで隅から吐き出していく。最初の頃ほうきの使い方を知らなかった王子は思いっきりバットをスイングするかのようにはいていて少女に笑われたものだった。今では、スッスッと埃を舞い上がらせないように、畳の上を掃いていく。最後に玄関の土間と、炊事場の土間を土間用のほうきで掃き上げる。ついでに目だった草を引いた。それから、川で手を洗って、少女に洗濯物と洗濯板などがどこにあるのか聞きに行く。洗濯物は下着以外の服をすでに少女は籠に入れていた。

川に行った王子は、少女のやっていたやり方を思い出して、洋服をまず川の水で濡らし、それから固形石鹸を塗って、洗濯板にゴシゴシとこすりつける。これは、案外難しい。少女の滑らかな手の動きを思い出す。いとも簡単そうにやっていたけれども、そもそも、洗濯板はどっちを上にするんだろう？そこから考え直した。少女に訊きに行くのは面倒くさい。とにかく、洗濯物を何度も持ち替えてはゴシゴシ洗った。

「ありがとう。」

突然真横で声がした。少女がいつの間にかやってきて、斜め後ろにしゃがんでみていたのだ。

「あっ」

と驚いた王子を見て少女がと笑う。久しぶりに聞く、鈴の転がるような笑い声。

「これで、いいのかな？」

王子は、恥ずかしそうに、訊く。少女は

「はじめてでしょ。洗濯板でやるの。すごく上手よ。」

と言って、さも感心したようにほめてくれた。その一言で王子は、スーーッと気持ちが軽くなった。

「後は私がやるわ。」

「じゃあ、今洗った奴を、干しておこうか。」

「ウン。お願い。」

王子は籠を持って、家の南の物干し竿に向かう。全部干し終わった頃少女がやってきて、

「じゃあ、家の中に入ってて。冷たいお茶を出すわ。」

と言った。元気そうになった少女を見て、王子は安心した。そのまま、少女を見ていると、少女は恥ずかしそうに、

「何してるの？あなたが行かなきゃ、干せないじゃない。」

という。

「あ、そうそう。」王子は家の西から、家をグルッと回って玄関へ向かう。畑を見ると。全部水がかけられている。１週間前よりも、さらに野菜は大きくなっている。雑草も抜かれている。歩きながらさっとそんな景色を見て王子は家に入った。

 

 

 

 

〔６〕

 

今日は北の廊下から、瀬戸内海の島がきれいに見える。海風がさわやかに入ってくる。

まもなく、少女が冷たいお茶を、お盆に載せて持ってきた。

「お疲れ様。ハイ、どうぞ。」

ニコニコしながら差し出す。

「ありがとう」

王子はごくごく飲んで、一声、

「ああー。うまい！」

「もういっぱいいかが。」

「うん、ありがとう。」

少女は、ポットから冷たいお茶を注いでくれる。

「夏はね、どうしても冷蔵庫を使わなきゃいけないでしょ。だから、電気代が余分にかかるの。」

「そうだね。特に最近は暑いから、冷蔵庫は必需品だよね。でも、ここなら涼しいから、扇風機は無くても大丈夫だね。」

「そうでしょ。アタシ、この風、好きよ。」

王子と少女は、縁側（北の廊下のことを少女は「縁側」と呼んでいる）に座って、いっぱいに空けた吐き出し窓からの景色を見た。

 

王子が訊く。

「畑の野菜、きれいに育ってるね。水遣りは君がしてるの？」

少女は、得意そうに答える。

「でしょ？　水遣りも、草引きも、虫取りも全部アタシがしてるわ。」

「いつしてるんだい？」

「朝早くと、夕方と。結構大変なのよ。バケツで川の水を何回も運ばなければならないし、草は引いても引いても、次々新しいのが出てくるし、虫もちょっと油断して見逃したら、一晩で葉っぱ一枚全部食べるし…」

しかし、少女はちっとも苦にしている風はなく、むしろ楽しそうに話す。

「じゃ、５時くらいにおきるのかい？」

「そう。４時半ね。それから、洗濯と炊事をしなくちゃならないから、それでも時間いっぱいよ。」

「たいへんだなあ。」

王子は本当に感心した。しかし、少女の体のことが心配にもなった。

「授業中眠たくならないかい？」

「それは大丈夫。わたしね、部活動やめちゃったの。とても両立できないからね。だから、今まで部活でできなかった時間が使えるようになったから、よるは９時には寝てるのよ。」

王子には少し引っかかるものが会ったが、それには触れないことにして、

「無理しちゃダメだよ。」

とひとこと言った。いつもの少女なら「あーら、大丈夫、へいちゃらよ。」と答えたであろう。しかし、王子の言葉に、普通以上の真剣さがあったので、少女は、おとなしく

「うん。」

と答えた。

 

二人はまた窓の外を見る。

「いい風だね。」

「うん。」

気がつくと、もうせみの泣く声が聞こえる。

 

 

 

 

　　                                        〔７〕

 

少年は、この１週間、考えたのだった。いろいろと考えた。どうしたらいいか？　両親に直接訴えるか？　学校で、『差別ゆるさんど行進反対』を訴えるか？　校長室へ乗り込んで行って訴えるか？全　校朝会でステージに上がって訴えるか？

しかし、これらは、その時大騒ぎになったとしても、巧妙に自分を悪者にされて、その後戒厳令が敷かれる。帝国の常套手段である。

帝国はどんな卑劣な手でも使う。あったことを無かったことにし、無かったことをあったことにする。

結局、何かことを起こせば、彼らの集団的結束力で、ことを起こす前よりもひどい状態になってしまうのだ。

打開策は無かった。

だから、先週少女が言ったこと…『差物ゆるさんど行進には出ない』ということに対して、自分が助けてあげられることは無いのだ。帝国では、第１５回の差別ゆるさんど行進には特に力を入れていた。

『まず参加者の頭数を増やせ！』これが、帝王の至上命令であった。至上命令は現在、土居中では教頭に直接降りる。帝王の命令を達成できなければ、もはや教頭は見限られるであろう。うまく達成できれば、見返りに校長への昇格が硬くなるであろう。教務主任も同様である。トカゲの尻尾になるか、それとも教頭への昇格が叶うか、それはひとえに、帝王の命令の達成如何にかかっているのである。

１年前、帝王が教頭を呼びつけて言っているのを王子は聞いたことがある。

『お前は、重要な仕事をやってもらうためにあえて、同じ土居中の中で教頭に昇格させたんじゃ。そのことを忘れるな。』教頭は、頭を床に擦り付けて、服従を誓っていた。

したがって、土居中は、教頭が支配できる体制を敷く必要がある。校長は、ただのお飾りとして、自分の言うように動いてもらわなければならない。学校の企画運営は、自分の思うとおりに進むようにしなければならない、そのために企画委員をできるだけ、自分の身内で固める必要がある。

これまで１０年以上土居中でやってきて、教頭の気心の知れた《仲間》を食事に誘う。そこで、《同僚で誰もが認めるような役に立たない教職員》の悪口を言う。そうすることによって《味方意識》が生まれる。これを柱としなければならない。よって、毎日の給食の時間には、更衣室に集まって《味方》だけで、給食を食べるのである。いろいろな人物の悪口を言い合いながら。

ここで、出たことがらが、学年会に出されて無理やり通され（彼らは大体３年団に集まっており、企画委員に属さない教師の中にも生粋の土居中ナイズドされた教師が学級担任として居座っているので、いとも簡単に、無茶な事柄が通ってしまう）、さらに企画委員会と職員会を通して、全学年におろされる。

いわば、腐りきった体制である。表向きカネは動いてないことになっている。だから毎年輪をかけて腐敗が進んでいく。これで、カネの動きが表に出れば、現在世間を騒がせている大分の問題と、まったく同じなのである。

『差別ゆるさんど行進』に反対するということは、帝国帝王にたてつくということであり、この腐敗した学校現場では、そのような者は格好のターゲットとして潰されるのである。どんな手を使ってでも。

 

 

 

 

　　                                         〔８〕

 

『そうか。部活もやめたのか。』

と王子は思う。実際、厳しいだろう。生活と部活との両立が難しいのだ。こんなに、けなげにがんばっている一人の少女を、支えようとするのが普通の学校だろう。土居中にはそのような《愛情》は、ない。

『もしかしたら、少女を《孤立化》させようとする責めが、もう部活にも忍び寄ってきていたのかも知れない。』

少年はそう思う。

『標的を潰すために、ヤツラはありとあらゆる手を使う。』

せみの声を聞きながら、そんなことを王子は考えていた。

沈黙を破ったのは少女だった。少女は、王子のほうを向いて正座した。そして、言った。

「アタシね。やっぱり『ゆるさんど行進』の参加申込書は出さなかったの。お母さんにも話したわ。そして１０００円はお母さんに返した。

「あなたが、あんなに心配して言ってくれたのに。ごめんなさい。」

少女は頭を下げる。下げたまま上げない。

「いいよ。君が謝ること無いんだよ。頭を上げておくれよ。」

ようやく上げた少女の顔は、先週と同じ真剣な表情だった。けれども、先週よりも、なにかサッパリとした感がある。

「先生は、なんて言ってた？」

「何も言わないわ。もう言うことは言い尽くして、何もいえなくなったんじゃないかしら？」

王子は少女の担任を知っている。バリバリのやり手である。だから、学級の団結力も一番あるといわれるのだが、同和教育についてもバリバリの土居中方式のやり手であって、自分に従わないものを許すはずは無い。

もう、少女の気持ちは確認できた。

「明日が締め切りだけど、もう出さないんだね。」

「ええ。」

「うん。分かったよ。君の気持ちがどんなに強いか、よくわかった。」

「ありがとう。」

「でもね、ぼくは帝国の王子だ。帝国のやり口は知っている。君はこれから、徹底的にいじめられるよ。まず、先生たちからね。そして、自然に生徒も君を避けだして、無視するようになるだろう。なんといったって、君と話をしたら先生に呼ばれて叱られるようになるんだから。」

少女の表情は少しも変わらない。

「うん。分かってる。」

じっと、少女の目を見つめていた王子は、ポツリと言った。

「君は、つよいなあ。」

「……」

王子はごろんと横になって、足を組んで天井を見上げた。そして考える。

『これは予期していたことだ。たぶん少女がこう言うだろうということをオレは知っていたんだ。さあ。オレはどうしたらいいんだろう？この子のために、何ができるんだろう。』

しかし、何も考えは浮かばなかった。それをこの１週間考えてきたのだ。そして、打開策は無かったのだ。少女から直接決心を聞いたからと言って、新しい打開策が浮かぶはずも無い。

『そうだ！』

ある考えがひらめいた。王子は起き上がって座りなおす。少女は正座したままだ。

「学校のことはどうしようもない。なるようにしかならないよ。だから、しんどいことは、全部ぼくに言っておくれ。ね。ぼくをお父さんだと思ってくれたんだったよね。ね。お父さんに話すつもりで、ぼくに全部言って。」

少女は、微笑んでコックリとうなずいた。

「約束だよ。指きりげんまんしよう。」

二人で指きりげんまんしたあと、王子はさらに言った。

「これから毎朝、ぼくが畑の水遣りと草引きをしにくるよ。そして、夕方の水遣りもしに来る。」

少女は、うなずいた。

 

 

 

 

　　                              〔９〕

 

お墓を二人で歩いている。せみの声が、夏の訪れを感じさせる。前に少女が話してくれた、少女の思い出のいっぱい詰まった遊び場。それは、今、王子の思い出の中にも入ってきている。

どちらからともなく、木陰に腰を下ろす。

少女が、話し出した。

「アタシね、お父さんのこと、話したでしょ？」

「うん。」

「あなたのおかげで、『ああ、お父さんは本当にいたんだ』って実感できたの。」

少女は続ける。

「それでね、普通なら親に心配かけないように、先生が言うとおりにしてればいいんだけど、お父さんのためにもそれはできないのよ。分かるかしら？」

「……」

王子は少女の顔をじっと見つめる。

「お父さんは、うつ病でなくなったの。母さんが始めて会ったときお話したでしょ。自殺したんだって。アタシはそれは後になって聞いたわ。ただお父さんがいなくなって『オトーチャン、オトーチャン』って泣いてたらしいわ。それも後で聞いた。きっと、お父さんのことを好きだったのね。きっと、お父さんは、アタシをかわいがってくれたんだと思う。

「でも、お父さんとアタシの写真は少ないの。アタシが３歳になる頃の写真でお父さんと一緒に写っている写真はあれ一枚だけ。

「母さんが言ってくれた。あたしが生まれたとき、お父さんは喜んで喜んで抱いてばかりいたんだって。いつもお風呂にはお父さんが入れてくれて、仕事から帰ってきたら必ずホッペタにチュッてしたんだって。でも、その記憶ってないのよね。

「そして、お父さんはうつ病になったの。うつ病になってからは、笑わなかったんだって。何もできなくなってただ寝ているだけだったんだって。だから、そこからは写真は無いの。

「それでもね、１年位すると回復してきたそうなの。そして、仕事に復帰できるようになったって診断をもらって、リハビリを兼ねて行ったのが面白の滝よ。

「でも、完全に治っていたんじゃなかったのよね。うつ病からの復帰は時間をかけて少しずつ慣らしていかなければならないんだって。職場にはその理解が無かった。お父さんが仕事を言われたようにできないって言うことで、上司が嫌がらせをしてきたんだって。

「お父さん、なんの仕事をしていたかわかる？」

王子は、つばを飲み込みながらやっと

「さあ…？」

と答えるのが精一杯だった。

「教師なの。土居中でがんばりすぎてうつ病になったの。それで復職したんだけど、いろんな嫌がらせを受けて、せっかくよくなってきていたのに、またうつ病を再発したの。そして……、自殺したの。」

そして、少女は涙をぬぐいながら、言った。

「うつ病になってから、お父さんは笑うことさえできなかったのよ。アタシと一緒の写真でお父さんが笑っている写真が、あの一枚なの。」

しばらく少女は嗚咽した。王子は、優しく背中をさすった。

せみの鳴き声が、少女の嗚咽する声を消している。

 

 

 

 

〔１０〕

 

ようやく泣き止んだ少女は、続ける。

「小学校でね、人権同和学習ってやるでしょ？　わたし先生に聞いたわ。『うつ病の人が普通に仕事ができないからって責めるのは差別じゃないんですか？』って。先生は『それは今勉強している差別とは違う』って言ったわ。中には、『そんなのは差別じゃない。』っていう人もいたわ。

「中学校へ入学して、同和問題学習のとき、『最初に自分を語ろう』って時間があって、わたしは、ここなら受け止めてもらえるかもしれないって思って、話をしたの。」

「それで、どうだった?」

結果は分かっていたが、王子は訊いた。

「小学校のときと同じよ。『いろいろな差別があるけど、それと部落差別とはちがう』って先生は言ったわ。『部落差別は生まれたときから本人の責任とは関係なく差別される厳しい差別だ』って。そしてね、『うつ病なんて、それになってしまう本人の責任なんだから、はっきり言って、仕事ができないことを差別されても本人が悪いんだよ』だって。

「アタシ、それで、はっきり分かったの。土居中の同和教育はウソだ！！ってね。『同和教育、同和教育』っていう先生が差別をしてるのよ。そんな人のいう『差別ゆるさんど』なんて、間違ってるわ！そう思わない？」

少女は、王子の目をまっすぐ見て訊いた。

王子も少女の目をまっすぐ見て答えた。

「君の言うとおりだよ。君は間違ってない。土居中の先生が間違っている。帝国が間違っているんだ。」

少女は、安心したように、ほっと息をついて下をみた。

太陽が動いて二人の座っていたところに日が当たり始めたので、二人は立って、また墓地の中を歩く。

「じゃあ、君は、ゆるさんど行進のある２６日は、一日中家にいるんだね。」

王子の問いに、少女はすぐには答えなかった。

「外には出ない方がいいよ。」

「…ええ…。暑くなったから、家に入りましょう。」

それから後の少女は、また何かを考え込んでいるようで口数は少なかった。そして、疲れているように見えた。

「朝、やってたみたいにね、ゴロゴロして昼寝をするといいよ。明日もそうするんだ。畑の水遣りは、明日から早速ぼくが来てしてあげる。だから、明日は朝も、遅くまで寝るんだよ。いいかい。」

確かに、少女は疲れていた。生活の肉体労働と学校の勉強の両立だけでも大変だった。いかに部活をやめたとはいえ。

しかし、それ以上に、学校で、ゆるさんど行進の不参加を責められ、自然にクラスの中で孤立していっていることによるストレスが、少女の心を蝕み始めていたのだった。本人には、まだその自覚は無い。ただの疲れだと思っているが。少女にとって、土居中は、危険な場所になっているのだった。

 

 

 

 

〔１１〕

 

翌日の日曜日、早速王子は朝４時に起きて、少女の家へやってきた。玄関も勝手口も閉まっている。家の中はひっそりしている。

『そうそう。ゆっくり休むんだよ。』

心の中でそういいながら家の南側のバケツを取りに行く。音が出ないように、ソーッと２つのバケツを手に取り、今度は川へ。バケツを川に入れるたびに水の勢いでズシンを肩に衝撃が来る。２つのバケツにいっぱい水を汲んで両手に持って、今度は畑へ。スーーッと野菜の根元に水をかけていく。バケツ２杯の水はすぐなくなる。

また川へ向かう。５、６回往復しただろうか。かなり疲れた。『少女だと、一回に運ぶ水の量は少ないだろうから、１０往復位するんじゃないかなあ』と考え、そんなことをこともなげに毎日やっていた少女をえらいと思った。家の手伝いなど何もせず、時間ギリギリにおきて学校へ走る自分を恥ずかしく思った。部活動をしていた頃は朝練があって『自分はがんばっている』と思っていたが、何かが違っていたのだ。生活の心配などひとつもすることなく、全部親にやってもらって、自分は好きなことだけやっていたのだ。確かに練習は厳しい。でも、そんなのを《がんばっている》というのだろうか？

 

一休みした王子は、虫がついていないかを丁寧に見ていく。キャベツには、やはり小さい青虫がいる。全部手でのけていく。消毒は一切しない。だから、目と手で徹底的にのけていくのだ。トマトもキュウリも大きくなってきた。今のところ虫にも食われてない。

 

最後に、王子は草引きをした。小さな草を全部とっていった。昨日まで少女がこうやって毎朝とっていたのだ。目立って大きい草はない。しかし、小さいのを放っておくとすぐに大きくなる。雑草が茂ると、害虫がわく。毎日毎日、小さな草を引いていく。

 

少女がこれだけのことを丹精こめてやっていることを、自分でやってみて王子は改めて驚いた。少女の強さを感じた。自分には無いものだった。と同時に、いじらしく、いとおしかった。自分より２歳年下の少女が、学校ではつらい思いをしながらも、学校生活と勉強と、そして生活を全て一生懸命やっているのだ。

 

一通り終わったときには、７時になっていた。家の中はひっそりとしている。王子はバケツをそっとしまって、少女の家を後にした。

 

次に来たのは、夕方５時ごろだった。４時だとまだ日が高い。水をやったら、お湯になってしまってはいけない。

少女は母親と一緒に縁側に座っていた。王子が坂道を登ってくるのを見つけた少女は、立ち上がって手をふった。

「ありがとーー!」

手を振りながら少女は叫んでいる。王子は坂道を走ってあがった。

少女の母親が、ぞうりを履いて降りてきて、「いつも本当にありがとうございます」と両手を前に、丁寧にお辞儀をした。いつも王子に対して優しく丁寧な人だったが、今日のお辞儀は特に丁寧だったので、王子はドギマギした。

「今朝も早く来て、畑の世話をやってくれたんですね。どうもありがとうございました。あなたが来てくれるようになって、本当に助かっているのよ。でも、ムリをしないでね。今日は、娘も疲れているようだったから、あなたのお言葉に甘えてしまったけれど、明日からは、きっと娘がまたやれると思いますから。」

王子は、笑顔で言った。

「全然へっちゃらです。それにぼく、部活が終わってから運動不足になっていたから、むしろいい運動になって助かるんです。明日からもぜひやらせて下さい。」

「まあ。」

と少女の母親は王子の心を読んで、それ以上は口にしなかった。

王子は、少女に訊いた。

「どうだった？ぼくの朝の仕事？」

少女は、

「９８点。合格よ。」

「え？１００点じゃないの？」

「残念でした。キャベツにね、青虫が１匹残っていたわよ。」

「おかしいなあ。それ、ぼくが帰った後、どこかからやって来たんじゃないかい？」

「まさか」

二人で笑う。夕方の水遣りを王子がしている間に、少女は虫探しと草引きをやった。

「じゃあ、またあした。」

といって王子が帰ろうとすると、少女が呼び止めて走ってきた。

 

 

 

 

〔１２〕

 

少女は、とてもまじめな表情で言った。

「ありがとう。ほんとうにありがとう。あなたが言ってくれたとおり、わたし疲れていたのね。今日は朝９時まで寝ちゃったわ。わたしも母さんも、本当にゆったりできた。」

王子は、少々照れながら、

「いやぁ、全然。ぼくも運動になってちょうどいいんだよ。明日も朝は来るからね。君は早く起きすぎないように。いいかい。」

そう言って坂道を降りようとすると、再び少女が声をかけた。

「待って。あとちょっとだけいいかしら？」

「うん、いいよ。」

「お墓へ行きましょ。」

少女が王子の手を引いて坂道を上がっていく。

墓地に入ると少女はすぐに振り返った。

「２つ言っておきたいことがあるの。」

「うん。なんだい？」

「昨日、『２６日はずっと家にいるのか』ってあなた訊いたでしょ。」

「ああ。」

「わたしね。考えてることがあるの。たぶんあなたは怒ると思うわ。でも、先に言っておいた方がいいと思うの。聞いてくれる？」

「うん。でも、ぼくが怒るようなことって…？」

「わたしね、『ゆるさんど行進』の日に、プラカードを持って、行進の前に立って、『うつ病差別はんたーい！！』って叫ぼうと思ってるの。」

「えっ!?」

「それがひとつよ。もうわたし、決めてるのよ。だから、ネ。もしあなたが怒るんだったら怒ってくれていいけど、朝の水遣りには来ないで。ネ？」

少女は、王子に話す暇を与えない。

「もうひとつ大切なことがあるの。あなたはわたしのお父さんじゃないわ。」

「えっ!?」

「今朝、もう朝になってまどろんでいるころ夢を見たの。お父さんが出てきて、本当に嬉しそうにニコニコ笑ってた。それでわたしも嬉しくてたまらなくて『アハハ』って笑って、その声で目が覚めたのよ。とっても幸せだったわ。

「そしてね、外に出て畑を見たらあなたがきれーいにしてくれてたの。あなたはお父さんじゃない。あなたはあなたなんだ！って分かったの。意味、分かるかしら？」

「…いや、ちょっと…」

王子は少女の心が、読めない。

『一体どういうことだろう？　僕と、彼女のお父さんとは違う。そう言ったぞ。いい意味なのか、悪い意味なのか？分からない。その前に、彼女のことを怒るんだったら朝の水遣りには来るなとも言ったぞ。もう、ぼくには来て欲しくないってことを、言おうとしてるのかな？』

王子は少女の顔を見て、そんなことを考えた。

おそらく、何らかの表情の変化を読み取ったに違いない。

少女はとても、とても優しい顔になって、静かに言った。

「そう。あなたはあなた。お父さんじゃない。わたし前に言ったでしょ？あなたと初めて機滝で出会ったとき、お父さんが来てくれたんじゃないかと思ったって。

「わたし、あなたがお父さんのような気がしてたの。だから、あなたのことが好きなんだなって思ってたの。

「でも、今朝の夢を見てね、お父さんは、天国にいてわたしをちゃんと見守っていてくれるんだって、とってもはっきりとした実感があったの。

「そうしたら、畑に水をやってきれいに草引きをしてくれた人は誰？　そのとき、分かったのよ。お父さんじゃない。あなたなんだって。」

少女は一気にこれだけのことを言った。

王子は、少なくともそれで、『もう来て欲しくない』と言われているんじゃないということが分かった。安心した。

その表情の変化をまた読み追ったのだろう。少女は王子の手を引いて家のほうへ向かった。そして、玄関の前で、言った。

「ありがとう。あなたもムリをしちゃだめよ。来られるようなら、明日の朝も来てくれたら嬉しいわ。」

王子はすぐに言った。

「来るよ。来ていいんだね。」

少女はニッコリと笑ってうなずく。

「じゃあ。」

「うん、さよなら。」

 

 

 

 

 

　　                              〔１３〕

 

帰り道、王子は、少女のことを知れば知るほど惹かれていく自分がいることに気がついた。あの少女の魅力は一体何なのだろう？

王子は、少女の父親代わりのような、または兄のようなつもりでいた。

しかし、少女といればいるほど、深くなっていくこの気持ちは一体何なのだろう？

少女は、ゆるさんど行進に対抗して、プラカードを持って『うつ病差別反対』と叫ぼうとしている。そして『そのことを怒るんだったら、朝の水遣りには来ないで。』とも言った。

帝国にたった一人で真っ向から対決していこうとする、その硬い決意。その底にあるのは父親に対する深い深い愛情だということも分かった。どうして自分が、それに反対することなどできようか？

『オレも一緒に立とう！　彼女を一人にはさせない！！』

その気持ちはいとも簡単に、立ち上がった。少年はとても冷静だった。もう、自分が何をしたらいいのか、全てが分かっていた。

けれども少年に分からないのは、少女に対する気持ちだった。

好きであることは間違いない。そして、こんなにも心が惹かれている。少女も、「あなたはお父さんじゃない。あなたはあなたなのよ」と言った。もう少し、お互いに年齢を重ねていたら、すぐに分かったであろう。が、中１と中３では、まだ分からなくて当然であろう。

 

しかし。

しかし、自分のやることが全てわかってしまった王子にとっては、切実で、かつ大切なことだった。王子は見極めなければならない。そして少女に伝えなけばならない。

何を？

何を伝えるのかは、見極めなければ、決まらないのだ。

 

 

王子はその翌日から、毎朝、毎夕少女の家に通った。畑の水やりと草引きと虫取りに。土曜日とは違って、平日はゆっくり話をする暇はない。朝は、「早朝トレーニングだ」と言って家を出るので、再び家に帰って着替えてから学校に出る。少女と話す暇はない。帰りは、学校で体操服に着替えておいて、まっすぐ少女の家に行き、畑仕事をする。少女は洗濯物を取り込み、炊事をしている。時々、炊事の前に野菜を取りに来て「ありがとう。ご苦労様」とにっこりすることがある。時間があるときは、軽い話をしたりすることもある。でも、お互い、土曜日のようにゆっくりとは話せない。宿題をして、翌日は早く起きなければならないからだ。

 

王子にとって、涙が出るほど大切な１日１日であったが、こうして１週間はあっという間に過ぎてしまい、１学期も残すところ最後の１週間（５日間）となってしまった。

 

 

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　　       　　第４章

 

 

　　　　　　       〔１〕

 

その１週間は、王子にとって、やらなければならない大切なことがぎっしり詰まっている。それも全て怪しまれること無いように慎重にやらなければならない。

『でも…』と王子は思った。『きのう、彼女のお母さんと話ができてよかった。』

 

昨日１３日の日曜日に、夕方、王子はまた少女の母親と会って話をすることができたのだ。少女は自転車で食料を買いに出かけていた。

王子は少女の母親に、『差別ゆるさんど行進』に少女が反対していること、当日プラカードを持って「うつ病差別反対」を訴えるつもりでいることを伝えた。母親はちっとも驚かなかった。王子は『よかった。』と思った。『少女が母親に当日のことも話したのかな？』とも思ったが、確認はしない。時間がないのだ。

王子が母親に言った。

「おかあさん。」

普通なら「おばさん」と呼ぶべきところだが、王子は気にしない。

「お母さん。彼女は今のままだと、土居中で潰されてしまいます。」

母親はやはり驚きもせず、平静に聞いている。

王子は続ける。

「彼女が、『ゆるさんど行進』に出ないということも、当日プラカードを持って抗議するということも、止められないと思います。そうなると、２学期からあと、彼女は先生みなから目を付けられて、いじめられるようになります。お母さん。彼女を転校させてあげるのが一番いいと思うんです。」

一息でそこまで話した王子は、そこで、息をついて母親の反応を待つ。少女の母親が口を開く。

「ありがとう。家の掃除や畑の水汲みや、そういうことをあなたが助けてくれてどんなに助かったかしれないわ。そしてね、王子さん。わたしはあなたに感謝してるのよ。あの子が、１学期を何とかここまで持ちこたえられたのもあなたがいてくれたからだって。

「あの子が、土居中の、いえ土居町の同和教育の方針に根本的に合わないのは、父親のことがあるからよ。私も、土居町の今のやり方には怒りを持っています。だから、土居中へ上がって、あの担任の先生になって、わたしは、４月いっぱい持たないんじゃないかって思っていたのよ。実際、初めて学校で『自分を語ろう』っていう同和問題学習の１回目があった日に、あの子は一晩中泣いていたわ。それから、だんだん元気が無くなっていくのを見て、わたしも何度、転校させようかと考えたか分からないくらい。

「でも、不思議なものね。そんな時、わたしの夢とあの子の夢の中に、あの人が出てきたのよ。あの子は『絶対にお父さんに違いない！！』って言ってね。そして、夕方あなたを連れて帰ってきたのを見たときには、わたしもびっくりしました。

「それから、なのよ。あの子がだんだん明るくなっていってね、あなたとあったあとは、１週間学校でつらいことがあっても、帰ってきてわたしに、『こんなことが会ったのよ。バカみたいね。』って笑い飛ばすようになっていったの。」

少女の母親がそう話してくれたとき、王子は本当に嬉しかった。自分が、少女の心の支えに少しでもなれていたんだと、母親の口から直接話してもらって、王子は本当に嬉しかった。

しかし、今はこれで話を終わらせてはいけないのだ。

王子が口を開こうとすると、母親は、それを制して再び話し出した。

「あなたが言おうとしていることはよく分かっています。そうね。気を悪くしないで聞いてくださいね。あなたはこの帝国の王子様だから、帝国がどんな方法で住民を支配しているのかよく知っている。わたしは、その支配の犠牲として、最も大切な人を失ってしまった。

「だから、１学期は、あなたのおかげで何とか持ちこたえられたけれど、２学期はたとえあなたが来てくれたとしても、あの子は持ちこたえられなくなるだろうと、わたしも思います。」

そして、母親は、一息ついていった。

「わたしもあの子を転校させなければならないと思っているのよ。」

王子は、すぐに口を開いた。

「それなら、１学期が終わったらすぐに転校手続きを取るといいと思うんです。そうすれば、『ゆるさんど行進』にたてついたということで呼び出しがきて、徹底的にやられる心配もありません。」

しかし、母親の顔には苦悩の色がある。

「それが一番いいと私も思っているの。でもね、はっきり言うと、恥ずかしいことだけれど、お金がないのよ。親戚もいないから貸してもらうこともできないわ。

「転校するとなると、新しい家に引っ越さなければならないでしょ？初め転校のことを考えたときは、『わたしと主人との思い出の詰まったこの家を手放したくない』と思っていたわ。でも、あの子の追い詰められていく様子を見ていると、もうそんなことを言ってはいられない。

「でも、次の借家かアパートを借りるのに礼金や敷金を入れると１０万円以上要るのよ。貯金を崩せば何とかなるでしょうけど、今の家でやっているように、節約することはできなくなるでしょうね。たぶん、毎月赤字がたまって行って、あの子が進学しなければならないときに貯金はなくなっていることでしょう。」

つらそうな母親の顔を見ているのが王子には忍びなかった。

話は途切れた。

これまで洗濯、掃除、畑の世話など、すべて、『節約』ということが頭の中にあったのだ。少女にも、少女の母親にも。

うつ病を抱え、それが再発しないように気をつけながら、母と子が精一杯生活している。母親が今働けるということだけでもありがたいことなのだ。そして、そこまで切り詰めてでも、おそらく家計はギリギリの状態なのだ。

二人とも黙ってしまった。壁の時計だけがカチカチとの音をたてている。王子は

「とにかく、ぼくも何とか考えますから。」

と言って、少女が帰ってくる前に、母親に別れを告げて家を出たのだった。

 

 

 

 

 

　                 　〔２〕

 

月曜日、早速王子は『行動』を開始する。それらの詳細を全てここで述べるのは控えておこう。そして簡単に概略だけを述べておこう。

王子は学校で、あるものを仕入れてあることをしなければならなかった。しかし、網の目を潜り抜けるかのように、いとも簡単に、これをやってしまった。ただし、月曜日と火曜日の２日間かかる。

さらに、家で、すなわち帝王の司令室に忍び込んで、『あるデータ』を手に入れなければならなかった。帝王だけが知っているはずのパスワードを、実は王子は知っていた。物覚えが悪くなったと言って、パスワードを書いて机の隅に貼り付け、その上に別の書類を置いて分からないようにしていることを。これは火曜日の深夜、成功した。

水曜日、そのデータで調べたある人物のところへ行く。その人物は病気で外へは出られず、訪れてくる人とも会えない、電話さえできないと聞いていた。だから、王子は、行ってもいいものか、やめるべきか、ずいぶん葛藤したのである。けれども、時間がない。行ったけれど会えないかもしれない。とにかく、自転車を走らせた。インターホンを鳴らす。反応がない。もう一度鳴らす。しばらく待つ。

「ああ、だめか」と思って帰ろうとしたとき、玄関の戸が開いてその人物が出てきた。１時間後、再び玄関の戸が開いて出てきた少年はお礼を述べて、自転車に乗る。その人物に紹介してもらった家に、これから行くのである。連絡はその人物がつけてくれていた。

その家では老人が温かく迎えてくれて、

「用件は聞いた。いつでもOKだ。」

と言ってくれた。さらに、トマトやキュウリやナスなどを袋いっぱい持たせてくれた。

それを持って、少女の家へ行く。もう少女も母親も食事も入浴も終えてパジャマ姿であった。少女はパジャマ姿を見られるのが恥ずかしいのか、出てこなかった。王子にはその方が都合がよかった。

「今日は夕方の水遣りができなくてごめんね。」と奥にいる少女に言ってから、あとは母親に小声で要点だけ伝える。少女には何を言っているのか聞こえない。ときどき「まあ、そんな」とか「本当にいいんですか」という母親の声が聞こえる。最後に王子がいつもの声で、「じゃあ、帰ります。」と言い、少女の方へ向いて、「お休み」と言って出て行った。その夜、少女と母親はいつもより遅くまで何かを話し合っていた。

木曜日、王子は家の納屋にあるナタを持って自転車で山へ向かう。何かを探しているようだが、なかなか見つからないらしい。しかし、それでも、１時間後には２メートルほどあるまっすぐな竹の棒が２本、切り出されていた。

ただし、この日は個人懇談があったので、その時刻には王子は学校に行ってなければならない。竹の棒は少女の家の上のお墓の隅において、まっすぐ家に帰る。汗を拭いて、制服に着替えて学校へ行く。

そして金曜日、今年は連休があるので、夏休みに入るのがいつもより早い。終業式を終えて通知表をもらった後、『ゆるさんど行進』に出る者は体育館へ集まるように指示が出る。

『ゆるさんど行進』はいくつかのコースに分かれて各コースを行進して歩くことになっている。各グループの生徒のリーダーは３年生がやる。王子は、その総リーダーである。

先生から、

「夏休み中に自分の主張したいことを堂々と言えるようにしておくこと。今年は『のぼり』なども作っていいので、できる人は思い切り目立つのを作りなさい。暑さが予想されるから熱中症対策は各自でやっておくこと。倒れても学校は責任とらんぞ。」

と、なにやらむちゃくちゃな指示が出される。

最後に、総リーダーである王子の掛け声で全員が大声で

「差別ゆるさんどーー！！」

と叫んで、ようやくお開きとなる。

 

１学期は終わった。１週間後、２６日が『差別ゆるさんど行進』、その日である。

 

 

 

 

 

 

　　               〔３〕

 

終業式の日、ようやく学校が終わって、王子は、図書館に向かう。本を数冊借りてから、家へ帰る。通知表は、どうしても両親に渡しておかなければならない。そして、昼食を簡単に済ませ、「また、図書館で勉強するから」と言って、家を出る。

自転車を西に向いて走らせ、八日市から南へ向かう。途中から西へ。そしてまた南へ。長津小学校の正面の道を通って国道を渡り、坂を上る。村山神社の真南の道をまっすぐ上に上り、上りきったところで左に折れる。こうしていくと、少女が前に案内してくれたお墓の奥の「野原」に来るのだった。古墳の後ろに自転車を止めて、そこからは歩いていく。お墓を逆に進んで少女の家の玄関に着いた。玄関の戸は開いている。

「こんにちは。」

と王子がいう。

「えっ?」

という声が奥で聞こえ、すぐに少女が出てきた。薄い黄色のワンピースを着ている。

「どうして？」

少女が不思議そうに尋ねる。

「何が？」

「わたし、縁側で外の景色見てたんだけど、あなたが来るところ、見えなかったわよ。」

少女の家の縁側（北の廊下）からは、坂道もみえる。だから来訪者があれば、坂道を登ってくるところが見えるのだ。

「今日はね、村山神社から上に上がって、お墓の方から来たのさ。」

「まあ。わざわざ、遠回りをして。しんどかったでしょ。」

確かに、この辺は赤星山の裾野だけに、坂道が多い。

「このくらい平気さ。」

少女は、王子を玄関の土間に立たせたままだたことに気がついて、

「ごめんなさい。上がって。」

という。しかし、王子は動かず、少女を見ている。

「どうしたの？」

少女が訊くと

「その服、きれいだよ。すごく似合ってる。」

と、王子は少女の全身を上から下へ、下から上へと何度も感心したように見ているのだった。

少女は、急に真っ赤になって、

「もう！　なにふざけてるの！？　早く上がって」

と言った。玄関を上がって、縁側へ歩きながら、王子は言った。

「からかっているんじゃないよ。本当にきれいなんだ。」

少女は顔を赤らめたまま、

「私、この服、あんまり好きじゃないのよ。」

と言う。王子は、まっすぐ少女を見て

「どうして？」

と訊く。

その服は２年前のバーゲンで母親が買ってくれたものらしい。いつも洋服や下着は、シーズンが終わってバーゲンセールで安くなったとき、翌年の分を買うのだ。その服を買った頃は少女はまだ小学５年生だった。２年後を見越して買ったものだから、その翌年、つまり去年着たときには、まだ服のほうが大きかったのだ。それで、少女のその服に対する印象は悪くなってしまった。

少女は今もその印象を持っている。王子が自分をからかっていると少女は思った。

「体にあってないでしょ。ぶかぶかで。それにやけに短いのよ、スカートの丈が。」

恥ずかしそうに、やっとそういう少女。

王子はこれまで少女のスカート姿を見たことがない。いつもＧパンとＴシャツだった。一度だけブラウスとキュロットスカートのときがあった。

しかし、ワンピース姿は始めてみた。王子は、春の野に咲く名前も知らない黄色の花を思い出した。また、同じく春の野に咲くうす紫色のスミレの花を思い出した。『「可憐」という言葉はこういうもののことを言うんだろうな』と思っていた。

王子は言う。

「ウソじゃない。お世辞でもない。本当にきれいだよ。たぶん、今いちばんよくキミの体にあっているんだよ。ブカブカなんかしてない。それどころか、体の線がとってもきれいだよ。スカートの丈もちょうどいいよ。本当に、ウソじゃないんだ。」

王子は一生懸命言った。少女は、その王子の言い方から、王子は本当のことを言っているんだと思った。

「でも去年は、スカートの丈がひざまであったのに、今はひざよりもこんなに上なのよ。恥ずかしいわ。」

と少女はこだわりを示す。

そんな少女を見て、王子は、春の野の花のイメージが頭から離れない。巷では、ミニスカートがはやっていて、わざわざパンツを見せようかとでもするかのように短いスカートが流行しているというのに、ここは別世界のようだ。

「立ってごらん。」

と王子が言う。いやだと抵抗していた少女も、王子の真剣な誘いについに応じる。立ち上がった少女は、本当にそのワンピースが似合っていた。大人になりかけた体の線がぴったりと輪郭を現すのでもなく、かといってブカブカなのでもなく、ちょうどよいバランスを保っており、スカートの長さもひざ上に程よい高さにあり、黄金比を感じさせる。

そんなことをひとつひとつ王子は考えたわけではない。はじめてみる少女の女性らしい姿に、見とれていたといった方がいいだろう。

はじめは強く抵抗していた少女も次第に王子のやわらかい優しい視線に、安心してきたようだ。

「本当に私に似合う？」

小さな声で少女は訊く。

「うん。似合う。ボクはキミのその姿がとっても好きだよ。」

初めて少女は、笑って言った。

「じゃあ、そういうことにしておこうか。」

少女は王子が真剣に話すときには、ウソをつかないことを知っていたから。

 

 

 

 

　　               〔４〕

 

「お茶を持ってくるわね。」

少女は台所に向かう、その後姿も素敵だと感じながら、王子は縁側に座って、海を見る。

「ハイ、どうぞ。」

「ありがとう。」

冷たい麦茶を飲む。

少女が冷たいタオルを出してくれる。

「ボクが使っていいの？」

「もちろんよ。母さんのは別に冷やしてあるわ。」

タオルを広げて顔に当てる。汗が一気にスーッと引いていく。王子は首や肩なども拭いて、

「ああー、気持ちいい」

と言いつつ、『しまった。タオルを汚したんじゃないか』と思い、自分が拭いたところを見る。タオルは少し茶色くなっていた。

その様子を見ていた少女は、にっこり笑って、

「汚しても大丈夫よ。なんなら、背中もおなかも拭いてあげようか？」

と言う。これには、さすがに王子も

「い、い、いや。それはいいよ。」

と断った。

汗を拭いた後の肌に、北からの海風が当たって、気持ちがいい。

空の青が濃くなった。『夏だなあ。』と思う。

気がつくと、少女が、王子の横に正座をしていた。

「王子さん。何から何まで、いろいろとしてくれて、本当にありがとう。今日転校手続きを母さんが済ませてくるわ。」

王子は、ぱっと少女の方を向いた。

「そうか！よかった！！よかったね。」

少女もうなずく。

「ありがとう。あなたのおかげよ。」

「キミに直接たずねないまま、勝手に動いてごめんよ。でも、時間がなかったんだ。」

「分かってる。あの日の晩、あなたが来てくれた後、母さんから聞かされたわ。私、夢みたいな気がした。それで、昨日すぐにお母さんが学校と教育委員会へ行ってくれたの。今日、また書類を出しに行ってくれるわ。それでおしまい。」

「お母さんにも、急なことで負担をかけちゃったね。」

「かも知れないけれど、母さん、きっぱりと言ったわ。『これはあなたの命にかかわることだから、仕事の方は休みを取ってでも行く』ってね。」

「お体、大丈夫かな？」

「うん。あしたは一日、お仕事のほう、お休みをもらうことにしたんだって。そうしたら、２日間ゆったり休めるでしょ？　うつ病は一度治っていてもムリをしたらだめなの。負担をかけたら、そのぶんやすまなくちゃいけないのよ。」

「じゃ、明日は掃除はどうする？」

「お休みにしましょう。」

『母親が今夜、無事帰ってきて、転校手続きが完了したことを確認するまではまだ安心はできない』と思いながらも、王子は、転校については９９パーセント成功したと感じた。

 

あの日訪れた人物。それは、土居中で幹部連中から罠に嵌められ休職に追い込まれてしまった教師であった。Ｒ先生と呼ぶことにしよう。あの日、Ｒ先生に少女のことを話すと、「とても危険だ。それは、実際にやられた者じゃないと分からない。すぐに転校したほうがいい。」とＲ先生は言った。王子が「しかし、転居するお金がないし転居できても生活が成り行くかなくなる」と話すと、Ｒ先生は、「私の家に居候と言う形で住むようにしたらいいんだよ。」と言ってくれた。

しかし、それは、母親も少女もＯＫとは言わないだろう。すると、「居候する場所がはっきりしていれば、それで住民票を移すことができる。そうすれば転校手続きができる。居候してても、たまに、あるいは時々、あるいはもっと頻繁に、前の家に行ってそこで泊まって学校に行ったっていい訳だ。でも、ここより、私の実家が南中校区にあるからそっちに《居候》するほうがいいだろうね。今の彼女の家からでも南中なら自転車で通う距離は土居中と大差ないよ。」

そういうことを説明してくれた。意味が分からない王子は何度も問い直し、すっかり理解して、Ｒ先生の家を出たのだった。それからＲ先生は電話ですぐに実家に連絡し、教えてもらったＲ先生の実家に王子がつく頃には、話は完了済みだった。Ｒ先生の両親は気さくに、「部屋はいくつでもあるから《居候》はいつでも受け入れ可能だ。でも、それを気にしなくていいから。気が向いたときに来てくれたんでいいよ。」そう言って住所と電話番号を教えてくれた。

つまり、住民票をそこへ移して、そこから南中へ通うということだ。ただし、実際には、これまでどおり今の家から南中へ通えるようになる。

こんなにありがたいことがあろうか？

 

「ありがたいわ。私、Ｒ先生にお礼を言いに行きたい！」

「うん。いずれね。まずご両親にご挨拶に行ったらいい。Ｒ先生のところは焦らなくていいと思うよ。」

「どうして？」

「まだ、思ったように回復しなくて、人と会うのはエネルギーを使うので、控えた方がいいらしいんだ。」

「でも、あなたとは会えたんでしょ？」

「Ｒ先生の調子のいいときにはたぶん君とも会えると思うよ。でも、いつ調子がよくていつ悪いか、その波は本人もわからないんだって。」

「お父さんもそんなだったって、母さんが言ってたわ」

「土居中は、そうやって、気に入らない教師や生徒を潰していくのさ。Ｒ先生は君のことをすごく心配して、一度話をしたいといっていたよ。」

「わかった。夏休み中、いつか行ってみるわ。あなた、よかったら、連れて行ってくれる？」

ここで、王子は、少し言いよどんだ。

「……うん。」

 

 

 

 

　　               〔５〕

 

「ところで、それよりもね。」

と王子が話題を変える。

「ゆるさんど行進のとき、君はプラカードを持って立つって言ってたよね。」

「ええ。そうよ。」

雰囲気がキリッとかわる。

「プラカードは、もう用意した？」

「ううん。まだ。これからよ。」

「どんなのを考えてるんだい？」

「このくらいのね、横長い長方形のベニア板に棒を打ちつけて、画用紙を貼って、それに『うつ病差別反対！』って書くの。」

少女の計画ははっきりしていた。

王子は何も答えず、何か考えている。

「どう？」

と少女が訊く。

やや、おいて、王子が口を開く。

「そのプラカードの文字は何メートル先から読み取れるかな？」

少女はしばらく考えて

「３０メートル…、うーん、２０メートルかしら。」

「そうだろうね。行進の先頭の人が読み取れる距離のところまで来ても、行進の後ろの方の人には読み取れない。」

「うん。」

「行進の先頭には、先生がいるよね。」

「うん。」

「『何やってんだ』ってプラカードを奪い取られたら、せっかく作っても結局誰にも見てもらえないまま終わる」

少女は激しく言う。

「奪い取らせたりするもんですか！体で抱えて絶対に話さない！」

「でも、その先生がプラカードと行進の間に割り込んで入ってきて体で隠したら？」

少女は黙ってしまう。いつものように、柱時計がコチコチ音を立てる。

少女は、少し元気がなくなった声で、うつむいたまま、

「じゃあ、プラカードは止めろってこと？」

とポツリと言う。

「いや、そうじゃない。」

その王子の声に、少女は顔を上げる。

「あのね、プラカードなしでも『うつ病差別反対――！』て叫ぶだけでも意義はあるよね。でも、何十人もの行進のシュプレヒコールには負けて、声がかき消されてしまうだろう。

「だから、君の考えたプラカードはとてもいい案だと思うよ。」

少女の顔にやや明るさが戻る。しかし、これから王子が何を言い出すのか分からず、不安な表情を半分残してじっと待っている。

「ちょっと待ってて。」

王子が玄関から出て行って、すぐにまた戻ってきた。しかし、今度は両手に荷物を持っていた。

 

 

さて、ここから一足先に外に出て、二人が話し合いを終えて出てくるのを待つとしよう。外からでは、二人の声は聞こえない。しかし、まもなく、少女の「エエーーーッ！すごい！！」と叫ぶ歓声が聞こえる。

 

１５分後、二人は外に出てきた。お墓に向かう。

二人は手をつないでいる。少女はいかにも嬉しそうだ。

「楽しみね。あなた、すごいわ。あれ、全部一人で準備したの？」

「軽いもんさ。と言っても３日間かかったかな。」

そして、王子は念を押した。

「いいかい、まだ完成してないから気は抜けないんだ。レイアウトは君の仕事だよ。鉛筆で薄くかいでみてね。」

「ええ。やってみるわ。」

 

 

 

 

 

 

　　               〔６〕

 

お墓の中に、二人のデートコースができていた。その道順に沿って歩く。

「あっ」と少女が声を上げた。

「私一人じゃムリじゃない？　もう一人要るじゃない！？　もう一人は、どうするの？？」

王子は落ち着いている、一瞬立ち止まった少女の手を引いて歩いていく。

「決まってるだろ。僕が居るじゃないか。」

「ダメ！ダメ！ダメよ！それはダメよ！」

少女は、今度は両手で王子の腕を握って、引き戻すかのように立ち止まった。

「じゃあ、あなたは、ゆるさんど行進をしないの？　総リーダーじゃなかったの？」

王子は答えず、じっと少女を見ている。少女は不安そうに王子の表情を読み取ろうとするが、王子の顔には不安や焦りの色は少しもない。

王子はゆっくりと少女の両手を引き離し、逆に自分が少女の左右の手を持ってしゃがんだ。

そして、少女の目をじっと見つめたまま言った。

「いいかい。人生、ここでどっちを選択するかって大切なときがあるんだよ。君にとって、それは今だ。転校したから、もう終わりじゃないだろ？」

本当は、転校したということで、少女には土居中への許せない思いを切って欲しかった。でも、それは、少女が決意している『うつ病差別反対！』をやらなければ、切ることができないのだ、ということがわかってしまっていた。少女の思いは、恨みや憎しみではない。もう自分と同じ苦しみをする人に出て欲しくないという、「私」を離れた「無私」の思いなのだ。少女にとっての分水嶺。それが今。

王子は続ける。

「ボクも、君の思いがよく分かる。本当は君にはもう休んで欲しいんだ。でも、君の選択は正しいと思うよ。きっと、君のお父さんも、天国から応援してくださると思う。」

少女は王子の顔を見たまま、泣きそうな声で言う。

「でも、でも、あなたが、あなたが、…」

王子は少女の両手を持ったまま、立ち上がる。少女も立ち上がる。

「ボクと君が始めて出会ったときを思い出して。アレは機滝だったね。君は『ようこそ。お待ちしていました』って言ってくれたんだ。あの日、ボクは赤星山に登ってた。そこから降りてくる途中だったんだ。ボクが何をしに赤星山に登ったか分かるかい？」

「分からない。考えたことなかった。」

「死にたかったんだよ。」

少女の目が大きく見開かれる。

「目的のためには手段を選ばない大帝国の王子であることがいやでいやでたまらなかったんだ。

「でも、仙人みたいな人に会って、『山を降りろ』って言われた。『温かい人の中に入らなければ癒されない』ってね。そして出会ったのが君だったんだ。君がいなければ、ぼくはあの時死んでいたと思う。

「いいかい？　ボクの分水嶺は、もっと前にあったんだよ。ゆるさんど行進に出ないというのは、もっとずっと前に決めてたんだよ。ボクが自分で決めたんだ。分かってくれるかい？」

少女はうつむいた。

 

王子は、ややしばらく間を置いて少女に言った。

「それと、話は変わるけど、Ｒ先生が言ってくれたこと、気をつけて。」

少女は王子を見る。

「Ｒ先生は言ってた。戦闘モードにあるときは、心や体がかなり弱っていても、何とかやっていけるそうなんだ。ところが、そのままの状態が長く続くと、うつ病になるんだって。君もうつ病の怖さは知っているよね。君は、この１学期、本当によくがんばったよ。」

そういったとき、不覚にも王子の目から涙が一筋こぼれた。知り合ってからの少女の一生懸命な毎日の姿を思い出したのである。いじらしくていとおしくてたまらなくなったのである。瞬間的に、王子の気持ちが少女に伝わった。少女もポタポタと涙をこぼした。

「いいかい。君はお母さんを守ってあげなくちゃいけない。ボクは今までみたいに助けてあげることはできなくなるかもしれない。でも、君がしっかりしていれば、大丈夫だ。少々通う距離が遠くなったって南中なら大丈夫だ。」

王子はいつの間にか泣いていた。泣きながら話していた。

「Ｒ先生のは話では、戦闘モードから休息モードに入るには、一気に心と体を解き放つのがいいそうだよ。そして、しばらく何もせず、ダラ～ンとすごすのがいいそうだ。君は若いから大丈夫だろうけど、土居中で目を付けられた４ヶ月間の生活というのは、見えないところでかなり心身に負担をかけているそうだよ。だから、ムリしないように。」

少女も泣いていた。

同情でもなく、義務感からするのでもなく、責任をはたすのでもない。ただ単に、それぞれが一生懸命人生を生きている中で出会い、それぞれがお互いを思いやりながらも、自分で自分の人生の選択をしたとき、こういう形になったのである。

少女にはよく分かった。

 

泣き止んだ少女は言った。

「分かったわ。私もムリはしないから。あなたもムリはしないでね。」

王子はうなずく。

「明日も朝、水やりに来るよ。君はゆっくり寝るんだよ。」

少女もうなずく。

二人は別れを告げ、少女は家へ、王子は自転車をおいたところへ帰っていった。

 

 

 

 

 

　　                              　〔７〕

 

翌朝、いつものように５時ごろ、王子が水汲みに行くと、玄関のところに少女が立っていた。

「あれ？寝てなかったのかい？」

王子が小声で聞く。

「ええ。目が覚めちゃったの。それで、そうーっと起きてきたのよ。」

と小声でいいつつも少女はあくびをした。

「もっとゆっくり寝てればいいのに。休めるときに休まなくちゃいけないよ。」

と王子はちょっと顔を険しくして少女に言う。

すると、少女は、王子のほうに体を向けて、言ったのだった。

「手伝わせて。ネ、お願い。私、少しでもあなたと一緒にいたいの。」

王子は返事に窮した。じっと少女を見つめる。少女もじっと王子を見つめている。

それは、ほんの数秒間のことであったが、王子の心の中にまた、重要な疑問が生じた瞬間でもあった。しかし、王子は、やさしく言った。

「うん。じゃあ、一緒にやろう。」

少女の顔がパッと明るくなる。

「お母さんは寝てるんだね？」

と王子は念を押す。

「ええ、ぐっすりね。」

少女はにっこり答える。

「じゃあ、静かにやろうね。」

「うん。」

王子がバケツ２つに水を汲む。最初に組んだ方のバケツを少女が持ち、後の方のバケツを王子が持ち、畑まで運ぶ。少女は右手に持ったり、おろして左手に持ったり、またおろして両手で持ったりしながら、苦労しているようだ。王子は、自分のバケツの水を半分すてて、少女に後ろから声をかけた。

「こっちをお持ちよ。」

「あー、これなら楽よ。」

「ごめん。君はいつもそのくらいの量で運んでいたんだね。気がつかなかったよ。」

「ううん。あなたと同じことをやってみたかったの。あなた、あんな重たいのを、２つも持って運ぶの？」

ちょうど少女の母親が寝ている部屋の前に来た。

王子は声を出す代わりに、微笑んでうなずいた。

二人で野菜に水をやる。もう、トマトもキューリもきれいな大きいのが生っている。キャベツも、まったく虫に食べられてない。これなら、一番外の葉も捨てる必要がない。

「あのね、」

と王子が言う。

「水運びは今一緒にできたから、水やりしたところの草を君が引いていくってのはどう？」

少女は少し考えて、言った。

「じゃあ、そうする。でも、あなたも一緒に草引きしてよ。」

「ウン、もちろん。」

そこで、王子はこれまでのように一度に２杯のバケツの水を運び、少女は水がかかって引きやすくなったところの草を引いた。

王子が水を運び終わってバケツを戻し、畑に帰ってきた頃には少女は害虫探しをしていた。

「あれ？もう草引きすんだの？」

少女は笑って、

「一緒にやるって約束だったでしょ？」

と言って指差す。その指差した先の部分だけ草が残っている。

「一緒にやろうね。」

にっこり笑って少女は王子の手を持って、さっき残した草のところへ来てしゃがむ。

王子は笑いながら、

「半分ずつだよ。」

残った草をひとつひとつ根っこから丁寧に引き抜いていく。

こうして、害虫探しも、二人で一緒にやって、朝の畑仕事を終えた。

もう日は昇っている。しかし、畑は家の西にあるので影になっている。家の軒下には薪が積んである。その軒下の薪の端がちょうど２人が座れるくらい空いている。王子と少女はそこに座った。

少女が言う。

「あなたがずっと、畑のこと全部やってくれたでしょ？　私、どんなに助かったか知れないわ。」

「たいしたことじゃないよ。ボクは、部活が終わった後のトレーニングになってよかった。」

実際に王子はそう、思っている。その体力がこれから必要なのだ。部活が終わってやることがない、などといってぼんやりと日々を過ごしていたらこれからやろうとしていることはできるわけがない。

また、少女の家のトイレは昔ながらの汲み取り式である。少女が一人で肥えをやったのも王子は知っている。ほかに、炊事、洗濯、薪探し、風呂焚きなどを少女は一手に引き受けてやっているのだ。

それを考えると、自分がした、畑の水やるや草引き・害虫取りなどは、ほんの些細なことに思える。

『できれば、それら全部を一緒に手伝ってあげたい』

そう考えたとき、少女が今日「一緒にやりたい」といった気持ちが分かったような気がした。

王子も嬉しかった。少女と少しでも、一緒に居れたことが。

「さあ。」と言って王子は立ち上がる。少女も立ち上がる。

「じゃあ、ぼく帰ってご飯を食べて、それからまた来るよ。レイアウトはできた？」

「ええ、できたわ。ノートに描いてみたの。また見てね」

「うん。それと、お母さんは今日と明日は、のんびりした方がいいよね。例の作業は外でやろう。」

「ありがとう。私もそう思ってたの。どこでやる？」

「村山神社の本堂の裏あたりはどうだろう？」

「あそこなら涼しいわね。でも使えるかしら？」

「とにかく行ってみようよ。じゃあ、そこに９時集合でどう？」

「いいわよ。じゃあね。」

「うん。じゃあ、また、あとで。」

 

 

 

 

 

 

　　                              〔８〕

 

二人はこれら全てを小声で話したのだった。少女の母親が、一切気にせずに、のんびりとできるように。うつ病を患ったことのある人で、少女の母親のようにギリギリのところで働いている人は、再発に注意しなければならない。そのためには、家族以外は一切人に会わず、子供に返ったようにゴロゴロと過ごす時間を定期的に取ることが必要なのだ。少女とのこれまでのつきあいの中で、そういうことが王子にも分かってきたのだった。

 

王子は走って家へ帰る。帰り道は緩やかな下りが続くので、楽だ。

走りながら王子は思い出した。

「手伝わせて。ネ、お願い。私、少しでもあなたと一緒にいたいの。」

と言った少女のあの顔。

少しでも一緒にいたいのは王子も同じだった。だから、それは嬉しいことだった。とても嬉しいことだった。

『しかし、』

と王子は考える。

『彼女は気づいたんじゃないだろうか？？』

 

 

家に帰った王子は、朝食を済ませ、勉強道具を入れたナップサックと水筒を持って家を出る。王子は前もって、夏休み中は、涼しい図書館で丸一日勉強すると宣言していた。昼食はほか弁などを買って食べるとも。したがって、これからよる７時ごろまでは、毎日、王子は自由である。

自転車で、野田垣生（のだはぶ）線を西へ走る。昨日と同じ道を通って、村山神社に着いた。本道裏に行く。少女はまだ来ていない。Ｔシャツを脱いで、タオルで体を拭き、別のＴシャツの着替える。汗でぬれたＴシャツを乾かす。

「早かったのね。」

少女の明るい声がした。今日もワンピースだった。色は薄いピンクである。

「どう？これ？」と今度は少女の方から、服について王子に感想を求めた。

王子は、少女の全身を眺める。少女は笑顔で、まっすぐ王子のほうへ体を向けて立っている。

王子は、この姿を目に焼き付けておきたいと思った。目を閉じてみる。でも、目を閉じると、少女の姿は消えてしまうのだ。

また目を開ける。少女が微笑みながら見てる。

「きれいだよ。とっても似合ってる。君は何色を着ても似合うね。ぼく、その色も大好きだ。」

王子はひとことひとことかみ締めるように言う。

「これもね、２年前に母さんがバーゲンセールで買ったものなの。同じメーカーのサイズも同じもの。昨日あなたがほめてくれたから、これは安心してきれたわ。」

少女が嬉しそうに言う。そして続けて、

「ＧパンとＴシャツのほうがいいかなと思ったんだけどね、あなたに見てもらいたかったの。」

王子は嬉しかった。

｢ありがとう。｣

心のそこからお礼を言った。

《今この瞬間、お前は癒されておる。分かるか？》

突然、声が聞こえた。

「えっ！？」

と王子があたりを見回す。

「どうしたの？」

「今声が聞こえなかった？」

「ううん。何にも。」

再び王子は少女の姿を見ながら、さっきの声を思い出した。

『そうだ。そうなんだ。ボクは、この子のおかげで、癒されている。』

それを王子ははっきりと意識した。

 

少女が、一歩前に出て、言った。

「さあ。始めましょ。」

「うん。始めようか。」

王子は、ナップサックから古新聞紙を取り出す（少女の家は新聞も取ってなかったので、王子が持ってきたのだ）。少女は、ノートとそして昨日王子が置いていった〔あるもの〕を取り出す。

少女はノートを開いて王子に見せる。

「どう？」

王子はそれを見て、うなった。

「うーーん。」

心配そうに少女が訊く。

「ダメ？」

「だめどころか、すばらしいよ。これ、アレを縮小したのかい？」

「そうよ。」

突然、王子が大声で叫んだ。

「１００点！！！　言うことなし！！」

パッと少女の顔が明るくなる。

「ほんと！？　嬉しい！」

「よくできてるよ。君にこんな才能があるとは。将来デザイナーになるといいかもね。」

「じゃあ、これを寸法を拡大して、アッチに鉛筆で、しるしをつけていきましょうか？　文字はその後でいいでしょ？」

「うん。この『う』の字が少し細い長方形になっているところが、凝ってるねえ。それに文字と文字の間の間隔もばっちりだね。」

しきりに王子が、少女のノートを見て感心している間に、少女は〔アッチ〕のものを軒下の縁台に広げた。そして、言った。

「あ。忘れちゃった。」

「何を？」

「ものさし。長さがはかれないわ。」

「フッフッフ」

と王子がわざとらしい笑い声を出しながら、ナップサックから携帯用巻尺を取り出した。そして、極太のマジック数本も。

「まあ！ドラえもんのポケットみたいね。」

少女はクスリと笑う。

 

 

この後の作業の様子は、省略して、簡単に述べることにしよう。

村山神社の隅で、ああでもない、こうでもないといいながら、頭を合わせて長さを測っては印をつけている王子と少女の姿があった。

 

お宮の裏の林の中でセミが今を盛りと、鳴き声をあげている。

 

しかし、この作業は一日では終わらなかった。この日は寸法取りだけで終わる。

王子は少女に連れられて近くの芹池に行く。少女がサンダルのままスカートを持ち上げて池に入っていく。ここは、清流の湧き出る泉なのであった。王子も、少女に誘われて、ズボンのすそをひざまで上げて歩いていく。冷たい水が気持ちいい。

 

翌日、少女は一昨日のワンピース姿でやってくる。いよいよ、文字描きの作業である。今度は、昨日とは打って変わって大胆な少女の姿があった。鉛筆で一気に文字を書いていく。王子は、見ているだけだった。

その後は、機械的な作業だ。マジックで塗っていくのである。中太マジックで輪郭を描いていき、はみ出さないように、根気よく塗りつぶしていく。

途中で芹池へ行っては、足を冷やし、気分転換しながら作業を続け、夕方にはついに、…

完成した！

 

 

 

 

〔９〕

 

丁寧に、折りたたんだ少女は、かばんに入れる。

王子が言う。

「おつかれさん。微調整はまた、ぼちぼちやろうね。」

「うん。…あのねえ、…」

少女が口ごもる。

「なんだい？」

王子は優しく訊く。

思い切ったように、少女は口を開く。

「私、がんばったでしょ。だから、ご褒美をちょうだい。」

王子は相変わらず、微笑を浮かべて優しく訊く。

「うん。何がほしい？」

少女は、いたずらっぽい笑みを浮かべて言う。

「１つだけじゃダメよ。４つあるの。」

王子はわざと大げさに驚いたように、

「ええーーっ！？　４つ？？」

「多すぎる？」

「いや、少なすぎると思ってさ。」

「ウフフ」

と少女は笑う。

「じゃあ、一つ目を言うわよ。」

「はい。なんでございましょう。姫。」

「わらわを、泳ぎに連れて行ってたもれ。」

「泳ぎでござりまするか。姫は泳げるのでござります？」

「ええーーい。ばかにするでない。泳げなくてどうする？連れて行くのか行かぬのか、どっちじゃ？」

「ははあぁ。御意。仰せのままに。」

二人は大声を上げて笑った。

王子がいう。

「君、俳優の素質もあるね。」

少女は笑って、

「今のが１つ目ネ。２つめから後は、ご褒美をもらったら、またその時言うわ。」

二人は縁台に並んで座って、お昼に宮の坂（お店）で買ったパンを２つに分けて食べる。少女はおにぎりをつくると言ったが、王子は止めたのだ。母親が今月は休みをいつもより多く取った。ということは収入が少ない。米だって節約した方がいいわけだ。この夏休みは全部お昼はぼくに用意させてくれ（と言っても店で買うだけだが）と王子は、何度も言って少女を納得させたのだった。

王子が、パンを食べ終わって、少女に訊く。

「君は、どこがいい。山の川と、海と、プールと。」

「ハァーイ」と少女は手を上げて、答える。

「山の川でーす。だってね、プールも海も日に焼けるでしょ？山の川なら木陰もあるからいいでしょ？」

「了解。じゃあ、２番目の質問。遠くてそこまで行くのはしんどいけど、一番楽しい川と、それほど面白いことはないけど、近い川と。どっちがいい?」

「ハァーイ」と少女はまた手を上げて、答える。

「遠くてそこまで行くのはしんどくても、一番楽しい川でーす。だって、どうせ行くんなら、楽しい方がいいわよ。あなたと行くんだから。」

王子は縁台を降りて手を叩き、パンの粉を払って言った。

「よっしゃ。わかった。○○川だ。」

 

（註：この川の名前は今は出しません。それは作者の秘密の場所なので。お許しを。）

 

少女も縁台から降りる。

王子が言う。

「念のため言っとくけど、更衣室はないよ。」

少女が平然と答える。

「必要ないわ。」

「えっ！？　も、もしかして、裸で泳ぐ、とか…！？」

少女は、パチーンと王子の背中を叩いて、

「バカ！　水着を脱がなくても、その上にワンピースを着て、そのまま帰ったらいいってことよ。」

と、王子をにらむ。

「ははぁーー。姫、失礼いたしました。拙者、腹を切ってお詫びを…」

王子が切腹の真似をするのを見て、少女は

「ウム。よかろう。わらわが介錯してつかわすぞ。」

そう言って刀を振り上げるまねをする。

「ひえーー。やっぱり、お許しをーー。」

こうして、二人でまた大声で笑いあう。しかし、どんなに大きな声で笑っても、セミの鳴き声の合唱には、笑い声はかき消されてしまう。

 

「さあ、水遣りだ。君は県道を通って普通どおり帰るんだよ。僕は前みたいに、山の方から回っていくからね。」

少し恨めしそうに少女が訊く。

「やっぱり一緒に帰っちゃだめなの？」

王子はきっぱりと言う。

「うん。今週は特にね。ヤツラに気づかせてはならないから。特にボクがこのあたりをウロウロしているという情報が帝国に入っちゃダメなんだ。だから、できるだけ人通りの少ないところを、それも毎日同じ道を通らないようにいろいろ変えながらいかなくちゃならない。」

少女は、現実に戻った。

「そうね。」

『それで、夕方の水遣りのときも手ぬぐいをかぶって、やっているのね。わざわざ、作業服みたいなのに着替えるのもそのためだったのね。』

王子の周到さに少女は感心した。

 

少女が家に帰ると、母親が玄関で庭の木に水遣りをしていた。

「母さん。大丈夫なの。」

「ええ。ありがとう。２日間ぐったり何もせずに寝たおかげで疲れはすっかり取れたわ、また明日から仕事がんばれるわよ。」

「よかったーー。」

 

しばらくすると、王子がお墓の方からやってくる。

少女の母親がをれを見て、

「まあ、王子さん。そっちから来たんですか？」

とびっくりする。

王子は

「はい。今まで彼女と一緒に大プラカードを作ってました。完成しました。今から水遣りします。お母さん。明日は彼女と一緒に○○川へ泳ぎに行こうと思うんですが、いいですか？」

と言う。少女の母親に秘密を持ちたくないのだ。この人も恩人なのである。

「ええ。ええ。どうぞ。道中気をつけてね。」

「ハイ」

王子が水遣りをはじめると、少女が炊事をやめて出てきた。

『一緒にやろうね』と目が言っている。

王子は笑って返す。

ナップサックからつなぎの作業着を出して着込み手ぬぐいで頭を覆って、

「ハイ、行くよー。」

と水を汲む。

「いっちょうオーライ。」と少女は受け取る。

 

２つ目を組む前に、王子は少女に訊いた。

「キミ、麦藁帽子は持ってる？」

「お父さんのならあるかもしれない。」

「あした、それをかぶっていった方がいいよ。」

「分かった。探しておくわ。」

 

水遣りをしながら、王子は思う。

『日曜日も終わった。月、火、水、木、金か。あと５日間。』

そして少女を見る。ワンピースのまま、バケツの水を流した後の地面の草を引いている。その姿も王子は目に焼き付けておきたいと思った。

ワンピースで畑仕事までして、毎日来ていたら、このワンピースはこの夏限りだろうな。来年の分は去年のバーゲンで買ってあるか、それとも今年のバーゲンで買うんだろうな。

 

『あと５日間…』

 

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　　　　　第５章

 

 

　                 〔１〕

 

王子は、家に帰ると、

「明日は、早朝トレーニングして、そのまま公園の木陰でおにぎりでも食べる。それで、図書館が開いたら、そのまま行くよ。」

と言った。

ちょうどテレビのニュースで

『愛媛県大洲市で３８．２℃！　全国１位の暑さ』

だったということが報道されていたので、ちょうどよかった。

新居浜、三島でも３５．２℃まで上がったらしい。

猛暑の夏がやってきた。

 

 

翌朝、いつものように早く家を出た王子は自転車にナップサックと麦藁帽を積んで、走る。早朝の空気も、今朝は今までより少し暖かい。

途中、コンビニでおにぎりやパンやスポーツ飲料を買う。

それから、少女の家へ行った。

少女はピンクのワンピースで、もう炊事をしていた。

「おはよう！」

少女が家から出てきて両手を後ろに組んで、王子を見る。

「ウフフ」

と笑い、

「その麦藁帽、似合うわよ。」

「ボクは何でも似合うのさ。」

と人差し指と親指でアゴを触ってみせる。

今度はアハハと少女は笑い、

「さあ。水やりしようか。」

とすでに用意してあったバケツを手に取る。そして、そのひとつを王子に渡しながら、

「夕べは月がきれいだったわね。わたし、ずーっと見てたのよ。あなたと一緒に見たかったな。月を見ながらね、今日あなたとまた会えて、一緒に泳ぎにいけるんだと思うと、嬉しくて嬉しくて。」

と笑み満面で、ひと息に言う。王子は少女の嬉しそうな顔を見ながら、その真意を読み取ろうとする。

『今日またぼくと会えるということが嬉しかったのか？それとも泳ぎにいけるということが嬉しかったのか？』

一日一日を過ぎていく日の中で、それは王子にとって切実な問題だったのだ。

「嬉しくてなかなか寝付けなかったんだろ？」

「ウウン。コロッと寝てたわ。風もあったし、そんなに熱くもなかったからね。」

「でも、昨日はこの夏一番の暑さだったそうだよ。愛媛県が全国１位だったんだってさ。」

「うん。３８．２℃だったって、ラジオで言ってたわ。」

「それでさ、ぼく今朝は、家に帰らないって言ってきたからね。おにぎりを買ってきたから水遣りしたらここで食べるよ。お母さんがお仕事に出られたら、すぐ出発しよう。どうだい？」

パッと少女の顔が輝いた。

「嬉しい！！　じゃあ、それだけあなたと一緒に長くいられるわね！！」

王子は優しく微笑んでうなづく。

 

１回目の水は二人で一緒に運ぶ。その後は昨日と同じように分担してやって、水遣りが終わったら、王子が少女に合流することにした。

草引きをしている少女の姿。

さっきの少女の言葉の奥にある真意は分かった。それは、王子にとって何よりも嬉しいことだった。王子も、少しでも長く少女と一緒にいたいのだった。

しかし、二人の思いには微妙な違いがある。

『あの子はそれを知らない。』

バケツの水を運びながら王子は考える。

『しかし。』

少女の姿が見えるところまで来たところで、バケツを置いて、王子は考える。

『ほんとに、あの子は知らないんだろうか？』

少女がこっちを見て、手を振る。王子も手を振って、またバケツを持って運ぶ。

 

朝食のおにぎりを王子はお墓の木陰で食べる。そして母親の出勤の準備ができる頃、再び少女の家に行く。

「おはようございます。」

少女の母親は、

「おはようございます。お墓で食べたんだってね。気を使ってくれてありがとう。今日は気をつけてね。」

と言って、出かけていった。

その後ろから少女が言う。

「ありがとう。っていうか、ごめんね。家に入って食べてもらえたらよかったんだけど。」

王子は笑って言う。

「２日間ゆっくり休んで、仕事に出かける時って戦闘モードにしなきゃいけないわけだからね。要らないことに気を使わない方がいいんだよ。」

少女は、その細やかな気配りに感動した。そして、思った。

『土居中では、そんな気配りはなかった。と言うより、そんな気配りを持とうという意思すらなかった。それどころか、迫害を加えたんだ。』

もし、父親がうつ病から復職したとき、今の王子のような人が上司であったら、父親は死ななくてすんだだろう…。

少女はこぶしを握り締める。

『もう、私みたいなつらい思いをする人には出て欲しくない。だから、ゆるさんど行進に対抗して、うつ病差別反対を訴えるのは絶対にしないといけないんだわ。』

少しの間、少女はそんなことを考えたのだった。その少しの間だけ、動きは止まってぼうーっとしていた。

王子は、何も言わずにそっと待つ。待ちながら、不思議にも少女の心の中が分かっていた。伝わってきていた。

少女が現実に戻るのを待って、

「さあ。準備しようか。水着を着ていくだろ？」

と王子が微笑む。

「うん。じゃ、着替えてくるわ。あなたは？」

「下にはいてるよ。」

奥の部屋へ着替えに行こうとする少女の背中に、

「ちょっと待って。」

と王子が声をかける。振り返る少女に、王子は差し出した。

「はい。これ、無色無臭の日焼け止めクリーム。顔と手足に塗っとくといいよ。」

「ありがとう。」

少女が微笑む。

「トイレも行っとくんだよーー。山にはないからねー。」

と王子が奥の部屋の少女に叫ぶ。

「わかったわー。」

と少女。

王子は玄関に腰掛けたまま、外を見る。今年初めての○○川。

いつもは一人で泳ぎに行っていた。

でも、どちらかと言うと、海が近いので海で泳ぐ方が多かった。沖までどんどん出て行って、背泳ぎしながら赤星山を見るのである。青い空と白い入道雲と薄く霞がかって見える赤星山。この、孤独な、静寂な、自然と一体になった時間が王子は好きだった。

また王子は、まっすぐ西へ自転車で走って山を越えて降りたところにある仏崎も好きだった。ここは松尾芭蕉がもし歩いたら、一句詠んだだろうと思うくらい、美しい景色が残っているところだった。ここは岩場なので、水中眼鏡とシュノーケルとフィンと腰用の網籠を持っていって、もぐって○○を採るのである。その美味なこと。

 

できれば、そこにも少女と一緒に二人で行って見たい…。

 

そんなことを考えていると、少女が水着をワンピースの下に来て出てきた。

「おかしくない？」

「ちっとも。着替えも一応入れとくといいよ。それと麦藁帽は？」

「ちょっと待ってね。」

王子は家に上がって窓を閉め始める。全部鍵をかけていく。

「ハイ。準備完了よ。」

ナップサックと麦藁帽子を手に持って少女が出てくる。

 

５分後、二人は玄関の鍵をかけて、家を出た。

まだ８時前である。

 

 

 

 

　　               〔２〕

 

王子が言う。

「あのね、県道を通っていく方が楽だろうけど、どっち道最後には上り坂をかなり上がらないといけないんだよ。アップダウンがあってしんどいけど、側道を通って行こう。」

「ええ。いいわ。」

こうして二人は出発した。

王子が言うとおり、平坦部ではない。少女の家を出てから側道に着くまでに、すでに自転車に乗ったままでは進めないような、急な坂がある。側道に出てからもアップダウンを繰り返す。ダウンは気持ちいいのだが、アップはまた自転車を降りて押さなくてはならない。

そうしてさらに、前もって王子が指示していたことがあった。それは、

《王子が先に進む。それとは５０メートル以上間を空けること。》

という指示だった。少女には、どうしてか、すぐに意味が分かった。

そんなわけで、行きは途中で話しをすることもない。でも、王子は必ず後ろも見ながら確認し、少女が遅れそうなときは待っていてくれたので、少女は『すぐそばに王子がいる』ような感覚があった。

途中何度も、休憩した。王子が少女に指差して高速道路の下に姿を消す。少女がその地点に着くと、高速道路の下のトンネルの中で王子が待っている。風が通って涼しい。

最初の休憩のとき、王子が

「休憩しよう。ハイ。」と言ってペットボトルを差し出した。

「私、水筒持ってるわよ。」

と少女が言うと、王子は、

「それは、向こうについてから使ったらいいよ。熱中症対策には、スポーツドリンクのほうがいいんだ。これはキミ用だから。」

と言って、自分の別のペットボトルを出して、キャップをあけた。

王子のどこまでも細やかな配慮に感謝しながら、少女もキャップを空けて、王子が飲む様子を見て、自分もそうやって飲んだ。

 

 

さて、筆者は、ここから後の部分を最も力を入れて描きたい。その川についてからを。しかし、前章でも申し上げたように、その川についてのみは名前を明かせない。そればかりか、情景を詳しく書くと、それがヒントになって、その川を突き止められてもいけない。

そのようなわけで、情景描写については意図的に端折ることをお断りしておく。

 

 

側道を離れて林道に入ってからは、２人で方を並べて自転車をこいだ。

「どう？大丈夫かい？」

「……」

「自転車を降りて押すかい？」

「…大…丈…夫……」

麦藁帽の下の少女の顔は見えない。

そのまま、橋のところまで行って、王子は自転車を降りた。そして、少女に行った。君の自転車はここにおいておこう。

そう言って木陰の人目につかないところに少女の自転車を置いて鍵をかけた。

「鍵､ぼくが預かっておこうか？」

少女は顔を立てに振る。

「さあ、あと少しだよ。荷物を貸して。」

王子は少女の荷物を肩にかけ、自分の自転車を押して歩き始める。

 

 

こうして、ようやく２人が川に着いたのは、家を出てから約１時間後だった。

 

王子は自転車を日陰に止めて、

「着いたよ！」

と言う。

「…」

少女には、かなりこたえたらしい。山道を歩くときは、カモシカのようにピョンピョン跳びはねるように進むのだが、何よりも暑さがこたえたらしい。

二人はペットボトルを空けて呑む。王子は

「ちょっと待ってて。」

と言って川に下りていくと、ぬらしたタオルを持って帰ってきた。

「これで顔や手足を拭くといいよ。」

少女は黙って言われたとおりにする。王子は、大きな別のタオルを取り出して、それを上下にバタバタやって少女に風を送る。

 

１０分ほどしてようやく少女は、口を開く元気が出たようだ。

「ありがとう。」

そして、風を送っていた王子を制して、

「くやしいな。あなたより元気だと思ってたのに。こんなにバテるなんて思わなかった。」

「いや。君はすごいよ。ずっとお日さんが当たってただろ？そこへ持ってきてあのアップダウンの繰り返しだからね。ワンピースの下には水着も着てるしね。」

「そうね。水着着てると風通しが悪くって、上りの時にはいつもの私じゃないような感じだったわ。」

「よくがんばったね。」

「途中で休憩を何回もしてくれたでしょ。私始めは、『そんなにしょっちゅう休憩しなくてもいいのに』って思ってたけど、アレがよかったのね。あれがなかったら、来れてなかったわ。」

やっと、少女の笑みが見えて、王子は安心した。

「立てれるかい？」

先に王子が立ち上がって、少女に手を貸す。

 

「さあ、行こう。」

さっき王子がタオルを濡らしに行った方向とは違う方へ歩き始めたのを見て、少女は、

「あれ？　降りるんじゃないの？」

「少し歩こう。」

 

 

１０分後。

「うわぁーー!」

少女の歓声が上がっていた。

「すごーーーい！こんなところがあったなんて！」

王子も１年ぶりに来たその川で、両手を伸ばして、大きく息を吸い込む。

「水に入ったら、もっと気持ちいいからね。ここで脱いで行こう。」

二人は水着姿になる。汗をかいた服は岩の上に広げ、それ以外の荷物は木陰に置く。

少女は、王子を待たずに、さっき「すごい」と言ったところ目指して駆けていく。とはいっても川原である。大小の石だらけの場所だ。走れるわけはないのだが、ピョンピョン飛び跳ねるカモシカの姿そのものだ。王子には追いつけない。

しかし、コンクリートの段差のあるところへ来て少女はそこを上がれなくて、ウロウロしていた。やっと追いついた王子は、

「こっち、こっち。」

と少女を呼ぶ。王子が先にコンクリートの段を水の流れをものともせずよじ登る。そして少女に手を差し出す。少女は少し怖がったが、王子の手をつかみ思い切って「やっ」と脚を出す。半分以上王子に引っ張り上げてもらって、無事、《そこ》に着いた！

 

「うわああぁーーっ！！」

少女が再び歓声を上げる。

「どう？」

と王子が訊く。

「ほんとにプールみたい！！こんなところがあったなんて、知らなかった。」

「去年より広くなったみたいだ。」

「何が？」

「あれは砂防ダムなんだよ。でも、大雨が降ったりしたら、ホラあの四角いとことから大水と一緒に砂や石が流されてくるんだろうね。そういうことがあった年は、ここにも岩がいっぱいゴロゴロしてることもあるんだよ。さあ、あっちへ行ってみよう。」

少女の手を引いて王子が先に歩く。しかし、途中から少女は王子の手を離し、またピョンピョンと先に進んでいった。水際に来て、ひざまで脚を入れて少女は喜んでいる。

「あーー、冷たい。」

王子が水際に来たときには、少女は腰まで水に入っていた。

「ちょっと待って。」

王子が声をかける。

 

 

 

 

　　               〔３〕

 

王子はポケットからゴーグルを出して、少女に投げて渡した。

「それをつけたほうが水の中が見えて面白いよ。」

「うん。」

と言って少女はそのゴーグルをつける。王子も自分のゴーグルをつける。ようやく王子が脚を水に入れたとき、少女は勢いよく水に飛び込んでいた。

　が、……

次の瞬間、少女はあわてて方向を変えてばたばたしている。そして水から上がってくると、王子に抱きついた。

「どうしたんだい？」

と王子が訊くと、少女はすぐに離れて、

「ああーー、怖かった。」

と言う。

「あんなに深いなんて思わなかった。ああ、…。」

と、少女は、思い出しては怖がっている。

王子は笑って、

「アッハッハ。だから気持ちいいんだよ。」

と言って、今度は自分が飛び込んだ。王子は抜き手を切って、砂防ダムのコンクリートの壁まで泳いでいく。そして、そこで少女の方に体の向きを変えて、手を上げて叫ぶ。

「おおーい。気持ちいいよー。ここまで来てごらーん。」

しかし、少女は石の上に上がったままなにか叫んで水に入って来ようとはしない。王子の横では、砂防ダムにぽっかり明いた四角い口から水がゴーゴーと流れ落ちている。その近くへ行くと、吸い込まれそうになる。その感触が面白いのだ。しかし、王子はすぐに、少女の方へ帰っていった。

水を上がると、少女が恨めしそうにしている。

「アハハ」

と笑って、王子は、言った。

「じゃあ、怖くないところで泳ごう。」

少女は訊く。

「ほんとに怖くないの？」

「こっち。来てごらん。」

王子が手を差し出す。素直にその手をつかんで少女は王子と一緒に水の流れを横切る。

「ホラ。ここは砂浜みたいになってるだろ？　だから、この岸辺と平行に泳いだら、必ず足がつくから。」

そう言って王子が泳いでみせる。

少女もその後を泳いで見る。

立ち上がると、王子が笑っている。

「うまいじゃないか。」

少女はちょっと元気を取り戻して、また反対方向へ泳いでいく。

５分後には少女はすっかり川に慣れて自分の好きなところを見つけては泳いでいた。少々深いところも平気になっていた。

「ほーぉら。こっち、おもしろいわよぉ。水が流れているの。流れに乗って泳ぐと気持ちいいわよー。」

少女が、王子においでおいでをする。王子は呼ばれるほうへ泳いでいき、そのまま流れに乗って泳いで少女のところまで行った立ち上がる。

「ね。気持ちいいでしょ。」

「ウン。キミもすっかり慣れたね。」

「ええ。ほんとに、こんなにいいところがあるなんて、知らなかったわ。すごーく楽しい！」

「土居にはね、いいところがいっぱいあるよ。土居町の自然は日本一さ。」

しかし、もうそのときには少女は別のものを見つけていた。

「これ、ザクロ石じゃない！？」

「うん、そうだよ。」

「すごーーい。いっぱいある。あ、あれも、あれも。」

そう言ってザクロ石を探して歩く少女。

そして、また少女の王子を呼ぶ声がした。

「ねえーー。来てーー。すごいの見つけたわーー。」

王子が行くと、ザクロの結晶のひと際大きなザクロ石を少女は指差した。

「なんで、こんなにいっぱいあるのかしら。ザクロ石。」

王子が答える。

「日本でも、ここと△川にしかないそうだよ。」

少女は言う。

「ねえ、知ってる？　ザクロ石のザクロって宝石の元なのよ。」

「え？これが？」

「そう。ガーネット。聞いたことあるでしょ。ザクロだけ取り出せないかなあ。」

王子は石から飛び出している結晶を探して、その周りをほかの石で叩き始めた。少女はじっと見ている。だんだんもとの石が割れていく。そして、しばらくすると、ザクロの結晶が４分の３ほど姿を現した。王子が少女に訊く。

「どうする？これ以上やったらせっかくの結晶も割れてしまうかも知れないけど。」

少女は答える。

「うーん。じゃあ、そこでやめて。」

そして王子から受け取ったガーネットの結晶をとても嬉しそうに見ている。

「これをきちんと取り出して、それから磨いたら、宝石になるのよね。」

『やっぱり女の子なんだな。宝石にあこがれるんだ。』

王子は、少女のためにきれいな宝石に仕上げてあげたいなと思う。

そう口に出して言った記憶はない。

ところが不思議にも少女は言った。

「ううん。私、宝石が欲しいんじゃないの。これが宝石になるんだと思うだけでいいの。」

そして、顔を王子のほうに向けて言った。

「これをね、あなたがここまで掘り出してくれたのが嬉しいのよ。」

そうして、またそのザクロ石のかけらを眺めている。

王子は思った。

『そうだ。今までなんで気づかなかったんだろう？これがぼくだったんだってものが、残らなかったんだ。』

少女とザクロ石のかけらと両方を見ながら、更に思う。

『それなら、残る。何年でも。』

そして王子は言った。

「それ貸してくれる？」

少女から受け取ったそのかけらを左手に持ち、結晶の部分に息をかけて右の指で磨きく。さらに、その周りの石も、落とせる部分を爪で落とす。そして両手で包んで、何秒か額に当ててじっとしている。少女はじっと見つめている。王子は、大切そうに両手でそれを、少女に差し出した。

「これ、ぼくからのプレゼントだよ。」

少女は、王子の目をじっと見つめ、両手で大切そうに受け取った。

「ありがとう…。」

そして、先ほど王子がやったのと同じように、少女のそれを額に当てて王子がしたのよりも長い時間じっと動かなかった。

 

 

 

 

 

 

　　               〔４〕

 

山の谷間は、日の出が遅く日の入りは早い。日が出てから1時間ほど経ったろうか。王子は言った。

「少し休もう。」

「うん。」

洋服と荷物を置いたところが日に当たっている。荷物は岩陰になるようにおいておいたので大丈夫だ。

「パン食べる？」

王子が訊く。

「うん。」

少女が答える。山の川で遊ぶと、意外とおなかがすくのだ。二人は日陰に入って、パンを食べながら水分補給した。

少女のくちびるはさっきまで白くなっていたが、赤みが戻ってきた。

空は青く澄んでおり、白い雲が流れていく。その下は３６０°パノラマの美しい緑。

「あーー。」

少女が伸びをして言う。

「いいところね。こんなに気持ちいいところを私たち二人だけで貸切にできるんだなんて。」

王子が答える。

「うん。これって、最高の贅沢だよ。」

そして、王子は日の高さを見て言った。

「じゃあ、もうひと泳ぎしてから、帰ろうか。」

少女は不服そうに

「ええー？もう？」

「うん。これから、日が高くなるから紫外線に気をつけなくちゃ。」

王子の答えを訊いても、少女はまだ不服そうだったが、

「ま、いいわ。じゃあ、たっぷり泳ぎましょ！」

と答えて、プールのほうへ走っていく。王子も、本当は、もっといたかった。一日中でも、少女と一緒にこの山の川にいたかった。水着の少女は、TシャツとGパン姿の少女とも、ワンピース姿の少女とも、そしてブラウスとキュロットスカート姿の少女とも違っていた。もっとも素朴で純真で愛らしさがあふれていた。自然のなかを走り回り、しゃがみこんではでは石を探し、水の冷たさに歓声を上げる少女。はじめ恐れていた、深みのあるところへも少し挑戦しようとしていた。

王子は、プールに腰まで入って泳ぎだす。さっきの砂防ダムのコンクリートの壁まで行って、向きを変え、少女に言った。

「来てごらーん！」

手でおいでおいでをする。少女は今度はひるまない。胸まで水に使って、さあ、泳ごう、とするが、今一歩思い切りがつかない。

「ねえー!　そこは遠いわ。もうちょっとこっちに来てー！」

と少女が水面を指差す。王子が、壁を離れて指差された場所へ行き、立ち泳ぎをする。

少女は思い切ってザブンと水に飛び込んだ。そして、抜き手を切って泳ぐ。王子が声をかける。

「いいぞー。その調子！　もうちょっと。２メートル、１メートル…」

そして、少女の手をつかんで、

「おめでとう！　到着――！」

と笑う。

しかし、そこからが大変だった。少女は

「怖い、怖い」

と言って王子にしがみつく。思わず王子は水の中に引きずり込まれそうになる。立ち泳ぎの足を必死でこぎながら、少女を抱いて、

「大丈夫だよ、大丈夫。おちついて。」

と、少女を落ち着かせようとする。

しかし、その間にも、何度か水を飲んだ。

王子は、

「ほら、顔を出したまま、平泳ぎで行こう」

そう言って少女の体を下から支える。自分は立ち泳ぎの足をフル回転しながら。少女の足の付け根と、膨らんだ胸が、王子の前腕に触れる。しかし、二人ともそれどころじゃない。王子はバタ足をしながら少女を支えて岸のほうへ向かう。

「ホラ、手を掻いて。もう少し。よし、大丈夫。もう足が着くよ。」

その王子の声で、少女は体を立てた。

「ふうーーー」

２人が同時に声を出す。そして、石の上に腰をおろして、無言で休む。石の暑さが気持ちいい。

しばらくして、どちらからともなく笑い出した。

「うっふっふっふ」

「あっはっはっは」

少女が言う。

「あー。怖かった。」

「何がそんなに？」

「だってあなたに近づいていくと、立ち泳ぎしているあなたの足が見えるのよ。」

「ぼくの足が、そんなに怖かった？」

「そうじゃないの。そのあなたの足から、底までがはっきり見えてね、水の」底が思ってた以上に深かったのよ。それに、底のほうは暗～くて…。」

それを思いだしてなのか、寒かったからか、少女は思わずブルブルっと身震いした。

「でも、クロールじょうずだったよ。」

王子が言うと、少女はにっこり笑って、

「上手じゃあないんだけど、でも、ちゃんとあなたのところまで進んだわよね。」

「うん。あれなら、壁までだって往復できるよ。」

少女は顔を上げて、さっき泳いだ場所を見る。

「ねえ。もし、私が壁まで往復したら、もうひとつ、プレゼントしてくれる？」

「よし、いいよ。」

「でもね、あなた、さっきみたいに壁のところにいてちょうだい。そして、私が行ったら抱っこしてね。そして、帰りは一緒に泳いで頂戴。」

「ああ、いいよ。じゃあ。レッツゴー」

二人は水際へ向かった。

「じゃあ、ぼくが先に行って待ってるからね。」

そういうと王子は、スイスイと壁際まで泳いでいった。振り返って手を振る。

「いいよーー！」

少女はゴーグルをはずして、王子のほうへ向って泳ぎだした。

さっきの地点を越えてまっすぐ進む。

「いいぞー！あと２メートル、あと１メートル。ハイゴール！」

王子は壁にもたれ、足は立ち泳ぎをしながら、少女の腰を抱いて抱え上げた。少女が楽に息をできるように。少女は、王子の肩にアゴを乗せながら、ハァハァ息をしながらも、ホッペタを王子にくっつけ、

「じゃ、帰るわよ。一緒に来てね。」

と言う。そして向きを変えて両足でコンクリートの壁を蹴って泳ぎだす。王子もその横を泳いでいく。足の着くところまで来て、王子は少女を触って合図した。少女も足をついて立った。

少女の呼吸が整った頃、王子は言った。

「上手だよ。アレなら、ぼくがいなくても独りで泳げるよ。」

少女はやっとニッコリして、言った。

「でもねえ、私、行きも帰りも目をつぶったままだったのよ。やっぱりあなたがいなくちゃムリだわ。　ああー。でも面白かった！！スリル満点ね。」

しばらくの間、今、自分が泳いだところを見ながら、先ほどのスリルを思い出していた少女は、振り返って言った。

「じゃ、帰る？」

王子は、高くなってきた太陽を見て言う。

「そうだね。ところで、プレゼントはなにがいいんだい？」

少女がものを欲しがらないことは分かっている。『帰りの荷物を全部持って』と言うのかな、と思っていると、少女の答えは予想外だった。

「私をお姫様抱っこして、荷物のところまで連れて行って頂戴。コンクリートの段を降りたところからでいいから。」

言われたとおりに、王子はコンクリートの段を降りたところで、少女の背中と脚に手を掛け少女を抱っこする。少女は嬉しそうに両手を王子の首に回して笑っている。そして、「ああ、楽ちん、楽ちん」

といいながら、時々王子の頭をなでる。王子はそれどころじゃない。石に躓かないように必死である。なんとか荷物置き場に来たときには、さすがの王子もハァハァ言っていた。

「ありがとう」と、少女は、自分の水筒のお茶を入れたカップを差し出す。

王子は、一気に飲み干した。

「ああ、うまい！」

「もういっぱい呑む？」

少女が王子からカップを受け取って、にっこりしながら訊く。

「うん、もういっぱい！」

２杯目も一気に飲み干して王子はようやく息をついた。

「もっと遊びたかったな。」

少女が言う。

「うん。でも、今週は控えめにしておかなくちゃね。」

王子の答えに少女はすぐに意味がわかって、

「そうね。じゃあ、来週また、連れてきてくれる？」

と明るく訊く。

「……」

王子の答えはない。王子は遠くの山のほうを見て、何か考えているようだ。

「ねえ。来週また、連れてきてくれる？」

少女は王子の手を握ってもう一度訊く。

「うん…。…それは、残り３つのお願いのうちのひとつかな？」

少女は、手を離して、

「…じゃないんだけど。…ダメ？」

急に元気がなくなった少女に、王子は、

「いや、来週だと待てないだろ？　今週中にまた来よう！」

と明るく言う。

「ほんと？」少女は飛び上がって「ありがとう！！」と喜んだ。

 

 

 

 

 

[５]

 

少女がワンピースを取って着ようとすると、王子が止めた。

「ちょっと待って。下着を持ってきてるだろ？やっぱり着替えた方がいいよ。」

少女はちょっとためらって、

「そりゃ、その方が気持ちいいけど、…」

といいながら四方を見回す。

「大丈夫。ここは人が来ることはめったにないからね。ぼくは絶対見ないから。」

王子が言うのを聞いて、しばらく考えた少女は、

「じゃあ、ね、私が上を着替えてるとき、バスタオルを広げて隠してくれる？」

と訊きかえす。

「うん。いいよ。」

二人は、川の端の木の下へ行った。王子がバスタオルを広げる。その向こうで少女は水着を上半身だけ脱ぎ、タオルで拭いてワンピースを着る。ワンピースのすそをおろしながら、水着を下へ下へと脱いでいく。少女がうつむいていくのにあわせて王子は、タオルの高さを調節して段々中腰になっていく。少女は、水着を全部脱いだとき、いきなりタオルの上から顔を出した。両手を広げてバスタオルを持ったまま、斜め横を向いて待っていた王子は、少女を見て、言う。

「もう着替えれたのかい？」

「うん、だいたい、ね。」

バスタオルをおろすと、スラリとしたいつものワンピース姿の少女が立っている。

「じゃあ、帰ろうか。」

と王子が言うと、少女が止める。

「あなたも着替えなさいよ。」

今度は王子がためらう。

「いや、いいよ。ぼくは上半身はぬれてないから。」

しかし、少女は言う。

「私もまだ全部着替えれてないのよ。」

「えっ？」

「あなたあっちで、向こうを向いて着替えて。私はここで、向こうを向いて着るから。お互い、着終わるまでは見ないこと。着替え終わったら呼んでね。」

少女は王子にウムを言わせない。王子は言われたままに、少女から離れていく。王子がだいぶ離れたところまで来て、振り返ると、王子が歩いていくのを見ていた少女は

「いいわよー。」

と言って両手でまるを作る。

王子は少女と反対方向を向き、バスタオルを腰に巻く。サーフパンツを脱いで股間を拭き、トランクスをはく。更にジャージズボンをはいてバスタオルを引っ張り出す。そして、Ｔシャツを着て、

「できたよー。」

と大声を送る。

「わたしもよー。」

と声が聞こえる。振り向くと少女が手を振っている。少女は別にさっきと変わってない。川を下りながら、

「ねえ、ぼくが着替えている間、キミは何を着替えていたんだい？」

と王子は訊くが、少女は

「バカ」

と言ったきり相手にしなかった。

 

少女の自転車をおいたところに着く。太陽の高さを見ると、まだ天頂には来てない。王子は、少女にスポーツドリンクを呑むのを促しながら、ナップサックの中から何かを出した。飲み終わった少女に、王子が

「はい、これを着てごらん。」

と差し出したのは、フワリと軽い薄い上着だった。少女はワンピースの上にそれを着る。

「どう?」

「軽いわね。」

「それはね、紫外線や赤外線を反射して、逆に汗や体熱は外に出すっていうすぐれものなんだよ。通気性もいいんだ。」

「ふーん。ほんとに、涼しいわ。ありがとう。」

「そうそう。もう一度、顔と足に日焼け止めのクリームを塗っとくといいよ。」

こうやって、帰りの準備も周到にやるのだった。少女は王子に感心した。日焼け止めを塗りながら訊いた。

「あなたは塗らないの？」

「うん。ぼくは塗ったことないよ。それは、キミ用だよ。」

「まあ。私のために用意してくれたの？…ありがとう。」

「次に、外出するときにも使うんだよ。だからこれは、キミが持っていて。」

クリームの入れ物を王子に返そうとすると、王子はそう言って自転車に乗った。少女も、それをナップサックに入れて自転車に乗る。

下り道を風を切って走る。王子が先に。少女が追いかける。

体はまだ川の冷たさを残しており、そこに照りつける太陽の暖かさが気持ちいいくらいだ。風が体全体をすり抜けていく。

 

少女がしばらく開放感を味わいながら、自転車を走らせると、交差点で王子が自転車を止めて待っていた。

「じゃあ、また、朝と同じように行こう。５０メートルくらい間を空けてね。それを着てるから大丈夫だと思うんだけど、暑くなったり、のどが渇いたりしたら、ぼくを呼び止めてね。来るときよりも休憩をたくさん取るよ。」

 

こうして二人は帰路についた。

王子が貸してくれた服の効果は抜群だった。自転車に乗って走っていると、風がよく通り抜けて暑くない。体温や汗も放出されるのだろう。しかし、上りはさすがにしんどい。とくに、長い上り坂は

一歩一歩自転車を押しながら歩いた。しかし、その前後で必ず王子が止まって待っていてくれて、何らかの対処をしてくれるのだった。水分補給はもちろん、朝凍らしてきたペットボトルの水をお互いに飲んだ後、残りを頭に掛けてくれたり、保温パックに入れてきた保冷剤を首の後ろにタオルでまいてくれたり。

 

ゆっくり休憩時間を取りながら帰ってきたので、少女の家に着いたのは、午後１時過ぎだった。

 

 

少女と王子は家の窓を開ける。北からサーーッと、涼しい海風が、家の中を吹き抜けていく。少女は、冷蔵庫からトマトとキュウリを出してきて言った。

「あなたが水をやって育ててくれた野菜よ。」

王子は、少女がトマトを包丁で切ろうとすると、それを止めて、丸かじりした。そして、

「うまい！！！　うまいーーーー！！！」

少女にも丸かじりするよう勧める。少女も丸いトマトに歯を立てる。

甘い！！　去年作ったトマトよりももっと甘い。

「本当においしいわ。甘いのね。」

「完熟トマトだね。毎日二人で世話をしたから、その分おいしくなったんだよ。」

 

その後二人は、キュウリに塩をつけながら、これもそのまま、ポリッ！ポリッ！と食べていく。

「ああーー！おいしかったね。」

「ええ。おいしかったわねーー。」

二人はゴロリと横になった。

北の窓から入ってくる風に心地よくなってくる。王子の脳裏に、パッ、パッ、と、木々の緑、谷川の冷たい水、そして少女の透き通った声とまぶしい姿がフラッシュする。体から、すーーっと力が抜けていく。ふと気がつくと、隣から少女のすーっすーっという寝息が聞こえてきた。王子も、眠りに落ちかけるまどろみの中にいた。

『今日は月曜日。あと、火、水。木、金…。今日は、…月曜日…！』

はっと王子は目を開ける。

『月曜日は図書館は休みだ。まずい。』

王子は少女を起こさないように、静かに荷物をまとめ、玄関の戸を閉めて、外に出た。

 [家に帰って、早朝トレーニングの後、公園の木陰で休んで、図書館に言ったら休みだったので、仕方ないから今日は泳ぎに行った]

というストーリーに修正しておく必要がある。

 

王子は２時ごろ家に帰り着き、母親にさっきのストーリーを伝えて、昼寝した。

 

 

 

 

 

 

 

〔６〕

 

王子が目を覚ましたのは夕方の５時だった。

「走ってくる」

と言って、家を飛び出した。今度は自転車を使わずに、東方向へ向いて走る。王子のランニングコースは何種類かある。

少女の家にはお墓の方から来た。そして、２メートルほどの石垣をやっと飛び降りると、誰にも見られずに少女の家に来ることができるのだ。炊事場で炊事の音がしている王子がその前を通ると、カチッとガスを切る音がした。そして王子が家の角を曲がるよりも早く少女が飛び出してきた。

 

少女は王子に抱きつかんばかりの勢いでやってきて、王子の左腕を両手で持つ。

 

「楽しかったわねえ！」

少女の目はキラキラしている。

「ああーー。本当に楽しかったわ。私、あんなの初めてよ！」

王子もニコニコしながら少女を見る。

王子は思った。

「不思議だ。」

昼間と同じ少女だ。水着を着て自然とひとつになって遊んでいたあの少女だ。一緒に遊んだ、あの少女だ。しかし、あのときは、少女が水着を着ているにもかかわらず、女性としてはあまり意識しなかった。だから、少女が着替えているときも、すぐ目の前でバスタオルを広げて何も考えずに待っていることができた。

しかし、今は違うのだ。ワンピースを着てエプロンをつけて、ついさっきまで炊事をしていた少女。その少女が目をキラキラさせて、いる。王子は思わずどきりとした。その美しさに。

少女は、（中１だから当然だが）化粧もしない。髪は母親にはさみで刈ってもらっている。そのよく似合うワンピースの服でさえ、２年前にバーゲンで買ったものゆえ、昨年ブカブカだったという経験から今も自分には似合わないのだと思い込んでいた。「そうじゃない。キミにはそのワンピースがとっても似合っているんだよ。」と王子が必死で言って、初めて信じてもらえた。それまでは、そのワンピースについては少女は劣等感を持っていた。２枚のワンピースを、今は一日置きに来ている。きっと、王子が、ワンピースを着た少女の姿を好きなのが分かったからであろう。

ほかには飾りも何もない。

――　質素。

そう。質素で素朴で簡素そのものなのである。

その少女が、ワンピースを着てエプロンをつけると、大人っぽく見える。しかし、その目の中には、昼間の天真爛漫な子供そのもののの輝きがある。

 

『美しい…』と王子は、思った。これまでにもそう感じたことはあったに違いない。しかし、これまでは、かわいらしさであり、無邪気さであり、きれいさであり、感じのよさであり、いとおしさであり、いじらしさであり、愛くるしさであり、…、その瞬間瞬間に少女が見せる仕草や表情に、１０通り、１００通りの異なる印象を持っていた。

それら全ての印象の断片が、今、王子の心の中で、ひとつに統合されていったのだ。

『美しい』

王子は、これまで、どうしても、分からないことがあった。

もう差別ゆるさんど行進への抗議行動の準備もほとんどできている。

少女を○○川へ安全に連れて行くのに、あれだけ細心の準備もできる。

そんな王子がどうしても決められないものがあったのだ。しかもそれは、あまり時間的猶予が許されてない。

いつ？

どっちにする？

どう言う？

 

差別ゆるさんど行進への抗議行動の準備をしながらも、少女を○○川へ安全に連れて行くための準備をしながらも、王子の心の中心に、その問いかけが常にあった。

 

『分かった！　分かった！　』

王子はこのとき初めて分かったのである。ずっと自分自身に問いかけてきたことのその答えが。

 

「……でしょ。ね！？」

王子は現実に返る。そんな長い時間ではなかったが、表面は少女に応対しながら、心の中で上のような想いが動いていた。だから、少女が言った内容が分からない。

「えっ…？」

と王子は訊きかえす。

少女は改めて王子の顔を見る。

王子の表情はさっきとちっとも変わらない。ずっと、少女を見つめたまま微笑んでいる。

少女は安心して、

「あした、またあの川に行けるでしょ。ね！？」

と繰り返していった。

 

現実に返った王子は、微笑を浮かべたまま、ゆっくり言った。

「今日の疲れがどれくらい出るか見てからのほうがいいよ。今決めなくても、明日の朝になってから決めてもいいだろ。」

少女は納得して、

「そうね。そうだわ。私、筋肉痛になるかも知れないし…。そうしましょ。でも、明日がだめなら、あさってよ。」

王子は、笑いながら

「うん。そうしよう。」

そう言った。

 

畑の水遣りと草引き、害虫退治が終わると、その日熟れているトマトとキュウリを二人で採っていく。王子が、真っ赤に熟れたトマトを見てつばを飲み込むと、少女は言った。

「食べてもいいわよ。」

王子はにっこり笑って。トマトを両手でこすって拭いてがぶりとかじりつく。

「どう？」

「うまい…」

トマトをほおばりながら、答える王子。あっと言う間に、トマトは１個、王子の胃袋に入っていた。

少女の持っている籠に入っているトマトを眺めていると、

「今日はもうだめよ。後はお母さんにあげなきゃ。」

という。言いながらも、もう１個とって王子に渡した。

「これ私の分、今日のお礼に上げるわ。」

「ありがとう。」

王子がまたかぶりついていると、少女が言った。

「ホラ見て。まだ青い小さなのがいっぱいあるでしょ。今年の夏は、きっと大収穫だわ。そのうち８月に入ったら、毎日１０個くらい食べれるかもよ。」

と王子を見て、おかしそうに言う。

王子は一瞬口の動きが止まる。

「どうしたの？」

「…あ、いや、骨がのどに詰まって…」

「バカ」

パチ～ンと王子の頭を叩いて、少女は歩きだす。

「これ、炊事場に持って言ってくるわね。」

「あ。ちょっと待って。」

トマトを飲み込んだ王子が言った。王子は口の周りを拭きながら、振り返る少女の方へ走っていく。

 

「なーに？」

笑顔で王子を見上げる少女。

王子は口を開いた。

「あのね。」

「うん？」

「あのね、その、ぼくのお願いを聞いて欲しいんだ。」

少女は、何も感じなければ、『もうひとつトマトをくれって言うんでしょ』と茶化すところだったろう。

しかし、何かを感じた。笑顔を残しつつ、まじめに訊きかえす。

「なあに？」

その少女の態度の変化に、王子は、安心した。

「その、…ぼくのお願いと言うのはね、君と一緒に月を見たいんだ。」

すこし、ぽかんとした少女は、クスクス笑いながら、

「お願いと言うからもっと大変なことかと思ったら…。いいわよ。で、いつ？」

王子はすかさず言う。

「今夜。」

「今夜？」

「そう、今夜。…あのね、昨夜か一昨夜が満月だったんだ。今夜は少し欠け始めている。そしてね、登り始める時刻が段々遅くなっていくんだ。」

「今夜、何時ごろ？」

「１０時ころがいいと思う。」

「１０時か。」

少し考え込む少女を見て、

「ムリかな」

と王子はポツリと言う。

「ううん。大丈夫よ。お母さんが９時頃寝るからね、寝入ってしまってからなら、大丈夫。もし、お母さんが寝入るのが遅くなるようなら、ちょっと遅れるかもしれない。そのときは待っててくれる？」

「ありがとう。場所は、この上のお墓。大丈夫だよね。」

「ええ。私の思い出の場所ですもん。あなたこそ、怖くない？」

「ぼくにとっても、思い出の場所だからね。」

二人は歩き始める。

「ただし、隠れてて『ワァー！』なんて脅かしたらダメよ。」

「大丈夫。それと、お母さんに秘密にする必要はないからね。」

「ええ。分かってる。お母さんもあなたを信頼してる。」

炊事場に曲がる家の角のところに来た。王子が言う。

「じゃあ、ここで。それともうひとつお願いがあるんだよ。」

「うん。なあに？」

「そのワンピースか、もしそれを洗濯するんならもうひとつ別のワンピースで来てくれるかな？」

「うん。わかったわ。」

「じゃあ。」

王子は石垣をするりと登って、お墓の方へ消えていった。

少女は頬を少し染めて、王子が去った後をしばらく見つめていた。

 

 

 

〔７〕

 

家に向かって走りながら、王子は、初めてスッキリした感覚をもっていた。今までずっと心の奥で葛藤していた難問に対する答えが見えたからだった。しかし、それは痛みを伴う感覚だった。

『今夜』

走りながら王子は考える。

『今夜、彼女に言うんだ。そう。今夜だ。』

 

家に帰り着くとシャワーを浴びて夕食を食べ、海辺へ行って今まさに沈まんとする夕日を眺めた。２つの夕日が互いに近づき、ダルマになる。雲のオレンジ色がだんだん朱に染まりついには真っ赤になる。波止場は一面赤色だ。ずっと向こうの大王製紙の煙突も半分から上は赤く染まっている。そして、見る見るダルマの頭と胴体が重なって行って、ついに夕日は瀬戸内の水平線に消える。

 

王子は、朝日が昇るときと夕日が沈むときのこの色彩の変化が好きで、これまで何度もここへ来たものだ。

７時半を過ぎてもまだ暗くはない。王子はじっと夕焼けを見つめている。夕焼けが次第に赤色を失って、やがて空の紺色の方が強くなる。波止場に明かりが灯る。王子は家に入った。

 

 

王子は走るのが好きだった。これまでも、朝・昼・夜、関係なく、走りたくなると、家を飛び出しては走ってくるのだった。

その夜も、９時を過ぎて裏口から家を出る。最短コースを通って、少女の家に行く。家の前を通り過ぎ、まっすぐお墓に行く。シューーッと防虫剤を体一面に吹き付けた。鼻をつまんで顔や頭にも。

 

少女の家の西の部屋の電気が消える。そこは少女の母親が寝室に使っている。

王子は東の山を見た。ちょうど月が上り始めたところだった。東というよりは、正確には南東というべきだろう。まだお墓は暗い。

 

月を見ながら、頭の中を整理していた。

けれども、ゆるさんど行進に対抗する策やその準備を考えたり、少女と○○川へ泳ぎに行く準備を考えたりするようには、明晰に頭が働かない。何度も何度も同じところを堂々巡りしている。

 

そこへ、後ろから足音が聞こえた。

もう少女の顔がぼんやりと分かるくらいに月が昇っている。

黙って王子は少女に手を差し出す。少女はその手を握る。二人で月夜のお墓のデートコースを歩く。黙ったまま。

石垣の南に来たところで、王子が小さな声で、

「ここに座ろうか」

といい、ポケットから折りたたみシートを出して広げた。そして、

「そうそう、これ、かけとこう」

と言って少女の腕や脚に防虫剤を噴霧する。目を閉じ鼻をつまませて顔と頭、そして最後に全身に。

「後で、シャワーで流すんだよ。」

と王子は言う。少女はうなずく。

月が次第に高度を上げていく。満月を２日ほど過ぎた、右側の少し欠けた月だった。しかし、十分に明るい。背もたれている石垣に、王子と少女の影がうつるほどに。

 

二人は、無言だった。王子が右に、少女は左に座って、肩をあわせている。王子が少女の脚の上においた手をそっと触る。少女はその手を裏返す。王子はその上に自分の手を重ねる。

 

南からの風が、時折強く吹いた。

少女はそのたびに、両手でワンピースのすそを押さえる。

しかし、少しひんやりとした山風は気持ちがいい。

 

二人はずっと無言だった。

少女が動いた。頭を右に傾け、王子の肩の上に載せる。

王子も動いた。右手を少女の頭に伸ばし、少女の髪を梳く。

 

月がいよいよ真南に近づいてくる。もう、周囲の墓石の影がくっきりと地面に輪郭を現すほどに、明るくなった。

少女が口を開いた。

「きれいね…。」

「うん。ホントに…。きれいだ…。」

少女は頭を上げて王子の方に顔を向ける。そして言う。

「私に話があるんでしょ。」

王子は、月を見たまま返事をする。

「ああ。」

しかし、そのまま、無言のときが流れる。数十秒後、王子がゆっくりと少女の方に顔を向ける。

自分を見つめている少女の顔。その目は、笑っていないし、もううっとりとしてもいない。覚悟、…そうだ、覚悟の座った目とでも言えばいいのだろうか。

王子は、少女の目を見て、悟った。

『ああ。やっぱり、この子はわかっていたんだ。気がついていたんだ。』

 

 

 

さて、我々は、少し、二人から離れることにしよう。ここは、本当に二人だけにしてあげよう。せめて声が聞こえないところまで離れよう。

 

月の光は煌々と墓地を照らしている。月の光は煌々と土居町をを照らしている。

 

王子が少女に何か話している。少女が体を王子のほうへ向け、両手を王子の手の上に重ねて、何かを言う。王子は、首を横に振る。また、少女が、王子に何か言う。王子は、首を横に振る。王子も体を少女の方へ向け左手を抜いて少女の両手の上に乗せる。そして何か言う。少女はうつむく。王子もうつむく。

 

月はちょうど真南に昇った。二人の影が石垣にくっきりと描かれている。少女の影が先に立ち上がった。両手を顔に当てている。王子の影も立ち上がった。王子の影は動かない。

 

 

 

もういいだろう。我々は、始めの位置に戻ることにしよう。

少女は、声を殺して泣いていた。王子は、こぶしを握ってうつむいていた。

何分経っただろうか。少女は両手で涙をぬぐい、そして、王子に近づいて王子の両手を取る。まだすすり泣いていたが、何とか抑えようとしている。

 

そして、ようやくしゃべれるようになった少女は、言った。

「私のお願いを４つ聞いてくれるって言ってたわね。」

王子は、顔を上げて少女を見る。王子の顔も涙と鼻水でぬれていた。そのままの顔を少女に見せたくはなかった。でも、少女が両手を持っているので拭けないのだ。

まだ、涙で光る少女が、泣き声を押しつぶしたかのように言う。

「残りの、……３つを、……今、全部、…聞いてくれる？」

王子は少女の目を見て答えた。

「うん。」

少女は、もう一歩王子に近づいた。それは、体と体が触れ合うか触れ合わないかというぎりぎりのところだった。もはやお互いの顔は見えない。

少女は、王子の右の肩のあたりに顔を持って行き、言った。

「１つ。キスをして。

「２つ。結婚して。

「３つ。ずっと…一緒に…いて。」

そう言いながら、また、声を殺して泣き出した。

王子は、じっと動かなかった。いや動けなかった。

しかし、ようやく、少女の両手から自分の両手を抜いて、逆に少女の両手を握った。少女を抱きしめたいと、どれだけ思ったことだろう。少女の背中をさすってあげたいと、どれだけ思ったことだろう。少女の涙を拭いてあげたいと、どれだけ思ったことだろう。少女が父親のことを思い出して泣いているとき、自分は少女を抱きしめたではないか。

しかし、今、それはできないのだった。

少女も分かっているから、王子の胸に飛び込みたい想いを必死で抑えているのだった。

体と体が触れ合うか触れ合わないかというぎりぎりの位置で、二人はずっと佇んでいた。

月が西に傾いて二人の影が長くなり始めた頃、ようやく少女は落ち着いた。

王子は両手を離し少女の頭をやさしく両手で包んで、その額に唇をつけた。想いをこめてずっとそのまま動かず。少女が少し動いたとき、唇を離す。

少女が王子の両肩に手を載せて体重をかける。王子はしゃがむ。少女もしゃがむ。今度は少女が王子の額に唇をつける。少女もまた、想いをこめてずっとそのまま動かず。王子は、額に全神経を集中して、その唇の温かさとやわらかさを、感じる。そして、その感覚の奥にある少女の気持ちを、感じる。感じすぎるほど感じる。

　　…………

 

　第５章　終わり　　　　　　　　目次に戻る