第6章

 

〔1〕

 

月曜日の夜、王子が少女に全てを話したことは、お互いに大きな大きな痛みを伴うことではあったが、結果としては、いちばんよかったのだと、二人ともが、思った。

王子はその日の夕方になるまで、迷っていた。と言うよりも、どうすべきかがまったく分からなかった。少女に一切話さないか、それとも、決戦の日の前日話すか?…しかし、それでは決戦の日に、少女の動揺を残してしまうのではないか?

そして、その迷いを、王子は隠していたつもりではあったが、王子との会話の中で、少女は微妙に感じていたのである。

二人の間に開いている黒い穴。二人は、意識してそれを避けるようにしていた。

もしも、王子が、少女に話さなかったとしたら、今は小さなこの穴が、数日後には少女を呑み込んでしまっていただろう。

少女もつらかったが(そしてそのことを考えると今もつらいが)、あの夜、王子と別れた後、寝床の中で考えた。他に何とかできないのかと。考えが見つからぬまま、いつの間にか少女は眠りに落ちていた。

翌朝目が覚めた少女は、スッキリしていた。昨夜のショックよりも、王子が自分を信頼して、自分を大切に思ってくれて、それだからこそ話してくれたのだという想いが、胸の底からわきあがってくるのだった。

二人の間に開いていた黒い穴は、いまや完全に消滅してしまった。

 

一方、王子は?

王子も、少女と一緒にいる時間は、耐え難い痛みに胸をえぐられそうだった。つらかった。目の前で悲しむ少女に何もできない自分が、苦しかった。

しかし、少女と別れて家に帰りながら、もうこれで、後戻りはないということがはっきりした。『もしかしたら』と思うことが王子には時にあった。『事態が変わってくれたら、この決断はご破算にできるかもしれない』

けれども、その甘さは吹き飛んだ。もうこれで、後戻りはない。

今まで時々ゆれていた独楽が、ピタリと軸のゆれを止めたのである。静止しているかのごとき独楽。しかし、何かが当たれば、勢いよく弾き飛ばす独楽。王子は、そんな気持ちになっていた。

 

翌朝、水遣りに行ったとき、少女は、昨日の昼間と同じワンピースを着て出てきた。

「おはよう!」

あかるく少女は言った。王子の心配を吹き飛ばしてくれるほど。

「うん。おはよう。夕べはよく眠れた?」

王子が訊く。

「ううん。あんまり。あなたのことを考えていたら、なかなか寝付けなかったわ。」

少女は隠さず、そのままを言う。

「ごめんね。」

これは王子の、心からのお詫びの言葉だった。

「ううん。それよりも、ありがとう。全部話してくれて。」

昨夜は月の明かりの中で、お互い涙でぐしょぐしょになった顔で見詰め合っていた。

今は、それまでと同じ、明るいやさしい笑顔で見詰め合っている。

でも、二人の間の関係は確実に変わった。二人の絆は、確実に深くつながった。

 

少女が一番熟したトマトを探して、それをもいで、王子に渡す。

「ハイ!おいしいわよ。」

そして自分もひとつもいで、王子と一緒に食べた。

 

瀬戸内海の景色を見ながら、王子は少女に訊く。

「どうする?今日また泳ぎに行くかい?」

少女は答える。

「ううん。あなたが言っていたとおり、疲れちゃって、今日はムリだわ。今日は、一緒におうちにいてくれない?」

「うん。いいよ。」

少女はほっとしたように

「ありがとう。」

と言った。王子はその様子を見て訊く。

「火、水、木、金、あと4日だね。大丈夫?」

少女は少し考えて王子に訊く。

「結局、やろうがやるまいが結果がどうなろうが、あなたの意志は変わらないのよね。」

「うん。」

そのはっきりとした答えに、少女は

「私も意志を貫くわ」

そう、きっぱりと答えた。

 

 

さて、ここからの4日間については、我々は立ち入らずに、二人だけの生活を十分に楽しませてあげたいと思う。

先に結果を述べれば、二人はこの4日間をじゅうぶんに満喫したのであった。「写真が欲しい」という少女の声で、王子はポケットカメラを2つ買い、いろいろな思い出の場所でお互いの姿を撮った。あの少女が再度行きたがっていた○○川へも、また行くことができた。そして、二人が始めて出会った機滝へも(これは王子の提案だった)

二人で登った。

4日間の一日一日が、二人にとってかけがえのない大切な日々であった。1分1秒が大切な時間であった。

そして、みなさんにひとつ知っておいて欲しいことは、あの月を一緒に見た夜以来、二人は、手はつなぎこそすれ、それ以上の体の接触は一切しなかったのである。何か気まずさがあったというのでもなく、約束をしたのでもない。むしろ、時として抱きしめたい、胸の中に飛び込みたい、という強烈な想いが、それぞれの胸のうちに突き上げてくることがあったが、それぞれがひそかに我慢したのだった。

こうして、大切な大切な4日間が過ぎていった。

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                   []

 

その年2008年は、土居大帝国が、長年の野望を行動に移すべき年であった。すなわち、数年前の四国中央市合併に伴い、人対協の土居支部の一部強行派が築き上げてきた帝国を、四国中央市全体に広げて、そこに関西支配の礎を築くことだった。

そのために周到に準備をしてきた。

この強行過激派は、「部落差別」と「顕現教育」という言葉を前面に出して、「部落」と「部落外」の線引きをし、「部落外」からの差別に対して敢然と闘うということを、活動の中心的柱にすえていた。

したがって、「部落差別」が差別の中でも最たるもので、それに比べれば、他の差別は差別の範疇に入らない。このように彼らは理論を組み立てる。そして、「部落」が「部落外」を完全に支配したとき、「部落差別」は解消する、という理論体系が何十年と年を重ねる中で、土居町の《常識》となっていた。

彼らの活動は、年々過激さを増し、自分たちの意に沿わぬ者に対しては、徹底的に弾圧を加えた。

 

ここで断っておきたいのは、人対協土居支部全てのメンバーがその方針に一致団結していたわけではないということである。いわゆる穏健派といわれる人たちもいた。その人たちは、何十年も前、部落差別によって子供が苦しんでいる姿を見て、絶対にこの差別はなくさなければならないと純粋な気持ちを持って活動し始めた人たちである。「他人の痛みは我が痛み。」したがって、その人たちは、「部落」と「部落外」の線引きは重要視しない。むしろ、「部落」を作っているのは社会の人々であり、本当は「部落」などない!みんな同じ人間だ!と強く思っている。しかし、30年前、社会の人々の中に「部落差別」がまだ多く残っている時点においては、その中で差別に負けずに生きていくためには「顕現教育」が必要だと考えた。その考えは正しい。うつ病で見てみれば、今の日本では、始めは誰もが「自分がうつ病だ」と言うことを隠したがる。うつ病に対する偏見があるからだ。しかし、それを自分で公表できるようになって初めて、好転に向かえるようになる。それは、弱かった自分自身の差別心を乗り越えてゆく歩みである。本来、自分自身と向き合わなければならないのだ。

 

しかし、人対協土居支部の強硬派が実権を握ってしまった。そして、「部落」が「部落外」を完全に支配するためには手段を選ばない、という超強硬路線を推し進めるにいたったのである。このような先頭に立つべき人物は、口が立つことと狡賢く頭が働くことが必要とされる。その人物は、土居町と言う閉鎖されたひとつの町の中で、支配体制を作り上げていった。

 

ヨーロッパの戦争を見ても分かるが戦勝国は領土とした国民の公用言語を変える。第1に学校が変わるのである。母国語が敵国語に変わるのである。こうやって、子供を教育の名の下で自国の文化に染め上げていくことによって、文化を変えていくのである。

 

人対協土居支部の強硬派はそこに力を入れた。「同和教育」の名の元に自分たちの強硬理論を子供たちに教育していった。また地域懇談会をも闘いの場とし、逆らうものは容赦なく糾弾会にかけて血祭りにした。

恐怖による支配体制である。

共産党が過去にこれに闘いを挑み、その成果として悪名高き糾弾会はなくなった。

 

しかし、このような強硬体制は、住民の反発を最も恐れる。人数的にはわずかな者たちで支配するわけであるから、巧妙な手段が必要である。

このころ、人対協土居支部の強硬派、初代のリーダーは隣保館の館長に納まるようになる。つまり表には出ず、裏から操るのである。

 

彼の手は、学校現場に入る。学校の管理職を従わせることである。

そして、そのためには、市教委にも介入してその実権を握ることが必要である。

市会議員も自分たちの強硬派閥から出す。その市会議員に議会で雄弁を振るわせる。「こういう悲惨な部落差別を受けてきた。今も残っている。行政は何をやっているんだ!!?」と。

糾弾会の記憶のある世代は、それに対して反対意見を述べることは避ける。

 

こうして、簡単に市教委に介入し、隣保館土居支部で裏の大ボスが立てた戦略は人対協土居支部の強硬派連中によって、次々と実行されていく。最も効果的なのは、「同和教育何々の会」を開き、教育長、各学校の校長の参加を、教育長名で出させることである。

教育長名で参加せよと文書が来れば、各学校では、行事予定に「校長出張」と記入される。必然的に全校長が、大ボスの下に集められるわけである。そこで大ボスが演説をする。これだけで、教育界支配システムはほぼ完成である。

 

あとは、人事である。ここにも巧妙に介入し、自分たちの強硬派理論に従う教師を、土居中に10年でも20年でも置いてとどめ、意を唱える教師は排除する。自分たちの強硬派理論に従う教師(今後『手下教師』と呼ぼう)が、結束して嫌がらせをするのである。

土居中では、もう10年前から、こうして心身を壊して追いやられる教師が毎年出ていたのであった。

このような、自分たちの強硬派理論に従う教師が、ようやく管理職に育ってきたこの近年、管理職という権限を使って、より強力な嫌がらせをするようになった。教師のみならず、目をつけた生徒に対しても、同じ方法で、孤立化させ排除するという方法が、現在の土居中の上等手段である。

 

また、保護者の支配については、子供を利用する。部落差別に対する親の意見を聞いてくるように宿題を出し、子供は素直に聞く。そこで親が、彼らの強硬派理論に反することを言おうものなら、手下の学級担任が即、動き出す(経験のない担任には『先輩の手下』が指示を出す)。その生徒の日記を学級通信に載せるのである。うまい具合に洗脳されている中学生は、それに対するお決まりの感想を書く。担任がいつも言っていたとおりに。

「親がそんなことを言うなんて許せません。」

「次の参観日に来てもらって、見てもらいましょう。」

「私たちが説得するのを助けます。」

こんなのが紙面一面に載るわけだ。当の子供が持って返って親に見せ、親はビックリ仰天。参観日に行かざるを得なくなる。その後参観日の感想が、また学級通信を飾る。

「私の親が来てくれました。みんな、ありがとう。」

 

さて、この出来事は、親に対するけん制(次にまた変なこと言よったらゆるさんど)のみならず、大きな大きな広報活動に引き継がれていく。すなわち、学校が開きに集まって行う「同和教育研究会」での研究発表である。これを自慢たらしく、発表し、「それは間違っている」という教師がたまにいても、数名の手下教師が強引にその教師を叩き潰す。

こうして、「土居中はすごい同和教育をやっている」と『宣伝』するのである。

 

 

四国中央市合併前から、それまで築き上げてきた支配体制を総動員して、大ボスは、次の戦略を練っていた。

合併の数年前から手下議員に、議会でどんどんしゃべらせ、議会を威圧しておく。そして、合併。三島、川之江と土居は同和教育において方針が違う。ここで、土居がイニシアチブを取らなければならない。そのために、全同教を利用すること。土居中が引き受け、全国の教師をうならせて、実績を上げるのだ。そうすれば、三島と川之江は何も言えまい。そして、一気に四国中央市全体の支配体制ができる。

 

「ふっふっふっふっふ」

大ボスは笑いが止まらない。

 

ところがそんな中で、突然大ボスがひっくりかえるほどビックリしたことが起こった。2008年1月まごころ教育の出現である。

大ボスは市教委に潜入させてあるスパイを使って、指令を送る。

「絶対に、あのサイトは消せ!!!!!」

しかし、すぐに消えはしたものの、2月に再び出現。それからは手の施しようがなかった。

自分たちの悪事が暴かれている。学校は、「あれはすべてウソだ」と強引にフタを占めてマンホールの中に閉じ込めようとする。しかし、生徒たちは目覚めてしまった。

 

実際に、教師集団内でイジメられていると当人の声を上げた3年生が立ち上がる。2年生も、掲示板に書き込むという形で抗議する。

学校は、見境なく、入試前の生徒を毎日残して取り調べし、1,2年生に対しては「掲示板を告訴した」と言って脅し、卒業式の翌日保護者には、まやかし保護者会を開いてやはりフタをして終わらせようとするのである。

 

しかし、一度開いたパンドラの箱は、もはやふたを閉じようとしても閉じないのである。

最初の告訴が受理されなかったので、大ボスは教育長に圧力を掛け捲り、ついに任期の切れる直前に教育長名で、再び掲示板を告訴する。

また、A教諭に対する被害届を提出し、その際、前学校長は『虚偽の事故報告書』を委員会に出していたのであった。

 

1学期も終わりに近い頃、住民が驚く出来事が起こる。

その『虚偽の事故報告書』の実物と、ウソの追及がなされた文書が土居町全戸の住民に配られたのである。共産党の見事な活動だった。共産党の3議員は、土居中へ乗り込んでも、ウソの追及をしている。三島や川之江の住民はインターネットの掲示板でそれを知る。

市民みなが共産党に拍手を送った。

 

また、少し戻るが、土居中では、生徒たちが生徒総会で蜂起した。

自分たちの意見を堂々と言った。ゆるさんど行進に対する反対意見も出た。学校行事をなぜ同和教育一色で埋め潰すのかという意見も出た。

生徒たち(特に3年生)は、すでに、土居中の洗脳から解けている。

2月も土居中は、生徒をコントロールしきれないと見て、人権集会を中止にした。7月も土居中は、生徒をコントロールしきれないと見て、人権集会を中止にした。

 

インターネット掲示板でも、ゆるさんど行進を強行しようとすることに対して、反対意見が相次いでいる。

 

保護者も立ち上がろうとしている。

 

300年の太平の江戸の世が黒船によって揺らいだように、30年の土居帝国の太平の世は、まごころ教育と共産党によって揺らいでいる。

 

坂本竜馬や勝海舟やその他すぐれた勇士たちの手によってなされた明治維新という大改革。

 

現在の土居帝国にも、洗脳から解けた土居中生勇士や、行動を起こそうとしている保護者や、インターネットで情報や考えを公表しあう勇士たちが多くいる。

 

平成土居維新は成るのであろうか?

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                 〔3〕

 

さて、土居帝国が力を入れている一大イベントが15年前から始まった『差別ゆるさんど行進』なのであた。

15年前には、純粋に、差別と闘おうとする数名の人が自主的にやったのだ。

 

土居帝国は目をつける。

「これは利用できる」

と。

 

これを子分(生徒)を総動員してやるのだ。100人以上の大人数で「差別ゆらさんど!」とシュプレヒコールを上げながら、土居町中を行進して歩けば、祭りの太鼓台以上に目立つだろう。

 

それは、町民を威嚇する。

「お前ら、部落を差別しよったらゆるさんど!」と

 

さらにもうひとつ、こうして歩くことで、この行進が歩いて回った土居町は、土居帝国の支配下にあることを、意識させるのである。

すなわち、なわばりの明確化であった。

 

 

王子は、正月に、ある情報を手に入れていた。

それは、

「今年は、『ゆるさんど行進』の参加者を大増員して、行進のコースを何コースか増やそう。」

というものであった。

 

全同協を成功させたと自画自賛している、帝国のボスを含め手下たちは、拡大の野望を持っていた。

それぞれが野望を持っていた。校長は教育長を狙い、教頭は校長を狙い、教務主任は土居中で教頭になることを狙い…学級担任は更に強い生徒への支配力を狙い…。

(ただし弱い立場の教師は、目を付けられるのを恐れ、それなりに合わしてやっている。そして、そんな中で敢然と闘っている教師もいる!)

 

王子の手に入れた情報では、

『ゆるさんど行進』の案内状を市内の全学校に配り、参加者の増員を図る。そしてコースを4つにする。1つは川之江または三島を出発して合流し、土居へ向かうコース。後の3つは土居町内を東西南と3つに分け、今まで以上に隈なく土居町全土を歩きつくす各コース。

それぞれ100名以上を見込み、最後に土居支所に集合する、というものだった。

それぞれの具体的な道程と予想時刻も手に入れていた。

 

これが成功すれば、今までどおり土居町の支配をより強固なものにし、それを土台にして、四国中央市全体を配下に置けるようになる。人対協三島と川之江は土居に従わざるを得なくなるだろう。

帝国のボスは笑いが止まらない。

 

 

ところが、前述したような状況が2008年1月以来続いてきたので、帝国側は人数集めに十分な圧力を掛けられなかった。

参加人数が、考えていたよりも少ない。更にインターネットで呼びかけられて、当日欠席することも考えられる。帝国が示威行為を見せ付けるためには100人単位の人数が必要なのであった。

 

コースを分けずに従来どおり、ひとつの部隊で行進するようにするか、それとも、何とかして人数の増強を図るか。

第15回「差別ゆるさんど行進」のご案内のプリントには、前年入っていた「行進行程」が記入されていない。

これは、そのような理由から、明記できなかったからである。

生徒総会で、ゆるさんど行進に対する反対意見が出て拍手が起こったことも、大きな不安材料だったのだ。

 

今、土居帝国はゆれている。どっちにするか?

従来どおり、ひとつの部隊で行進するようにするか?

 

ところで、これは王子にとっては、都合の悪いことだった。プラカードをもって立つその位置をどこにするか、が決まらないからである。しかし、王子は、あの日、直感で決めた。

「おそらく人数は集まらまい。ならば、従来どおりひとつの部隊での行進になるだろう。」

それで、立つ場所を決めた。

人通りの多いところがよい。しかし、2車線にわかれておらず、まっすぐな道。更に…。

 

炎天下が続く。ちょっと曇ったかと思えば室内の湿度は70%を超えている。じっとしていてもムシムシする。

太陽が顔を出せば、直接体に当たる紫外線以外にアスファルトを反射してくる熱線によって、汗がダラダラ出る。

水分補給を忘れれば危ない。汗を掻きにくい人は危ない。それぞれが、自分の体に合わせた熱中症対策をしなければ成らない。

学校では、それに対する授業は一度もなかった。

危険極まりないと王子は思う。

 

それでも、あえて強行しようとするのだ。帝国軍団の「支配・拡大の野望」は、もはや制御不能に陥っていた。

 

王子は、少女と1分1秒を一緒に楽しむ中で、道具の微調整と、予行練習も忘れなかった。少女の家の南がわでやってみた。また、その「場所」へ一緒に行ってみて、細かい打ち合わせをした。

 

その後、二人で自転車を走らせて、R先生の実家へも行って見た。

王子は先日のお礼を述べ、少女は丁寧に挨拶した。R先生のご両親はとても喜んでくれた。

 

少女は、安心した。

「でも。」

すぐに少女の気持ちは、王子のほうへ行く。

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                 〔4〕

 

7月25日金曜日の夕方になった。

王子と少女は、お墓に並んで腰を下ろしている。

もうすぐ夕陽が赤くなる。

夕方でも、じっとりと汗ばむ暑さだ。

「楽しかったわね。」

少女が心から満足したようにいった。

「うん。ほんとに、楽しかったよ。」

小声で言っているわけではないが、やや、お互いの声が聞き取りにくい。それほど、ヒグラシの合唱の音量がすごい。

二人は、夕陽に染まる瀬戸内海の美しさに見とれていた。王子はよく見るのだが、小高いところから見ると、島が少し浮いているように見えて、美しさがまた異なっている。

夕陽は空の雲を真っ赤に染めて、ダルマになって、そして消えていった。少女はその美しさに浸りきっていた。

 

王子は思った。

『これなんだ。この美しさなんだ。君が持ってる美しさは、この美しさなんだよ。』

世の中で、「美しい」と言う言葉はさまざまな対称に対して使われる。それが女性に対して使われるときは、昔から「器量がいい」といわれているように、顔立ちや体つきが整っていることはもちろんのこととして、現代では、最新のヘアースタールをし、プロポ−ションに合ったブランドの服や装飾品で飾っている様についてつかわれるようだ。

王子が感じた「美しい」ということの印象はそれとはまったく違う。

余計なものをそぎ落としそぎ落として、質素に、簡素になっていったとき現れてくる美しさ。少女から与えられた印象は、この「美しさ」だった。もしも、少女が、普通に洗濯機で洗濯し、掃除機で掃除し、あるいはそれらを全て親にやってもらっていたとしたら、この「美しさ」は感じなかったであろう。その美しさは、質素で、簡素で素朴であることを極めている。極めるために、日々の少女の不断の努力があった。

また―。父親が自殺に追い込まれたことひとつとっても、憎しみや恨みで凝り固まっても仕方がないことであろう。しかし、少女からそのような感情は、伝わってこなかった。ゆるさんど行進には、小さな体で立ち向かおうとするほどの精神力の強さを持ちながらも、それは、憎しみや恨みからなのではなく、「自分と同じ苦しみをする人に出て欲しくない」というその一心からなのであった。「部落差別とうつ病に対する差別は違う!うつ病はなった本人が悪い」と公言する学校の先生。そんな者たちが「差別ゆるさんど」といいながら行進などすることは、うつ病の人を追い込むことである。少女はそこまで見抜いているから、ただ参加しないだけでなく、抗議しようとしているのである。

今、夕陽が沈んだ。空の雲はますます赤く染まっていく。

昔は人殺しの悪人が夕陽を見て泣いたという。昔は悪人でも、日本人が古来から大切にしてきた『まごころ』を持っていた。今見ているこの景色は、日本人が大切にしてきた『まごころ』そのものなのだ。

王子の心に、『美』という言葉が浮かぶ。

そして思う。

『そうだ。これが美の世界なんだ。美は美術館や宝石店にあるものじゃなくて、ぼくらが生きているこの世界にあるものなんだ。』

ふっと、王子の目の奥にマザーテレサの姿が浮かんだ。しかし、それは気にせず自分の考えを追っていく。

『彼女の生き方、そのものが美なんだ。ぼくはその美しさが好きなんだ。でも、今の彼女のワンピース姿も好きだ。スラリとした体の線やあの笑顔も好きだ。もしも、』

王子は考えを続ける。

『もしも、彼女が事故や病気でそれらの容姿を失ってしまったら、ぼくはどう思うだろう?』

今まで考えたことのなかった自分への問いかけだった。

しかし、王子はすぐに答えを見つけ出す。

『もし、やけどをして顔が焼け爛れてしまったとする。両足が動かなくなってやせてしまったとする。上半身は太ってしまって、ワンピースも切れなくなったとする。』

王子はちらりと夕焼けに見とれている少女に今自分が作り出した姿を重ねてみる。

『いらっしゃい。お待ちしてました。』

『好きよ。私もあなたが好きよ。』

『あなたはお父さんじゃない。あなたはあなたなのよ。』

そうして、川で洗濯し、動けない足で這っていき、棒につかまって洗濯物を干す彼女。動かない体で部屋を洗濯し、炊事しようとする彼女。

そういった姿が今の彼女にだぶる。

『ぼくは、彼女を愛している。彼女は、それでも美しい。今の夕焼けと同じように美しい。ぼくは、彼女を愛しているんだ。』

一筋、涙が王子の目から流れ出た。

『愛』と言う言葉の意味が、ギリギリこの瞬間になってわかったのだった。

 

神様がお創りになったものには、全てのものに『美』がある。ただし、どの側面を捉えて、人間が『美』と感じるかは、その時代や社会やそして個々の人による。大切なことは、この世にあるもの全てが『美』を持っているということだ。

そして、「その『美』を守りたい。」自分のためではなく神様がお創りになったものとして、「その『美』を守りたい」と思ったとき、そこに『愛』が生まれる。

マザーテレサの姿がさっき一瞬王子の脳裏に現れたのも、神様が教えてくださっていたのだ。

マザーテレサは義務感からしているのではない。そうしたくてたまらないから、自分の中から湧き上がってくる衝動に身と心をゆだねてあのような生き方をしたのだ。マザーテレサの目の前には、多くの多くの『美』があった。マザーテレサは、その一つ一つをかけがえのないものと感じた。だから、なんとしても守りたかったのだ。

 

王子は、少女に分からないように涙を拭いた。

夕焼けに見とれていると思ったのに、そのちょっとした仕草を少女は見逃さなかった。

少女は王子の顔を見て、不思議な表情をした。

発する言葉を思いつかない様子だった。

少女は、もう一度もう暗くなりかけた夕焼けに顔を戻して言った。

「5年か…。長いわ……。」

王子は、少女が泣きだすのではないかと一瞬心配する。しかし、その様子はない。

「5年…。確かに長い……。」

王子が言う。

「でも、済んでみればアッと言う間かもしれないよ。」

少女が王子のほうを振り返って、強く言う。

「そんなこと、ない。長い。長すぎるわ。」

これ以上、話を続けると、少女が泣き出してしまうであろうと、王子は心配して言った。

「ごめんな。」

そして、あたりを見回し、空の暗さが深まってきたのを見て、

「そろそろお母さんが帰ってくるよ。夕飯の支度をしてあげないと。ぼくは帰るよ。」

と、立ち上がった。少女も立ち上がる。

「いよいよ、明日ね。」

少女の目が光る。王子も、その目をしっかりと見て、

「うん。明日!」

そのひとことに、明日の活動のための全てのエネルギーをこめるかのように、言った。そして、

「今夜は、よく休むんだよ。明日は、君とぼくと、そして君のお父さんと3人で一緒にやるんだ。」

少女はコクリとうなずいて、王子の右手に軽く触れ、そして家に入った。

南の空に一番星が見える。

 

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                          〔5〕

 

ついにその日が来た。7月26日。市民の多くの反対の声の中を、あえて強行される『差別ゆるさんど行進』。
 朝から晴れている。連日の真夏日。今日も35℃に近いところまで気温は上がるだろう。アスファルトの照り返しの上で直射日光を浴びているところは、38℃くらいあるはずである。

 王子は、朝5時半に家を出た。少女の家に着き、6時に二人で出発する。7時が結団式開始だから、その30分前くらいから参加する生徒たちは家を出始めだろう。先生や大人たちも。それよりも前に目的地に行くのである。
 王子も少女も共にTシャツとGパン姿である。必要なものを忘れずに全て持っていく。
 少女の母親にも、計画の全てを話してある。母親は仕事に出かける前に雨戸を全て閉め鍵をしっかりとかけて、出かけていった。

 その頃、王子と少女は、目的地について身を潜めている。二人の足元にはあの竹の棒が2本。しかし、前見たときよりも長い。コレは王子がもっと高さが必要であると判断して、再度切りに行ったからである。その竹の棒の先には布が巻きつけてある。

 その頃、{ゆるさんど部隊}は土居庁舎を出発して行進を始めていた。
 国道11号線を渡り、上野交差点から心光寺に向かう。

 王子は、午前中、決行することに決めていた。人の目に付くかつかないかは、条件からはずした。その道がまっすぐであることが重要だった。そして、二人が行進が着くまで隠れていられる日陰があること、そして、…。

 第1区間が終わったら休憩がある。
 王子は思う。
『もし、オレの読みが外れていたら…。数コースに分かれて行進するとしたら、ここは通らないかもしれない。そのときは、移動して、行進を探さなければならない。』
 王子はなんとしても少女に、成功させてあげなければならない。

 王子が午前中を狙ったのはわけがある。
 暑くしんどい中を、シュプレヒコールをあげながら行進を続けていくうちに、その集団は、連帯感を持ってくる。
 そうなる前に決行したかったのだ。
 腕時計を見る。
『予定通りならもうすぐだ…。』
 心臓が高鳴るのを感じる。
 少女も、ずっとひとこともしゃべらない。唇をきりりと結び、道路の先を見つめている。
「ねえ。」
 突然、少女が、王子の肩を持って言った。
「なんか聞こえなかった?」
 王子は耳をそばだてる。かすかに、聞こえる。それは、例のシュプレヒコールの声だ。
「来た!!」
 王子が言った。
「あそこから来るのね。」
 少女が言う。
 王子はうなずく。
 まもなく、シュプレヒコールの声がはっきりと聞こえるようになり、先頭が姿を現した。
 少女の体が動いた。
 王子は、静かに手を出して、それを制する。

 先頭に校長と教頭が歩いている。その後ろからゾロゾロと隊列が現れてくる。
 少女が訊く。
「まだ?」
 王子は、
「まだ。もう少し。」
 次第に、シュプレヒコールが大きくなる。

 隊列の最後尾が姿を現す。王子は言う。
「もうすぐだよ。」
 今度は少女がうなずく。

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                 〔6〕

 

隊列の先頭が100メートルほどの距離に来たとき、王子は少女を見て言った。

「よし! 今だ!!」

二人は立ち上がる。竹の棒を持って。

少女はそれを持って竹の棒の表面を手のヒラに滑らしながら道の反対側へ走っていく。そして道の反対側で竹の棒をしっかりと地面に立てた。

 

見よ!!

 

2本のまっすぐに立てられた竹の棒の先端に、横断幕が掲げられているのを。横断幕には

《うつ病差別反対!!》

と見事な文字が書かれている。村山神社で少女が描いた文字だ。二人で塗りつぶしていった文字だ。長さを測って文字の大きさと文字間隔を調整したので、遠方から見ても、バランスがよい。そして、少女が一気に描いたひとつひとつの文字の力強さ。『うつ病差別』は黒で。そして、『反対!!』は赤で。

 

見事なアーチが、ゆるさんど行進の隊列の前に、突然姿を現したのだった。それは隊列の最後尾からもはっきりと読むことができた。

《うつ病差別反対!!》

 

先頭の校長と教頭がいっしゅん、足を止める。隊列の進行も止まる。シュプレヒコールが止まる。

しかし、校長と教頭は、止まったままではまずいととっさに判断し行進を再開する。というよりは、教頭が『早く行ってアーチをおろさせよう』とやっきになった。行進は再び進む。先頭の歩くスピードが早くなったので、隊列には乱れが生じた。シュプレヒコールは止まったままである。

 

一方、王子と少女は、校長と教頭が50メートルほどに近づいてきたとき、声を上げた。

少女が

「うつ病差別はんたーーーい!!!」

声を限りに叫ぶ。

王子が

「うつ病差別はんたーーーい!!!」

声を限りに叫ぶ。

二人は声を合わせて、

「うつ病差別はんたーーーい!!!」

と何度も繰り返す。

 

教頭は途中から一人走ってきた、教務主任と生徒指導主事もそれを追って走ってきた。教頭は二人をちらりと見て、少女の方へ寄っていく。

「おい、なにしよんぞ!勝手にほななことしたら、いかまいわ。」

少女は

「うつ病差別はんたーーーい!!!」

と叫ぶ。王子は教師たちの動きをじっと見ながら

「うつ病差別はんたーーーい!!!」

と叫ぶ。追いついてきた教務主任が

「なに、勝手なこととしよんぞ。それ、おろせ!」

と言う。

少女は、教務主任に向かって

「うつ病差別はんたーーーい!!!」

と叫ぶ。

そうしている間にも隊列は近づいてくる。

教頭は少女が持っている竹の棒に手を掛けてアーチを倒そうとする。

隊列の先頭はすぐ手前まで来て止まった。

少女は竹の棒を体にぴったりとくっつけ両手でぶら下がるようにして、体重をかけている。目はしっかりと開いて教頭をにらみつけながら。少女の体重の乗った竹の棒の根元は、地面に張り付いたように動かない。

やがて隊列全体が、止まって、成り行きを固唾を呑んで見守った。

竹の先端は揺れるがアーチは壊れない。

王子はじっと、少女を見ている。

少女は

「やめてーー!」

と叫ぶ。一人ではどうにもならないのを見た教務主任が、教頭と一緒になって竹の棒を奪い取ろうとする。

教師たちは誰も王子のほうには来ない。これが土居中で有名な『ひいき』である。土居帝国の王子に注意できる教師はいないのだ。

教頭と教務から竹の棒を奪い取られようとして、少女は必死で体で守っている。教頭と教務の両方をにらみつけて。

アーチの先が揺れてはためく。

少女が叫ぶ。

「やめてーー!! 助けてーーー!!」

 

その瞬間王子が口を開いた。

「教頭!!、帰れ!!  キョーケー!!、帰れ!!

そして、

「キョートー、カーエーレー! キョートー、カーエーレー!」

「キョーケー、カーエーレー! キョーケー、カーエーレー!」

と大声で叫ぶ。

 

先頭にいた3年生が、すぐこれに続いて声を上げた。

「キョートー、カーエーレー! キョートー、カーエーレー!」

「キョーケー、カーエーレー! キョーケー、カーエーレー!」

たちまちそれは、隊列の子供たち全体が発する大きな帰れコールとなって鳴り響いた。

 

教頭は、とっさにまずいと判断する。棒から手を離し、叫ぶ。

「お前ら、やめんかい!!」

しかし、帰れコールは、やむどころかいっそう音量を増した。

こういう場合の教頭の読みは、早い。

教務主任に

「おい、ヤバイで。行こや。」

と小声でいい、後ろに来ていた生徒指導主事に、

「シューチャン、あと頼むで。」

と言って姿を消した。

帰れコールは、歓声に変わる。

「わーーーーーー!!

 

後を任された生徒指導主事が、動く。二人がかりで棒を持っても動かないのを見ていた彼は、少女に

「何しよんで。落ち着こ。」

と言う。少女を説得しようという作戦である。その後ろで控えているT..も出てきて、

「こんなとこで立てとったら目立つけんの。」

と言う。

少女は、その態度に胸をかきむしられるような思いがする。

自分の同級生が学校に出てこられなくなったのは、この2人のせいなのだ。さも心配しているかのような振りをしながら、生徒本人の言うことは絶対に聞かない。そして、結局自分たちの言うことを強引に聞かせようとする。聞くまで、動かずじっと自分の隣に張り付く。それがT..だった。友人は「T..を殴ってやりたいと思った」と自分に話してくれたことがあった。

 

この動かない事態が長引くほど不利になると思った生徒指導主事は、

「さあ、とにかく、あっちにいってゆっくり話聞こ。」

そう言って少女を体ごと道路の反対側に押していこうとする。棒を倒さなくても、そうすればアーチはなくなるからだ。

少女の3倍は体重があろうかと思われる巨漢の生徒指導主事に押されては、少女もひとたまりもない、ずるずると道路の中央へ押されていく。生徒指導主事は両手を開いている。下手に触ったら「体罰」だといわれてはいけないからだ。

 

その時王子が叫んだ。

「体罰するな!!」

生徒指導主事は

「わし、何もしてないよ。」

と両手を挙げる。

「体で接触してるじゃないか!! それが体罰なんだ!! 本人は抵抗してるじゃないか!! 体罰止めろ!」

 

すると、王子が先導したわけではないのに、再びシュプレヒコールが起こる。

「たーいーばーつ、やーめーろ!!たーいーばーつ、やーめーろ!!」

生徒指導主事は10センチ、少女から体を離して、隊列のほうを向き、両手を挙げていった。

「ワシは何ちゃしてないぞ!」

しかし、シュプレヒコールは止まらない。

「たーいーばーつ、やーめーろ!!たーいーばーつ、やーめーろ!!」

その様子を見ていたT..がついに切れた。

「くそばか! ワシら、何したゆうんぞよ!何ちゃしてなかろが!

おんどりゃあ! ナメるなよー、コラー!!」

 

シュプレヒコールは、変わる。

「シュージン、カーエーレ! シュージン、カーエーレ!」

「ターカーピート、カーエーレ! ターカーピート、カーエーレー!」

大音響で成り続く、帰れコール。

..は切れたまま怒鳴りわめき散らしていたが、生徒指導主事によって引っ張られ、教頭たちが消えた後を追って退散した。

 

「わーーーーーーー!!

隊列から歓声が上がる。

 

王子は、じっと立ってみていた校長に

「校長先生、さあ、どうぞ」

と手を差し出す。

校長は、「ご苦労さん」と言って行進を再スタートさせる。

 

アーチをくぐって行進しながら、アーチを持って立つ王子と少女に、隊列の各々が手を振った。王子も少女も、手を振り返す。その時、王子も少女も涙を流していた。涙を流しながら、笑顔で手を振った。

 

行進の最後尾がアーチをくぐって通り過ぎた。その後姿を見送りながら、二人の胸はいっぱいになっていた。

「やったね。」王子が言う。

「よかったわね。」少女が言う。

 

すぐに、王子は布を竹からはずし、竹はそこにおいて布だけ持って

「さあ、行くよ。」

と言った。再び少女の顔がきりりと引きしまる。

 

王子の計画はこの後も続いているのだ。10秒後には二人の姿は消えていた。1分後、農道を東へ向いて自転車で走る二人の姿があった。

 

怒った教頭たちが、少女を捕まえに来るかもしれない。王子の計画は、あらかじめ、そこまで考えられていた。どの道を通って帰れば最も安全か。

 

少女は今日は家には帰らない。少女も母親も、R先生の実家に直接行って、そこに泊まらせてもらうようになっている。

 

20分後、王子と少女は、赤星山のふもとの思い出の場所に来ていた。

 

 

 

     第6章 終わり        目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

7

 

〔1〕

 

二人は、赤星渓谷の林道を少し上がったところにある石の上に腰を下ろしていた。ここは、周囲を林の木々が覆い、涼しい。

少女が満足したようにいった。

「ああー。よかった!」

王子が答える。

「うん。やった。成功だね。」

「ありがとう。あなたがいなかったら、できなかったわ。」

自分ひとりでプラカードを持って立っていたら、どうなっていただろうと考えながら少女が言う。

『きっと、行進の隊列が到着する前にいとも簡単に、幹部連中によって締め出されていただろうな。それでも、私は満足できたかしら?』

そう思いながら、少女は口を開く。

「ねえ。みんながあんなに協力してコールしてくれるって、あなたには分かっていたの?」

「いいや。結果的にああなったんだよ。ぼくはそこまでは予想してなかった。すごい成果だよ。」

「ねえ、もし私があそこで教頭とキョーケーに倒されていたら、どうなってたかしら?」

「それでも成功さ。ぼくは、あのアーチを立ててみんながそれを見た時点で成功だったと思ってる。」

「そう。」

王子は、少女の方をむいて言う。

「これも、君の強い心があったからだよ。『部落差別意外は差別じゃない』なんてバカなことを平気で言って独裁恐怖政治を断行している土居帝国に向かって、はっきりと『それは間違っている』って言おうとしただろ?」

少女は王子を見てうなずく。王子は続ける。

「キミは知らないだろうけど、インターネットの掲示板でも、多くの人が声を上げたんだ。中でも、タイモさんという人や、一卒業生さんという高校生の人や、そしてうつ病経験者さんという方は、ゆるさんど会の掲示板に乗り込んで、主張し質問したんだよ。いわば、帝国の中心部だよ。

「そこで、帝王が質問に答えるその答えがあまりにも稚拙なので、市民は怒ったよ。帝国の正体、見たり、だね。」

少女は、少し心配そうに言う。

「来年はどうなるかしら?」

「分からない。帝国はそれでも、強引に自分の独裁恐怖政治を強行し続けるだろう。『部落差別が残っている!。行政は何してるんだ!?』と言ったら、行政側は小さくなって何も言えないのさ。」

「じゃあ、やっぱり、この状態は変わらないのかしら?」

王子は少女にきっぱりと言った。

「いや!すぐに目に見えるようには変わらなくても、必ず変わっていくよ。今回ゆるさんど行進に、自分から出なかった生徒も多くいる。担任や幹部連中は出るよう働きかけたけど、断固出なかったんだ。2年生や1年生も、親が欠席させた人が大勢いる。

《参加しない》ということで、ひとつの行動を起こしたわけだよ。こうした人たちが増えていけば、帝国は必ずつぶれる!!」

「そう!」

少女は、ほっとしたように息をついた。

―― 帝国はつぶれる

それは、少女の願いである。

帝国が憎いのではない。

帝国があるために、異をとなえる人が抹殺されること、人々が自由にものを言えないこと、そして、うつ病の人が殺されること。それがつらいのである。

『部落差別以外は差別じゃない。うつ病になったのは本人の責任だ。学校へ出るからにはきちんと勤務してもらわないと。』

そう言って、うつ病から職場復帰を目指していた父親を死に追いやった帝国。

帝国がつぶれる…。

やっと少女は、からだの緊張が解けていくような気がした。

 

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           〔2〕

 

木立の中から涼しい風が、二人の体をすり抜けていく。木漏れ日が、ところどころで木の影を揺らしている。

 

少女は、大きく息をついた。そして、王子に訊く。

「電車は何時?」

王子は腕時計を見て

「あと2時間だな。」

思いつめたように、じっと目の前の木々を見つめる少女。

王子も、同じように、じっと前を見つめている。

「ねえ。5年後には、必ず帰ってくるって約束してくれる?」

「………」

 

 

王子は、あの日、夕陽の中で少女を見て、自分が少女を愛していることを悟った。おそらく、その愛はずっと変わらないだろうという確信があった。

 

一方、少女は、あの夜。月を王子と見ながらお墓に二人で座っていたあの夜。王子から、突然言われた言葉によって、初めて気がついた。王子を愛していることを。

あの夜に帰ってみよう。

 

月が煌々と照らす中、肩を並べて座っている二人。王子が、突然口を開いていった。

「ぼくは、差別ゆるさんど行進への抗議が終わったら、すぐにこの町を出る。」

「いつ帰ってくるの?」

「ずっと帰ってこない…」

少女は、座ったまま王子のほうに体を向けて両手で王子の手を押さえる。

「そんな!うそでしょ。ウソだと言って。」

王子は、悲しそうに、首を横に振る。

「でも、会えるわよね。私たち。私が会いに行ってもいいわよね。」

最後の希望の糸にすがろうとするかのように、少女が訊く。

王子は、やはり、悲しそうに、首を横に振る。

「どうして!? どうして!!」

少女はうつむいて泣く。

「ごめんよ。君を悲しませたくない。でも、決めてたんだ。ぼくがこのままいたら、ぼくがいるということだけで、帝国は崩壊しないだろう。ぼくは、消えなくちゃならないんだよ。」

王子もそう言ってうつむく。

 

王子は、少女が『プラカードを持って立つ』と言ったとき、即座に『自分も一緒に立とう』と心を決めた。その時同時に、土居町を出ることをも決めたのである。

 

家を出ることはそれまでにも何度か考えたことがあった。しかし、家を飛び出しても、どうやって生活していけばいいのか、サッパリ分からなかった。

しかし、王子は少女と共に、掃除をしたり洗濯を手伝ったり、水遣りをしたりする中で、「生活」をしていたのだ。それは、王子が自分の中に、更にしっかりとした「生活」をするための種を蒔いていたのだといえる。

 

 

少女は、王子が去ると告げた時、忽然と悟った。自分が王子を愛していることを。ただし、「愛」という言葉とは結びつかない。「愛している」と言葉で自覚したのでもない。

言葉は、少女が考える前に出てきたのだった。

『残りの3つのお願いを聞いて。

1つ。キスをして。

2つ。結婚して。

3つ。いつまでも一緒にいて。』

 

そうだ。これが、少女の心そのものをあらわしている切なる声だった。この人こそが、生涯を共にしたい大切な人。一緒にどんな困難も共にしたい大切な人。

 

出会ったときから、ずっと少女の無意識の中では、分かっていた。父親の面影を王子の中に見て、思慕の情を抱いていた少女。父親は天国に確かにいて、今目の前にいる人は父親とは違うんだとはっきり自覚した少女。王子に対して、好感を持ち、それは日々強くなっていく。共に「生活」の一部を共有し、ゆるさんど行進の抗議行動の準備を共にする中で。王子の優しさと行動力に次第に強く惹かれている少女がいた。そんな王子のことが「好き」だった。

 

けれども、すでにそれは、ただの「好き」と言う感情ではなく、「愛」にまで育っていたのである。

しかし、それが少女の顕在意識に現れてくるには、まだ少女は若すぎた。

少女の3つの願いは、今の少女が、「愛」を表す精一杯の言葉だったのである。

 

 

少女はしかし、王子が出て行くといつか言うのではないかと、これも無意識のうちに、かすかな不安を持っていた。

『来週、また○○川に来れる?』と訊いたとき、一瞬返事に窮した王子。

『8月はトマトがいっぱい食べられるわよ』と言ったとき、一瞬口を動かすのを止めた王子。

無意識の内では、王子から言われる前からすでに知っていたのである。

 

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           〔3〕

「ねえ。5年後には、必ず帰ってくるって約束してくれる?」

王子が黙っているので、少女はもう一度訊いた。

 

王子は、『うん。帰ってくるよ』と言いたかった。

しかし、それが言えない自分が情けなくてたまらない。

自分は飛び出していく。何か、頼るところがあるわけではない。それどころか、捜索願をすぐに出されないように《工作》さえしてきているのである。帝国に見つけ出されぬように衣食住をやっていかなければならないのだ。まずは、食べていくことをなんとしてでも軌道に乗せなければならない。住所や両親氏名を明かせない王子にとっては、そこから難関である。

 

そして、さらに。

少女と5年後の約束を交わすということは、少女があの月夜に必死に訴えた3つの願いを聞くということだ。その3つの約束を果たすためには、結婚して家庭を持てるだけの経済力をもってなければならない。

 

それは、今の王子にはまったく見えないのだった。

何もない荒野を一人で歩いていかなければならない。どこにあるのか分からない都市を目指して。

今の王子はそんな、無力な王子だった。

『どうして、そんな無責任なことが言えようか。5年後に帰る、ともしオレが言ったら、この子はそれを信じてずっと待つだろう。』

どうしても、王子には、答えられなかった。

「……」

心配そうに、見つめる少女。

ウグイスが澄んだ声で鳴く。すぐ近くで。少女は顔を王子からそらして、鳴き声のほうを探す。ウグイスは見つからない。

顔を元に戻すと、そこには、さっきのままで動かずに座っている王子の姿があった。その顔には、少女が見たこともない、苦悶の表情があった。

 

『ああ。私は、この人を苦しめているんだわ。私もつらいけど、この人もつらいんだわ。』

そう思うと、少女の目から涙が零れ落ちた。

思わず、少女は立ち上がり、王子の頭を抱いた。

そして、言った。

「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたを苦しめて……」

王子が立ち上がり、少女から顔を離す。王子は少女を見て苦しそうに言う。

「ごめんよ。悪いのはぼくのほうだよ。あの晩、ぼくは言ったよね。

『最低5年間は帰れない』って。それで、君に、期待させてしまったんだ。ごめんよ。5年後にぼくは、どうなっているか、まったくわからないんだよ。ホームレスでここへ帰ってくるお金さえなくなっているかもしれない。」

 

少女は王子の目をじっと見た。

そして、優しく微笑んで言った。

少女の口から出てきたのは、王子にとって不思議な言葉だった。

 

「ホームレスでもいいじゃない。命があったら、会えるじゃない。あなたはあの晩、確かに言ったわ。そして、5年間は一切電話も手紙もなしだって。どこにいるかも教えられないって。私考えたわ。そのくらい、あなたが必死の覚悟で出て行くんだなって、わかったの。だから、私もつらいけれど、5年間は絶対に辛抱するって決めたとよ。」

少女の声は、さっきまでとは違って、不思議と落ち着いた優しい響きが合った。

「あなたがホームレスでもいい!もし事故で手足を失っていてもいい。全身大やけどで顔が分からなくなっていてもいい!生きていてくれたらいい!」

 

突然、王子は声を上げて泣き出し、同時に少女を強く抱きしめる。

少女も、声を上げて泣き、王子を強く抱きしめる。

 

二人の心が、ついに、一点の曇りもなくひとつになった瞬間であった。

 

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    〔4〕

抱き合って泣きながら、ついに心がひとつになった二人を祝福するかのように、ウグイスが鳴く。

しばらくして落ち着いた二人は身を離した。

王子が言った。

「5年後に、」

少女は、じっと王子を見つめる。

「5年後に、必ずぼくは帰ってくるよ。どうなっているか知れない。ボロボロで立ち上がれなくなっているかも知れない。それでも、いいかい?」

再び少女は、王子を抱きしめる。

それが、少女から王子への答えであった。

 

王子は幸せだった。今こそ、王子は、小さいときからずっとかぶってきた鎧を脱ぎ捨てたのだった。重たい重たい鎧だった。今、王子の心は、雲のように軽い。

 

少女も幸せだった。はっきりと答えが分かったから。自分の王子に対する気持ち、それがはっきりと分かったから。さっき、自分の口から出てきた言葉は真実である。でも、そんなことを話そうとは、考えてもなかった。『あなたがホームレスでもいい!もし事故で手足を失っていてもいい。全身大やけどで顔が分からなくなっていてもいい!生きていてくれたらいい!』それは少女の心の底からの声だった。

 

二人とも、この数分間の間に、それぞれの人生の中で上るべき大きな山をひとつ乗り越えたのである。この数分間のために、赤星山に登った王子があり、夢で見た父親に導かれて機滝まで登った少女があり、ゆるさんど行進に抗議した二人があったのである。

 

もう、王子は、鎧をかぶる必要はない。少なくとも少女の前では、裸のままの心を出せる。何でも言える。

もう、少女は、無意識の中にしまい込まれた不安に脅える必要はない。なぜなら、少女の心も癒されたから。そして、「愛」を見つけたから。

少女が、それを「愛」だと意識するのにはまだ年月を必要とするだろう。しかし、言葉の理解よりも、その実態を理解できることに勝る幸せがあろうか?

 

「待ってるからね。」

体を離したとき、二人は微笑み合っていた。

 

王子は腕時計を見た。

「じゃあ、そろそろ時間だから…」

少女は、一瞬『もう?』といいそうになったが、その言葉を飲み込んで。にっこり笑って言った。

「うん。行ってらっしゃい。」

 

二人は、坂道を降りていく。

「まあ!」

と少女が、しゃがみこむ。

「きれいな石。」

 

紫色の石で、ちょうど少女の手の平に握れる大きさのひし形の石だった。少し見つめて、少女はぎゅっと握り締める。そして広げた手を、王子に差し出した。

「ハイ。私からのプレゼント。私だと思って持っててね。」

紫色の石は少女の手から、王子の手にと渡る。

「ありがとう。」

王子はその石をじっと見つめ、大事そうにポケットにしまった。

 

自転車を置いた場所に来た。高速道路の下をくぐって出たら、そこで王子は側道を東へ走る。少女はまっすぐ降りて、R先生の実家へ行く。少女の母親も今夜はR先生の実家に泊めてもらうことになっている。

 

二人は、とうとう、高速道路の下をくぐって出た。

王子は自転車にまたがる。

少女を見て、動きが止まる。

一瞬、『最後にもう一度目に焼き付けておきたい』と思ったのである。じっと少女を見る。そんな王子の心が、少女にも分かる。微笑みながら、王子に体を向ける。

 

ついに、王子が言った。

「じゃあ。」

少女がうなずく。

王子は続ける。

「行ってくるよ。」

少女は再びうなずいてにっこりして言う。

「言ってらっしゃい。」

 

王子がペダルを踏み込んだ。自転車が前に進み出した。と思うと、あっと言う間に、自転車は離れていく。

 

坂を下ったところで、自転車が止まる。向きを変えて戻ってくる。

王子が笑いながら言った。

「ただいま!」

「おかえりなさい!!」

『5年後の今日、こういってるんだわ』と少女が思っていると、王子はウェストポーチから、財布を出して、1万円札を10枚と千円札を何枚か、出してまっすぐそれらを伸ばして、言った。

「ハイ。今月の稼ぎ。」

少女は、大切そうにそれを受け取ると、しばらく自分の手の中のお札を眺め、そして王子を見る。王子はニコニコ笑っている。

少女は千円札だけを取り、笑顔で、残りを王子に差し出した。

「ハイ。今月のお小遣いよ。」

「こんなに、いいの?

「今月は特別よ。次からは、厳しくしますからね。」

 

王子は、それをウェストポーチに仕舞い、再び自転車の向きを変えた。

「じゃあ、行ってきます!」

「行ってらっしゃい!」

 

スーッと離れていく自転車。今度は止まらない。坂を下りると90度左に道は曲がっている。今度は上り坂だ。王子は途中から自転車を降りて押して上がる。少女のほうを向いては手を振る。少女も手を振る。坂を上りきったところで道はまた右に90度曲がって下る。

 

つまり、この坂を上りきったところが、本当に王子をお別れする場所なのだ。今度は少女が先に手を振る。王子が左を見て手を振り返す。

 

少女は一歩踏み出して、両手を口に当て、叫んだ。

「いってらしゃーーーーーい!!」

王子も左手を口に当て、大声で応える。

「行ってきまーーーーーす!!」

 

ウグイスが鳴く。さっきのウグイスだろうか。

 

そして、王子はとうとう坂を上りきった。

「行ってきまーーーーーす!!」

「行ってらしゃーーーーーい!!」

 

お互い手を振り、次の瞬間王子の姿は消えた。

 

「行ってらしゃーーーーーい!!」

「行ってらしゃーーーーーい!!」

じっと、少女は、王子を最後に見た場所を見つめている。

口元に、さっきのそのままの微笑みを残したまま。

「行ってらっしゃい。」

もう一度、少女は小さくつぶやいた。

 

 

 

      第7章   終わり

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エピローグ

 

〔1〕

 

少女は、毎日、王子と一緒に水遣りをした。王子と一緒に掃除・洗濯をした。そして、午後は、王子と歩いた懐かしい場所を、再び王子と一緒に歩くのであった。

王子は旅立った。どこへ行ったのか、何をしているのか、全然分からない。でも、少女は、こうして王子といっしょに歩く時間が、幸せだった。

そして、思い出す。あのとき、あなたは、ここで私の方を見て笑った。ここで、一緒に座った。ここで、一緒に笑った。

王子は、いつも少女の隣にいたのである。

 

2学期、新しい学校で少女の生活が始まった。土居中とは全然違う。先生達の雰囲気が違う。土居中は何か冷たくピリピリしていた。土居中では、全校朝会などは一糸乱れず前へ習えをしていたが、教師達の威圧的な緊張感は、いつも耐えがたかった。三島南中には、まず先生方に笑顔があった。職員室の雰囲気が全然違っていた。生徒達にも大きな自由があった。そして生徒と教師の間に信頼関係があった。

少女は、「これが学校なんだ」と思った。ある日、授業中態度が悪いということで生徒が強く教師から叱られ、教室の外へつまみ出された。少女は固唾を呑んで見守った。しかし、10分後、その教師と生徒は教室へ戻ってきた。生徒は落ち着いていて、自分の席へ来ると「先生、ゴメンナサイ」と言って席に着いた。少女はビックリしてその様子を見つめていた。が、更にビックリしたのはそのあとだった。教師が言った。

「○○君は悪くなかった。彼は心配事があって苛苛しとったんじゃ。それを気もつかずにいきなり叱ったワシが悪かった。○○君ごめんな。」

こんなことを言う教師は土居中にはいなかった、いなかった。

少女は、こういう学校へ来れたことを、本当に嬉しいと思った。

同和問題学習もあったが、何の違和感もなかった。先生が正直に自分の思いを持って授業しているのがわかった。その自由があった。生徒にも、手を挙げる自由、手を挙げない自由両方が保障されていた。土居のような、一種独特の緊張感漂う同和問題学習ではない。

土居には言論の自由がなかった、とつくづく思う。

 

こうして少女は自由な雰囲気の中へすぐに溶け込み、新しい友達もできて、新しい生活を始めたのであった。

 

しかし、日曜日は、王子との思い出の場所を一人で歩く。それは忙しくなると月一回になることもあったが、少女にとってかけがえのない神聖な大切な時間であった。

 

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[2]

王子は。

少女と別れた王子は、側道を通って長谷寺まで行く。そこを少し過ぎたところの高速道路の下の草むらに自転車を置いて、真っ直ぐ坂道を降りて行った。家の自分の机の引き出しには、「3週間、旅行して見聞を深めてきます。」と書いた手紙を入れてきた。それでも、万一の追っ手のことを考えて、電車がホームに入ってくる直前まで駅には入らない。電車が入ってきてドアが開いた瞬間王子は飛び出して柵を飛び越え、電車に乗った。

各駅停車で、夕方、大阪に着いた。新今宮駅で下りる。公園を探す。これからしばらく王子が本拠地とするところ。スーパーで夕食を買う。ここは物価が異常に思えるほど安い。

翌朝、王子は駅前の大通りの様子をじっと観察する。次第に集まってくる中年の人々。中には青年や老人もいる。ワゴン車が止まって、人が集まる。なにやら問答があって、6人が乗り込む。ワゴン車は去っていく。次々と、そしてまた同時に何台かのワゴン車がやってきては、何人かの人々を連れて行く。そうして、最後まで乗り込めなかった人は、恨めしそうに、どこやらへと散っていくのである。1時間ほど、王子は日陰に座ってじっとその様子を眺めていた。

10万円。少女からもらった「お小遣い」。それが尽きたら、自分もこうして日雇いで仕事を探さなければならない。

王子は昨日のスーパーでパンと牛乳を買って、公園で食べる。それから、通天閣、大阪城、梅田駅と大阪の環状線内を適当に歩いていく。まず、地理と人々の様子をじかに知るためである。

王子にはひとつの計画があった。しかし、それは、砂漠の中で一匹の蟻を探すような無謀な計画でもあった。まさに一か八かの計画であった。

昼前に梅田駅周辺にたどり着いた王子は、昼食に出てきたと見られる会社員に片っ端から聞いていく。土曜日とはいえ、大勢の会社員で歩道橋の上はごった返す。メモしながら王子は何十人に聞いただろうか。

次は、天神橋の方へ向かって表通りではなく裏の商店街を通りながら、地元の人に聞いていく。

夕方王子は、梅田に帰ってきて、本屋に入る。そして、また詳細にメモを取っていく。

夜は、新今宮駅まで歩いていき、昨夜の公園で寝るのである。

 

3日間、王子はこれを繰り返した。一体何人の人に聞いただろうか。はじめは「ありがとうございました」と言っていた王子は、今では「おおきに」と言っている。本屋もジュンク堂、旭屋、ブック1stを全て制覇。一冊の大阪市区分図に、聞き取った店、本で調べた店を全てチェックし、手帳に改めて整理しなおしてある。

 

「さあ!」と4日目の朝、王子は思った。「今日からだ!」

午前中は、天王寺公園で横になって昼寝した。

この日は、地下鉄で移動。駅を出て、道頓堀の目標の店へまっすぐ歩く。店に入る。「いらっしゃーーい!」威勢のいい掛け声が店内に響き渡る。王子はカウンターに座る。

「何にしましょ」

「ウニ一巻」

それだけ?と言うような間を一瞬おいて、「ウニ一巻!」

王子の前に、ウニ一巻を乗せた皿が置かれる。

 

一か八か、王子が賭けたものはこれなのであった。

 

少しの間王子は皿の上の一巻の寿司を見つめる。その上におかれたウニを。皿を取り、王子は寿司を手につかみ、口へ運ぶ。舌の上に載るウニ。シャリを口の奥にやり、ウニだけを舌の上で転がし、鼻に息を抜く。舌の上のウニを上アゴと舌で潰す。そうしてウニのつぶれる感触を味わい、息を鼻に抜く。

 

ゆっくりと飲み込んだ王子は、しばらく目をつぶって動かない。

 

「お勘定」

王子は金を払って店を出た。つぶやく。

「あれで、2000円か。」

王子は手帳に×をつけて、次の店に向かった。

 

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[3]

 

 

王子の夢

王子には夢があった。自分の故郷が、部落も部落外も関係なくひとつになって、日本の中の土居町として発展することを。

そのために、土居町に必要なものは何か?

王子はずっと考えてきたのだった。

これまでやってきたような、土居町の中での「タタカイ」ではない。そんな狭い世界でいがみ合っていてはダメだ。

もっと、オープンに開いて、土居町だけで、生き残れる経済力を持ち、本当に住民皆が土居町を誇りにできるような、そんな町。

王子は、《観光》だと思った。

こんなに美しい自然が昔のまま残されているところはない。少女が喜んだ「ザクロ石」を研究するために。日本中からいや世界中から、鉱物研究者がやってくるのだ。

なぜ、土居町住民は、もっと誇りを持って、それらを世界に開いていかないのか?

王子はそう考えていた。

そのために自分にできることは何だろう?

まず、部落が部落外を攻撃してその恐怖によって全住民を支配するという何十年も前のやり方は、あまりにも土居町をクローズドなものにしてしまっている。絶対に止めなければダメだ。

問題は、経済力だ。

そう、王子は考えた。

真の経済力。解放補助金や土建業から入ってくる利益ではなく、住民自らが生み出していける経済力。

 

そのためには、豊かな水産資源を活用する。遠具沖や天満沖で取れた新鮮な地採れの魚、八日市、藤原、蕪崎の新鮮な貝、そして仏崎のウニ、これらを使って、日本一おいしいすし屋を開業する。

ここまでは個人の努力でできる。

土居町が、真の郷土愛に目覚め、人対協がその存在の必要もなくなるほどお互いの理解と絆が深まるようになれば、土居町住民が一丸となって、いろいろなことを生み出していける。

野菜の直産大市。

江口いと記念文化会館。

土居町トライアスロン大会。

障害者芸術会館。

瀬戸内海を展望する温泉。

土居町の自然」写真コンテスト。

土居町や豊岡町のタイモを使った新しいお菓子の開発。

      ………

こういった全てのものに、あらゆる障害者が一緒に参加できる配慮をするのである。展示、音声案内、車椅子。手話、…そういったものがどこへ行っても完備されているように。

 

そして、王子は、遠具の海が見える道路沿いに、すし屋を建てる。

うまく行ったら、料亭にする。うつ病の人が、安く長期滞在して、瀬戸内海を眺めながら心を休めることができるような、そんな場所ができたら。

そして。

そして、彼女と一緒に、…。

 

 

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[4]

 

「ウニ一巻」

「お勘定」

王子は金を払って店を出た。つぶやく。

「また、ダメか。」

王子は手帳に×をつけて、次の店に向かう。

 

 

もう何店巡っただろう。手帳に始めにリストアップされていた店はほとんど全て、×の記号で埋め尽くされていた。

残りの金も次第に少なくなってきてる。

 

ウニ。

王子は、仏崎で潜ってサザエやウニをよく採った。とって帰って、すぐにそれらを割って身を出す。小粒であるが、その濃淡な味に、酔いしれたものだ(もちろん酒はない)。舌の上で転がし、ピュッと潰し、鼻から息を抜くとき味わえるあの、ウニ独特の甘みを帯びた濃厚な香り。

 

王子は、ウニだけに絞って、大阪中の寿司店を巡ってきたのである。そして、残念ながら、王子の舌にかなう店は一店もなかったのである。

 

 

 

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[5]

 

ある夜、公園でいつものように寝ていると、深夜、騒がしさに目が覚めた。王子よりも先輩のホームレス(ほとんどのホームレスの人がそうなのだが)が、ホームレス狩りに遭っていたのだ。4人の若者…王子より少し年上、そう18〜20歳か。一人のホームレスを血まみれにし、逃げ遅れた次のホームレスを、今からヤろうとしていたのであった。

王子はすぐに、そこへ行って、ホームレスとの間に割って入る。

「なんや!!てめぇ!?」

王子は答えず黙って状況を見る。後ろはベンチと垣根。ホームレスは仲間に助けられて、うまく逃げたようだ。4人の若者の殺気は、いまや王子一人に集中している。

向かって右から2番目の男がボスであると、見抜く。その左側すなわち、向かって右端にいる男が「なんや!!てめぇ!?」と叫んだ男である。

『最初に来るのは、向かって左手の下っ端だろう。』

 

その瞬間、狩りの続きが始まった。

狙い通り、向かって左端の少年が王子に飛び掛ってくる。…というよりは、飛び掛ろうとした。その瞬間、王子は一歩踏み込んで、相手の左袖をつかみながら右脚払いをかける。倒れる少年を王子はその隣の少年に投げつける。飛び掛ろうとした勢いと、王子の右足払いによる転倒の勢いが掛け合わされて、ふたりとも、後ろにどさりを倒れる。予想に反した王子の動きに、ガードを考えてもなかった下の男はそれだけで後頭部を打って気絶した。脚払いを掛けられた男は起き上がろうとする。ボスが手に針の突き出たナックルをはめるのと、右端の男が先に鎖のついた鉄の棒を構えるのが同時に見えた。ゆったりと揺れるようにボスの突きの間合いに一歩、王子は踏み込む。次の瞬間全ては終わっていた。左手でパンチの伸び始めるのをガードしつつ袖をつかみ、殴りかかるボスの足元に右足を滑り込ませ、襟をつかんで、腰を沈め、ボスを背負い投げで投げていた。しかし、王子にはこの一瞬一瞬がスローモーションのように感じられる。投げる瞬間、頭からコンクリートの上に激突させることも可能だった。しかし、それは相手に致命傷を負わせることになるかもしれない。とっさに腰を浮かせながら王子は脚と腰にねじりを加え、隣の鉄の棒を振り上げていた少年にボスを体ごと投げつけたのであった。

ふたりは体ごと倒れこむ。

王子は、その上を回転受身しながら、「痛かったな。ゴメンよ。」とボスに言って、そのまま起き上がると走って公園を去った。

 

 

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[6]

 

大きな怪我はさせてないはずだ。しかし、こういう場合は、現場をすぐに去るに限る。王子は通天閣の方へ走った。

深夜とはいえ、人ごみの絶えない繁華街に近づいてきたとき、王子の前にふたりの男が立ち現れ道を防いだ。後ろを見るとこちらもふたりの男が立ちふさがっている。

「追いかけてきたか??」

と王子は不思議に思った。あれなら、すぐには立てないはずであるが…。すると、前の男が行った。

「兄ちゃん、みごとやったで。」

そういいながら差し出した手の小指はない。王子はその手を黙って握る。

 

 

さて、このあとのことについては、話を端折ろう。

4人の男は、このあたり一円を縄張りにする暴力団の幹部の一派であった。始めに話しかけてきたのが幹部である。

 

出会いの妙は、神のみぞ知る。

 

王子はこのときまさかこの暴力団の4人が自分の一生の恩人になろうとは考えも及ばない。

 

4人の男は、最近出没する、ホームレス狩りを退治するために張りこんでいた。そこへ、4人の少年グループが現れたので、気合を入れに出ようとしたところ、王子が先に退治してしまったわけだ。ホームレス狩りをするような少年はあまり役に立たないが、思いきり気合を入れてぶち倒したとき、光を放つ者がたまにいる。そのような者は、組にスカウトするのである。しかし、ほとんどの場合は、腕をへし折り、顔を踏み潰して鼻の骨を折るくらいで済ませる。縄張りの秩序を守るのは、彼らの大切な仕事なのである。

 

4人の男は、王子の鮮やかな戦闘風景を見て、組にスカウトすることを考えた。

王子はあえてトドメを指さず自分が逃げたのであったが、ヤろうと思えば、あのあと、好きなようにトドメはさせたはずである。

それをせず、彼らが立ち上がるまでの時間をも計算して、一足先に姿をくらます鮮やかさは、彼らをして王子を追跡せしめるに十分の値打ちがあった。

 

4人は場所を変え、王子を連れて、繁華街の中の豪華なバーに入り込んだ。

 

結論を言えば、4人は、王子の追跡には成功したが、スカウトには失敗したのである。王子は、自分の夢を語った。4人は黙ってそれを聞き、それぞれが自分の若かった頃の夢を思い出すかのように、しばらく沈黙した。

そして、握手した幹部が、名刺に何かを書いて、王子に渡し、肩を叩いて出て行った。残りの3人もそれぞれに王子の肩を叩き声をかけて出て行った。

 

名刺には、それを渡してくれた幹部の氏名と、幹部事務所の住所、電話番号が印刷されていた。そのうらに、ペンで、ひらがな4文字と電話番号が書いてあった。

 

 

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[7]

 

「ウニ一巻」

「お勘定」

王子は金を払って店を出た。

王子は手帳に×をつけて、次の店に向かう。

 

もう、大阪中の寿司屋を全部巡り歩いたのではなかろうか?

手帳にはもう、リストアップした寿司屋の名前は残ってなかった。

資金も、もう残り1万円を切っていた。

 

王子が満足できるウニを出せる店は、この大阪を持ってきてもないのか? 王子は、大阪=“食道楽”という単純な発想で大阪に向かったのである。大阪にならあるだろう、と。

そこを見つけて、そこで修行させてもらうこと。

これが、王子が大阪に出てきた目的だった。

店を見つけることがが最終目的ではないのだ。

最終目的は、その店に弟子入りして修行して、職人技を身につけることだった。

 

もう、夏も終わろうとしていた。

もし、見つからないまま資金がなくなったら、…。そのときは、初めて大阪にやってきたときに観察した、西成区の朝の風景の中のひとりになる。日雇いの仕事をしながら金をためて、また寿司屋をさがし巡る。

 

しかし。…。

冬には、公園で寝るのは厳しいだろう。風邪なんか引いたら、どうなるんだろう。生きることの極限状況に陥る前に、なんとかしなければならない。

 

王子は焦っていた。………

 

 

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[8]

 

夏は終わりを告げ秋が来る。そして冬。厳しい冬を王子はどのようにして過ごしたのだろうか?

それはまだ、横へおいておこう。

 

私達は少女に、視点を戻そう。

少女は、カレンダーにしるしをつけていた。2月が終わり3月になる。

「去年の今頃は、まだ私は一人だった。お母さんも一人だった。」

少女は考える。机の前に引き伸ばして大きくした王子の写真が張ってある。その周りに、普通サイズの写真が壁一面に張ってある。

もう、これまでに何度見たことだろう。

 

不思議なことだった。少女は王子と分かれてからずっと、毎日、王子のことを思い出すのが一番楽しい、神聖な時間になっていた。

キリスト教徒が祈りを捧げるときと似ているといってもいいだろうか。

そして、今どこにいるか分からない王子、連絡を取りたくても取れない王子が、自分のすぐ傍らにいることを、いつも感じていた。

学校では、楽しく友達と過ごすので王子のことは考えない。帰路について、R先生の家を通り過ぎる頃から、つまり王子と一緒に行動した空間に入る頃から、少女は、毎日、王子と一緒になるのである。家に帰って真っ先にすることは、王子の写真に向かって「ただいま」と声をかけること。後は、いつもの忙しい家事をこなしていく。しかし、家事の最中にも、ふっと王子が「手伝うよ」と言って出てくる、そんな気配を感じるときがあった。

 

想い出は次第に色あせていくという。

しかし、彼女の中では、王子との想い出はちっとも色あせない。

不思議なことであった。

 

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[9]

 

春が来た。少女のカレンダーに赤い丸のついている日がある。去年、少女が始めて王子とであった日。

この日、少女はお弁当を持って一人で機滝へ登った。林道や山道を歩いているときには、夢に現れた父親のことを思い出し、「お父さんが来てくれる!」と信じて登っていた1年前の自分になっていた。

機滝に着く。

『私はここで、こうして待っていた。』

思い出す。

『そしたら、あなたが現れた。』

詳しく詳しく思い出す。

そして、山をふたりで下りたあのひとこま、ひとこまを思い出す。

出会い記念日であった。

「あと4年とちょっと。また一緒に来ようね。」

少女は皇子川に向かって話しかけた。

 

 

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[10]

 

こうして、1年たち2年たち3年たつ。少女はもう高校生である。

神聖な少女と皇子の『儀式』は毎日続いている。

「ただいま。どう?きょうも元気?」

写真の中の王子が微笑みかける。

 

4年目。1学期に高校の修学旅行があった。日本は急激に、格差が進み、それは修学旅行のコース設定にも現れていた。海外オーストラリアコース、30名ほどが参加する。東京3泊4日コース。そして、大阪1泊2日コース。

少女は、大阪1泊2日コースである。

このコースはできるだけ値段を安く押さえるため、大阪についてからは全て班の自由行動であった。

少女は、特にどこに行きたいわけでもない。

「大阪城で夏の陣の絵巻物を見たい」

という一人の声で、地下鉄で大阪城に向かう。大阪城を出たところにNHKのスタジオがあるというのでそこに入る。

 

 2日目。午後2時大阪駅に集合である。

「アニメの同人誌を日本でここにだけしか置いてないっていう本屋さんがある。どうしてもそこに行きたい」

という一人の声で、次はそこへ行くことにする。ところが、これは、なかなか、どうやってそこまでいったらいいのか分からなかった。

とりあえず地下鉄で一番近い駅まで行って、あとは地図を頼りに歩くことにする。一人で調べながら行ったほうが早かったかも知れない。4人がそれぞれ好きなことを言うので、気がつけば反対方向へ進んでいたりして、ようやくその店を見つけたのは、昼前だった。

けれども、そこへ行きたいといっていた女生徒の喜びようと言ったらなかった。羽が生えて今にも舞い上がらんかと思わせるほどに歓喜した。それを見ると、あとの3人もわざわざ苦労してよかったと思い、顔を見合わせて笑った。アニメの同人誌を20冊ほどお小遣い全部出して買い込み、ホクホク顔の一人とそれを囲む3人の一行は本屋を出た。もう正午をとうに回っている。

「腹減ったなあ。」

「ウン。死にそう。」

「一番近いところで食べよう。じゃないと集合時間に遅れるよ。」

少女が言う。

同人雑誌を買い込んだ一人だけは、幸せ満面でただ歩いている。

「腹減ったなあ。」と最初に言い出した生徒が、すばやく一軒の店を見つけた。彼女が班のリーダーなのである。さすがにリーダーだけのことはある。

1分後、4人は、その店のテーブルに座っていた。

「おじさん。並み4人前ね。」

リーダーが注文する。そして、同人誌を夢中で読み始めている友達に、お金は残しているのか訊く。聞かれた友達は、同人誌から目を離さず、首を縦に振る。

「ほんとかな? もしお金足りんかったら、あんたここで働いてお金払ってから帰りよ。」

みんなで笑う。

 

「あ、レ?」

ふと少女が、目をとめた。他のふたりも、そちらに目をやる。

「何?どしたん?」

少女は、立ち上がり、その眼の先にある『もの』のところへいって、それを手に取った。じっと見つめている。その後ろで、ふたりの生徒も、少女をじっと見つめている。

「おじさん。」

少女が口を開いた。返事はない。

「おじさん!」

「へいよ」

「これ。この石、どうしたの!?」

少女の手には、紫色のひし形の形をした石が握られていた。

 

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[11]

 

修学旅行から帰ってきて、少女は、それまで毎日行ってきた神聖な儀式を次第にしなくなっていった。もちろん、王子の写真は、そのまま飾ってある。

しかし、少女が一人で机の前の王子の写真を見つめているときの、その瞳を見た人は、驚くに違いない。その美しさに。少女自身も、少女の母も、まだ誰も気づいてない、その美しさに。

 

この時期に、世の中の全ての「少女」はさなぎの時期を通り超えて「女性」へと脱皮する。美しいアゲハチョウが生まれてくるように。今、まさに少女はその時期に入っていた。

 

現代では、ある大切な知恵が失われてしまった。本当の意味での『美しさ』を持ったアゲハチョウが生まれてくるためには、じっと内を見つめ内を磨く孤独な時間が必要である、という智恵を。

 

少女は、4年間かけて、その作業を行っていたのだった。

 

今、少女は、まさに羽化しようとしている…。

 

 

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[12]

 

翌年夏。少女は高校3年生。

髪は相変わらず母親に切ってもらっている。自分で切ることもある。制服は先輩のお下がりである。靴も。少女は、それらを大切に洗濯しコマメに汚れを落として少しでも長く使えるように、気を配っている。しかし、いくらアイロンをかけても、制服の傷みと汚れには、取れないものがある。

 

それなのに、街中で通り過ぎる人は、少女を振り返って、見る。

老若男女を問わず。

不思議な魅力が満ちているからだ。

 

少女の澄んだ瞳と涼しい口元が、見る人をひきつける。そして通り過ぎ、振り返って見る後姿が、髪も散切りであるし、制服もヨレているのに、なぜか分からないけれど美しい。

 

少女は、羽化した。

見たこともないような、美しいアゲハチョウに羽化した。

 

 

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[13]

 

少女のカレンダーに大きい○印がついている。

7月26日

5年前に王子と別れた日。そして5年後の再開を約束した日。

一日一日、過ぎ去った日が×印で消され、ついに、×印と○印がくっついた。

いよいよ、明日。

いよいよ、明日が、約束の日。

 

5年前を振り返る。

 

赤星山の登山道ふもとで…

 

「あなたがホームレスでもいい!もし事故で手足を失っていてもいい。全身大やけどで顔が分からなくなっていてもいい!生きていてくれたらいい!」

 

私はそう言った。

あなたは私を抱きしめて泣いた。

 

私の気持ちは変わってない。

 

「あなたがホームレスでもいい!もし事故で手足を失っていてもいい。全身大やけどで顔が分からなくなっていてもいい!生きていてくれたらいい!」

 

あなたが、帰ってきてくれたらいいの!!

 

少女は、壁に張ってある王子の写真を一枚一枚、全部はがしていった。そして、大切に重ねて引き出しにしまった。

王子が帰ってくることについては、少女は疑いを持ってなかった。

 

もし、帰ってこなかったら…?

それは恐ろしいことだ。考えたくないのかもしれない。だから、絶対帰ってくると信じたいのかも知れない。

 

でも、不思議な確信があった。

帰ってくる!

 

このとき、少女はそのことしか考えてなかった。王子がどうなっているか、そんなことはどうでもよかった。あの別れの日に言ったとおり、

もし事故で手足を失っていてもいい。全身大やけどで顔が分からなくなっていてもいい!

 

 

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[14]

 

7月26日。

 

午前中は補習があった。少女は、帰り道、そのままあの場所へ行った。5年前に見送った場所へ。

「先に来ているかしら?」

そう思うと気が気でなかった。その日だけは、補習の内容が頭に入らなかった。ノートをとるのに精一杯だった。

 

王子の姿はない。念のため、5年前最後に話をしたあの場所へも行ってみる。やはり王子は居ない。半分がっかりする自分を意識して、「王子が先に帰ってきてくれていたら」と期待していたのだと思った。

 

少女は、待つ立場に変わる。

高速道路の下は涼しくてしのぎやすい。時々、そこを出て王子を見送った場所へ行く。そこから王子がぱっと顔を出すことを、頭に描きながら。

しかし、時々来るのは自動車だけだ。

 

少女には、家へ帰って待つという気持ちはまったくなかった。

「王子が来るのはここだ」という確信があった。

家へ帰って待っていてもよかったのだ。もし、王子がここへ来ても、少女がいなければ、きっと少女の家へ来るだろう。

 

でも、私はここで待ちたいの。

ここで「おかえり!」を言ってあげたいの。

どんなに、ボロボロになっていても。そうよ。たった一人で、何もなしに、出て行ったりできない。私が男の子だったとしてもそんなことできない。大阪で、あなたはがんばっているのね。でも、追い出されて、ボロボロになっているかもしれない。やっと鈍行で帰ってくるかもしれない。夜になるかもしれない。

だから、私はここで、あなたを待っていたいの。

 

 

 

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[15]

 

7月26日。午後3時を越える。少女は時々、鶏舎の脇にある自動販売機でお茶を買って飲む。お昼を食べてないのに、空腹感はない。これまで、3人、歩いてくる人があった。

「!」

少女は、その人をじっと凝視する。3人の内一人は、腰の曲がった老人であることがすぐに分かった。

『でも、』

と少女は思う。

『あの人、私を驚かそうとして変装してくるかも…。』

しかし、近づいてきた老人は正真正銘の老人であった。

「暑いなあ。」

と挨拶がわりに少女に声をかけて通り過ぎていく。

「暑いですね。」

少女もにっこり、挨拶を返す。

 

 

あとのふたりはお遍路さんだった。一人ずつ、時間を置いて現れた。

「!」

今度も少女は凝視する。

けれども、がっかりする。

王子であるという感触が伝わってこないのだ。さっきの老人と同じように。果たして、お遍路さんは行過ぎて行った。

 

最後のお遍路さんは、見た瞬間、女性だと分かった。少女は、高速道路下のトンネルに入る。そのお遍路さんも、真っ直ぐ前を見ながら通り過ぎて行った。

 

待つことが、こんなに長いなんて。

こんなに苦しいなんて。

 

私は今まで5年間、ずっとずっと、あなたが帰ってくる日を待ってきた。

そして、とうとうその日が来た、

その、今日という日がこんなに長いなんて…。

 

少女は、赤星山登山口を少し上り、あの木陰の、5年前に王子とふたり座って話をした石の上に座った。

ウグイスが鳴く。

「あの時も鳴いていたわね。あのときのウグイスさんなの?」

少女は聞く。

ウグイスがまた鳴く。

少女は微笑んで、石の上に上半身を横たえた。

木の葉を揺らす風が涼しくて心地よい。

 

 

 

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[16]

 

少女は眠っていた。昼食も食べず、ずっと立っていたことは、少女を疲れさせていた。

少女の顔に、手が触れる。

そっとそっと、手が触れる。

少女は、ガバリと飛び起きる。

ああ。5年間待ち続けた王子。その人が立っている。

にっこり微笑みながらそこに立っている。

5年前と少しも変わってない。まったく同じだ。

少女が、5年間ずっと胸の中で暖めてきた言葉を、ついに言うときが来たのだ。少女は立ち上がって、口を開く。

「お帰り」

何度、これまでに言っただろう。心の中で何度王子に言ったことだろう。

それを今、本当に言うときがきたんだ。私はやっと、この言葉を言えたんだ。

王子が笑って、答える。

「ただいま」

王子が差し出した右手を、少女は握る。ちょっと違和感があったが、嬉しさの方が強い。強く握る。

王子はちょっと痛そうにした。

「あ。ごめんね。」

少女が手を離して王子の右手を見たとき、小指がないのに気がついた。

少女が王子の顔を見上げる。王子は悲しそうな顔をしている。

少女は、『小指一本くらいどうしたのよ!へーき、へーき』と5年前なら笑い飛ばしたであろう。しかし、今は、小指がないことが何を意味するのか分かる。

平成を装って、

「どうしたの?この指」

と訊く。

王子は、

「ああ。」

と言ったきり答えない。

少女は努めて明るく、

「荷物を持つわ」とリュックサックに手を伸ばす。リュックサックを取ろうとして気がついた。王子の左腕が肩からすっぽりないのを。

ビックリして王子の足元を見た少女は、また驚く。王子の右足が膝から下がない。義足、それも安価な木の棒が地面を踏んでいるだけだった。

 

王子が口を開いた。

「いろいろ、遭ったんだよ。でもキミとの約束を果たすために帰ってきたんだ。こんな姿になってしまってゴメンよ。」

そういいながら、更に王子がポケットから黒いものを出して頭に回す。眼帯だった。

「右目も見えないんだよ。」

 

「僕は、君との約束だけは果たしたかったんだ。会えて嬉しかったよ。」

 

思わず少女は、嗚咽がこみ上げてくる。

次に王子が言う言葉が分かってしまったのだ。

 

少女は王子にすがり付いて叫んだ。

「ダメ!ダメ! 行っちゃダメ!! 私、言ったでしょ!?

「『両手両足がなくなっていてもいい』って!そう言ったでしょ!?」

 

少女は王子に必死ですがり付いて叫ぶ。

悲しそうに見ていた王子は、

「僕は戻らなくちゃいけない。」

 そう言って踵を返すと、突然少女を振り払って歩き出した。

少女は、あまりのことに一瞬動けなかったが、王子を追いかける。

 

 しかし…。義足の王子は駆け下りて行き、少女は追いつけないまま王子の姿を見失ってしまったのだった。

… …

 

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[17]

 

少女はガバリと起き上がる。

もう辺りは薄暗い。鶯の鳴き声は聞こえない。

少女は泣いていた。

鳴きながら、立ち上がり、よろよろと坂道を下り出した。

 

3歩歩いたその時―。

 

少女は、呆然として立ち尽くす。

じっと前を見て。

 

少女は全身が震えだした。もう、自分でも自分が分からない。

 

坂道を登ってくる人物は、立ち尽くしている少女に気がついた。

彼は迷わず、右手を挙げて少女に手を振る。

「ただいまーーー!!!」

 

一歩…。二歩…。少女は駆け出した。泣きながら駆け出した。

「お…か…」

声にならない声を発しながら駆け下りる。

王子の胸の中に飛び込んだ少女は、嗚咽してやまなかった。

5年間耐えて自分の中で守ってきたものを。やっと安心して解き放ったかのように、いつまでも泣いてやまなかった。

 

王子は、両腕で少女を抱きしめ、右手で少女の頭をさする。

 

ふたりとも、この瞬間を、どんなに待ったことだろう。

今は、言葉は要らないのだった。

ただ、王子の胸に顔をうずめて思い切り泣きつくす、それでよかった。

ただ、少女を抱きしめて、少女の感情を全て受け止める、それでよかった。

 

長い一日だった。2013年7月26日。午後6時30分。

 

 

 

ようやく落ち着いた少女は、王子から離れて顔を見る。いつの間にか精悍でたくましくなっている。

王子も少女を見る。美しい瞳が涙に濡れて、いっそう美しい。あの紫陽花の花のように。そして、脱皮したアゲハチョウが、一人の女性としてそこにいることを、王子は見た。

まだ、少女の胸は震えている。自分でも、どうにもできないのだ。声を出そうとするが、言葉にできそうにないのだ。

少女の胸の振るえを王子は、十分にわかった。

そして、この5年間、ずっと言いたくて言いたくて、お互いが胸の中に持ち続けてきた言葉を、まだ、少女が言えないでいる。

王子は少女の手をとり、反対の手を少女の肩にかける。そして優しく肩をさする。

 

少女の嗚咽は、やっと、胸の中心から姿を消したようだ。

少女は、安心した。5年前と変わらぬ王子の優しさが、嬉しかった。

少女は王子の目を見た。

少女の口元にようやく笑みが戻ってきた。

少女の口が動く。

「おかえり」

小さな声だった。きちんと発音できるのかどうか、確かめるように。

が、次の瞬間、少女は

「おかえりなさい!!」

と大声で叫んで、王子の胸に飛び込んでいた。

「ただいま! ただいま!! 帰ってきたよ!!」

「本当に帰ってきたのね。」

「うん。本当に帰ってきた。」

一時帰省だということは少女には分かっている。

けれども、王子がこうして現実に帰ってきてくれた、約束を守ってくれたということは、少女の心を幸せと安心とで満たしたのである。

 

 

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[18]

 

その日は一緒に少女の家に帰り、王子はそこに泊まらせてもらった。

結果的には、滞在中、ずっと少女の家に泊まることになるのだが。

 

翌日、補習に行かずに王子といっしょにいたいという少女を説得して見送り、自分は農作業姿になって、ふるさとへ向かう。麦藁帽をかぶってこうして歩けば誰にも怪しまれない。

 

さて、王子が出て行った後の土居町、及び四国中央市のことを書いておこう。

結論を言えば、あの2008年は、四国中央市にとって大きな分水嶺の年であった。

まごころ教育の告発に始まり、ゆるさんど行進の失敗で幕を閉じた1学期。夏休みに、いろいろな動きがあった。土居中学校の保護者有志が立ち上がる。その活動が、大きな推進力を生み出していく。

一方、土居中学校幹部と同和団体旧幹部は、依然として抵抗の姿勢を貫くが、彼らが工作すればするほど、保護者や教師たちは、真実を知るのであった。

また、その年の土居中生には、潜在的な力と団結力があった。人権集会では、これまでの土居中教師の行動の矛盾点を突き、幹部をしてタジタジとせしめた。

それらと平行して、議会でも、共産党を中心として真実を追究して、異派閥(保守クラブ)の求心力はどんどん低下していく。

2008年秋の選挙で保守クラブは消滅した。

こうして、結果的に、人対協をそれまで牛耳ってきた人物は、退かざるを得なくなる。また、A教諭冤罪事件も「犯罪事件」として取り扱われ、虚偽文書作成の罪で、土居中学校のしかるべき人物は処分を受けた。翌年の人事で大きく愛媛県が動き、土居の異常な教師集団を解体した。幹部は全て県下に分散して異動させられた。

以上のような、大きなうねりが、新たな潮流となって土居町を中心として起こっていたのである。土居町を中心とするが、そのために行動していた人たちは三島、川之江つまり四国中央市全体に広がっていた。

新しい教育長の下、新しい教育体制が生まれた。

人対協とは一線を画する。しかし、良好な関係を持って、あくまでも子供を中心に据えてその人権を考える。過去の苦い失敗を繰り返さないために、公的にあらゆる団体が集まって意見を戦わせる場も作られた。

公的な活動の中に私的癒着を持ち込まぬよう、徹底したチェックシステムが考案され実施された。

 

そして、このことが四国中央市を救うことになる。

行政においても「ムダ」が省かれ、また影の収賄などが通らなくなり、税金収入が確保され、市の赤字は年々減っていった。

さらに、四国中央市全体を活性化させる、新しいアイディアを若者や地域が提案し、市の代表者で吟味討論して実行されていった。その根本にある理念が、《全ての市民の尊厳を重んじる》ということであったのは言うまでもない。

 

うつ病を含め、傷害を持つ人々が安心して暮らせる四国中央市が創られていった。うつ病罹患率や復職率は全国でも目を見張る成果を挙げた。学校教育の中に、真の人権・同和教育が生まれたのである。

組織が人間を殺すことを学んだ人対協は、解放同盟からは独立し、独自の、自ら考え自ら立つ組織へと変革を遂げる。

人対協の言いなりだった教師達は、真の人権・同和教育を各自が考え、自分の情熱で授業を創り出すように変革を遂げていく。

 

2008年を大きな分水嶺として、四国中央市は、「言論の自由」が尊重され、一人ひとりの市民が「人間の尊厳」を尊ばれる自治体へと変革を遂げていったのである。

 

人々の心が内から変わることは難しいけれども、できることである。そしてそれをしたとき、その集団である自治体には、不思議な力が下りてくる。

 

北京オリンピックのあと、中国のバブルは崩壊し、ドルやユーロに至るまで暴落し、世界恐慌に突入していくのに適切な手も打てないまま、世界は、荒れていた。

 

明らかに新しいシステムが必要とされていた。

 

四国中央市は、東の製紙業と、西の農業・漁業、そして観光の町として、新たなスタートを切ろうとしていた。農業・漁業の適切な保護による、食物自給率の上昇と、直産市や新しい銘菓の販売などによるマネーの獲得。年収1000万円も常識になり、人々が集まり更に発展していく。製紙業は、安い賃金労働者を海外に求め、アジア人を受け入れたが、参政権については日本国籍をとったもの以外には与えない。学校では、アジア語も希望に応じて履修できるようになり、真の人権・同和教育は、民族差別にもきちんと対応できる力をつけていた。

こうして市民と外国人労働者のバランスの上に製紙業も発展し、市内の中小企業も適切な保護を受けて発展し、四国中央市は、ますます繁栄していく。いつの間にか、三島展望台の落書きはされなくなっていた。

 

王子は、自分の夢をかなえる土台ができつつあるのを見て取った。

「帰ってこれる!!!」

王子が今回5年ぶりに帰省した目的のひとつには、この見極めをすることがあった。

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[19]

 

午後1時、少女が息せき切って帰ってきた。

「ただいまーー!!」

「おかえり!!」

今度は王子が「おかえり」をいう番だ。

 

その日、ふたりは、5年間のことを、一分の休みを入れるのも惜しんで語り合った。5年間の隙間を埋めるには一日では足りなかった。いつまで王子が居られるのか、今後どうするのか、それは大切なことなのに、とてもそこまでは話が及ばないのだった。

 

「ねえ、あなたはお寿司屋さんになるんでしょ?」

突然少女が訊く。

「えっ!? どうして、それを?」

少女は話す。修学旅行のときたまたま立ち寄った寿司屋に、あの紫色の石があったのを見たことを。店の主人に訊くと、「若いの」がいつも肌身離さず持っているけど出前に出かけるときは落とさないように置いていくんだ、と聞いたことを。

 

今度は王子が話す。大阪に行ってからのことを。

すし屋を全部巡ったけど、一軒も「よし!」といえる店がなくて、絶望しかかったとき、暴力団の幹部が名刺のウラに書いてくれた電話番号に電話したらそこが寿司屋だったこと。そこへ言って「ウニ一巻」食べたとき、思わず声を上げたこと。「これだーー!!」そして、その場で両膝をついて弟子入りを希望したこと。

 

「普通3年間はね、寿司の作り方にかかわることは一切教えてくれないんだ。掃除とか出前だけだよ。それで、僕はね、おやっさんや先輩のやってることをとにかく盗み見してたのさ。」

王子の話を、少女は嬉しそうに聞く。そのキラキラした目を見て王子はなんだか、照れくさくなって、話すのを止める。

少女は、口と尖らせて言う。

「それで、どうしたのよ。もったいぶらないで早く言ってよ。」

王子はにっこりして、話を続ける。

「先輩は、お盆と正月はお休みとるんだ。でも、僕はとらない。休みとってもやることないからね。で、休みの日には、掃除した後、包丁とか磨かせてくれるようになったのさ。」

「フーン」

少女が当たり前のように聞いているので、王子は

「これって、すごいことなんだよ。包丁の切り味ひとつでネタのうまみが変わってくるんだ。ふつうなら、包丁磨ぎなんかやらせてもらえないんだよ。」

「そうなんだ。信頼されたのね。」

「うん。たぶんね。じつは、このあいだ言われたことがあるんだ。」

「なあに?」

王子の話し方ひとつで少女は、これは重要なことだと感じることができる。

王子は少女の目を見て、言った。

「大阪の店を継がんか、ってね。」

少女の目の様子ひとつで王子は、少女の気持ちが分かる。

少女は、王子を見たまま、黙っている。

 

王子が、先に目をはずした。少女も王子の目のあとを追う。

王子が言う。

「お墓に行こう。」

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[20]

 

5年前、月を見ながら二人で座っていたあの場所に来る。もう日は沈んだが地面は暖かい。

王子は少女を見ている。学校から帰ってきたままだったので、高校の制服だ。

少女も王子を見ている。左腕も右手の小指も右足もきちんとついている。

 

王子は少女を見て、改めて思う。きれいになったなあ、と。

それは、少女を女性としてみているのだった。

こんな美しい女性と、昨日山のふもとで長い時間抱き合っていた、そのことを考えると、信じられない思いがする。

 

少女は王子を見て改めて思う。こんなにたくましい人だったんだと。5年前は、とにかく王子の優しいところが好きだった。その優しさは今も変わらない。でも、それ以上に、太い首、ガッシリした胸、腕、脚に少女はびっくりしていた。この腕に昨日抱かれていたんだと思うと、頬が赤くなる。

『でも』と少女は強く思う。『あの夢の中で見た腕や脚がないあなたが今目の前にいたとしても、私の気持ちは変わらない!!』

そう思うと、少女の瞳は優しい光を放ち、口元は微笑んだ。

 

それを見て、王子も微笑んで。言った。

「5年前だったね。ここで、話したのは。」

「そう。5年前…。」

「あの時、僕は出て行くことを君に伝えるので精一杯だった。」

「うん。分かってる。」

「今はね、別のことが言えるんだ。」

王子の目が少し見開かれた。

少女は、それで、全て分かった。安心して、心を全て王子に預けて、表情を変えずに、うなずいた。

王子は言う。

「君を愛している。結婚して欲しい。まだ時間はかかる、早くてもあと5年間は。でも、僕は帰ってくる。そして…」

そこまで言ったとき、少女は静かに王子に体を寄せて、背中に腕を回した。左を向いて右頬を王子の胸にくっつける。

少女の返事が、王子に伝わった。

言葉はなくても、気持ちはひとつになることができる。

 

ゆっくりと顔を上げて少女の瞳が王子の瞳を捉える。少女はそのまま目を閉じた…。王子の唇が、少女の唇に重なる…。

 

ヒグラシの合唱が、ふたりを祝福する。

 

 

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[21]

 

このときが来るのを、ふたりは、どんなに待っていたことだろうか。

先の見えなかった5年前。悲痛な気持ちで、泣いて明かした、5年前。

離れていても、信じて待った、5年間。

そして、再会の時。

 

 

また別れるけれど、今度は前とは違う。経済的な問題が当面あるけれど、またがんばって乗り越えていこう。

 

 

また別れるけれど、今度は前とは違う。今度こそ、あなたと本当に今生での約束を確認できたから。

次に会ったときに、再会の前に見た夢のようになっていたとしても、私はあなたを離さない。

 

 

 

君はきれいだ。美しいよ。でも、でもね、5年前に僕が思った君の姿がある。もし君がやけどをして、顔が焼け爛れて分からなくなったとしても、それでも、僕は君を愛している。僕は今生、絶対に君を放さない。

 

 

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[22]

 

王子の休みは1週間あった。

少女の母親も、体調を大きく崩すことなく、順調に過ごしている様子を聞いて王子は、安心した。王子が帰ってきたことを、少女の母親は、本当に喜んでくれた。そして、将来を誓い合ったことを伝え、その許しを請うと、大きな涙を両目から流して

「どうして反対したりしますか。娘をよろしくお願いします。」

と言ってくれたのであった。

 

二人は、幸せだった。

二人で、将来のことを語り合った。

 

少女は教員になることを目指していた。父親ができなかったことを、その意志をついで、やってみたい。自分のように苦しい思いをする子が出ないように尽くしたい。もし、そういう子が居たらあなたが私の傍らに寄り添ってくれたように、その子に寄り添いたい。

 

ふたりは、R先生の実家に挨拶に行った。王子がいない間、ずっと支えてくれた恩人なのであった。もう85歳を越え90歳に近くなったが、ふたりとも元気でいる。

 

R先生にも挨拶に行った。R先生は無事復職を果たしていた。二人のことをとてもとても喜んでくれた。

 

 

 

大阪に帰る日、王子は一人で、ふるさとの実家へ行った。5年ぶりであった。恐る恐る、敷居をまたいだ。父と母が出てきた。

むかし厳しかった父親は、すっかり人が変わったように優しくなっていた。両親とも、自分のことを怒るどころか、帰ってきたことを泣いて喜んでくれた。

王子も、初めて、声を上げて泣いた。

将来の夢を離した。とても喜んで聞いてくれた。

そして、少女のことも話した。結婚したいことも。

涙を流して喜んでくれた。盆と正月がいっぺんに来たみたいだと言って。

 

帝国ではない。市民共同体。心の響きあう響働体。

父親の目が、優しさを失わず、しかし燃え上がるのを王子は見た。

王子は嬉しかった。

久しぶりに見る父親の元気な姿だった。

そしてまた、始めてみる、父親の穏やかな明るい姿であった。

 

王子は、どうしてもっと早くこの我が家に帰ってこなかったのだろうと、後悔した。

しかし、次に帰ってくるときには、本当に新しい始まりだからね。

 

部落なんてない!! 僕と彼女とで、新しい土居町、四国中央市の、土台を築くひとつの石となるんだ。子々孫々のために、部落差別なんか許さない!! あらゆる差別を許さない!! 自分自身の心の内に生ずるあらゆる差別を許さない!! そのことの大切さを訴えていくんだ。

 

あふれ続ける涙の中で親子3人は、別れを告げた。

 

 

 

午後4時過ぎ。伊予三島駅。大阪へは特急で戻る。少女は入場券を買ってホームまで見送りに来た。人目を避けて山で別れた5年前とは、全然違う。

これからは、手紙も書こう。お互いそう約束した。

「次に僕が帰ってきたときには、僕の両親に会ってくれるかい?」

少女は、ホームにいる数人の目もはばからず、王子に抱きついた。

「私、お父様とお母様にご挨拶にお伺いするわ。私のことを話してくれて本当にありがとう。」

 

特急列車が入ってきた。

王子は並んでいる乗客の最後にいて、次第に自分の乗り込む番が近づいてくるのを残念そうに見ている。

 

王子は少女を振り返り、言った。

「それじゃ、言ってきます!」

少女はにっこり笑って、返す。

「言ってらっしゃい。気をつけてね。」

 

電車のドアが閉まる。滑り出す特急いしづち号。

 

少女は手を振る。小さくなっていく電車。

「いってらっしゃーーーーい!!

「いってらっしゃーーーーい!!」

 

古い過去の殻を脱ぎ、新しい未来の扉が開く。

この物語はここで終わる。

 

しかし、ふたりの新しい未来は、また、ここから始まるのだ。

 

 

エピローグ終わり

             (余話に続く)

 

 

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余話1

 

太い鉄骨をめぐらした2階建ての大きな倉庫。それが王子の家の隣にあった。

4歳の王子は、父親の左肩に座って、父親の頭を抱えている。

 

鉄骨のひとつにブロックがぶら下げてある。父親は右中指の第二関節でブロックの真ん中をコンと当てる。ブロックにまっすぐにひびが入って下半分がすとんと地面に落ちる。次はブロックが2枚重ねてある。同じようにブロックの真ん中をコンとたくと、真ん中にひびが入って、ブロック2個とも、半分が下に落ちる。

 

この倉庫の奥には長さが4メートルはあるだろうかという巨大なサンドバックがつるしてあった。直径も1メートルほど。文字通り上から下まで砂のみを入れてあるのでその表面は石のように硬い。父親は王子を肩から下ろして椅子に座らせ、自分はサンドバックの前に立つ。地面に黄色い線が引いてある。サンドバックからはかなり遠い。大人が手を伸ばしても届かない。父親は左足を黄色の線に合わせ、右足を少々後にして立つ。中高一本拳を顔の横に持っていく父親。数秒間の完全静止。次の瞬間、ドーーン!!という音と共に4メートルの巨大サンドバックがくの字に曲がっていた。父親の中高一本拳がサンドバックに食い込んでいる。父親が手を引くと、サンドバックは揺り返しでグラングランと揺れる。

 

王子が父親から教えてもらうようになる最初で最後の必殺拳である。10年後の王子は、この必殺拳を完全にマスターした。しかし、文字通り必殺拳であるのでこれを実際に使うことはあり得ない。なぜならばこれを使えば相手は即死するからである。

 

蹴りについては3種類。一つは、カッティングキックという蹴りに近いもの。ただし蹴るときに相手のアキレスけんを斬る。同時に相手の袖や髪をつかんで倒すので相手の後頭部が地面に激突する。これまた必殺技である。二つ目は相手の膝関節を正面から蹴ってぶち折るもの(かかと踏み落とし)。文字通り相手は膝から下が立たなくなる。三つ目は金的蹴りである。金的をつぶす。

 

小学生中学年になった王子は、父親に、K−1などで出てくるハイキックや後ろ回し蹴りなどを教えて欲しいと頼んだ。しかし父親は首を縦に振らなかった。「そのようなものは実戦では役に立たない。やる必要はない。どうしても覚えたければ、自分で勉強しろ。」倉庫にはありとあらゆる武道書があった。またビデオやDVDも自由に見えるようになっていた。王子は、ビデオを1コマ1コマ送りながらそれを絵に描いてハイキックや後ろ回し蹴りをマスターした。

 

たまに、父親と手合わせすることがあった。金的ガードとスーパーセーフ(顔面ガード)を王子はつける。自分で父親に教わらない技をマスターしたと思って、それを使おうとすると、使えないまま倒されるのであった。ハイキックを蹴ろうとしたら、蹴り脚が地面を離れた瞬間、父親の突きが顔面に飛んできて5メートルほどふっとばされる。

 

父親は言った。「華麗な技はお遊びでやるならいい。しかし、実戦では使うな。自分の第2制空圏に相手が入ったら、瞬間的に倒せ。」

 

また、受身と背負い投げも教えてもらった。背負い投げは、自分よりもずっと大きな相手と対戦するようになったとき、一気に相手を即死させる必殺技なのであった。普通、柔道で学ぶ、背中から落とす背負い投げではなく、相手を頭から地面にぶつける背負いだけであった。

ただし、普通の背負い投げのように背中から落としてダメージを和らげてやることもできるし、投げる瞬間手を離して相手を好きな方向へのつけることもできる。王子が大阪の公園で4人のホームレス狩りを相手にしたときに使った技がこのであった。

 

つまり父親から教えてもらった技はきわめて実戦的にできている。複数の相手を想定して、極限までトドメをさせる力を持ちながら、余裕を持って戦いをし、後に禍根を持ち越さない。

現代社会においても、また戦場においても、「実戦」的に使える業であった。

 

この技があったおかげで、都会の中でのホームレス狩りを余裕を持って処理し、その鮮やかさを見込んでスカウトしようとした暴力団幹部から、すし屋を教えてもらい、そこで弟子入りすることになったのである。

 

人生は何と、面白いものであろうか。

 

もしも、である。本当に命を狙う訓練された殺人集団4人に囲まれたとしたら、王子はどう闘うであろうか?下っ端が攻撃を仕掛ける前に、ボスに、必殺の中高一本拳を思い切りいれる。これでボスは即死。残り3人がわずかに動揺する。その瞬間を逃さず、次の相手に必殺の中高一本拳を入れて即死。3人目に正面からかかと踏みつぶしを入れて倒れ込むのを支えながら背後に回りこんで盾にする(4人目が銃などを出しているだろうから)。しかし、ここも時間を置いてはいけない。盾にした3人目の肛門に右手中指を入れて、左手で髪をつかみ、4人目に投げつける。と同時に飛び込んで倒れる4人目の顔面にかかと踏み潰しを入れる(倒れなければ、中高一本拳)。最後に、生き残っている3人目の後頭部をかかと踏み潰しで潰す。

 

おそらく、王子は生涯、そのような技を使うことはないだろう。しかし、そのような極限状況を想定した上で、それに対応できる技を教え込んでくれた父親に、感謝したものである。

 

 

 

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余話2

 

「ニ ヲ ウ ズ メ テ イ タ コ ト モ ア  タ…」

 

3歳ぐらいであろうか。あどけない少女が、瀬戸内海の見える縁側に座って、一生懸命、字を読んでいる。漢字は読めない。ひらがながようやく読めるようになってきた頃か。

 

少女の横には、ピンク色の箱がひとつ置いてある。フタがあいて、指輪やネックレスが入っている。縁側の上においてある指輪もある。

時々、少女は、「言いつけ」を守らないで、こっそりと彼女の秘密の憧れの場所を覗いてみるのだ。

その日、大好きなガーネットの指輪を十分眺めた後、宝石箱のフタの中が2重になっているのに気がついた。そこを開けてみてなにやら紙が出てきたのだ。それを読んでいたのである。

 

そのとき、玄関の音がした。いつもならすぐに片付けて、宝石箱を元の場所において「痕跡」を消すのに、その日は、箱のフタの中の2重になっているところをつついたため、間に合わなかった。

 

「まあ、お母さんの宝石箱を見てたのね。これ見ていいのは、お母さんがいいって言ったときだけでしょ。」

「バアチャン。ソンデモネ、ソンデモネ、ユビワ、ミタカッタン」

 

老婦人が宝石箱のふたを閉めようとして、うまくしまらないので開けてみると、さっき少女が読もうとしていた紙が出てきた。老婦人はそれを取り出した。そのとき、もう一枚、いや、2枚紙が落ちた。

 

少女が、落ちた紙を拾って見る。

「コレ、キレイ!!ダァレ?」

写真にはウェディングドレスを着てブーケを持った女性と、タキシードを着た男性が、協会の十字架の前に立っている。少女はもう一枚の写真も見た。

「ア、オトウチャンダ。オカアチャンダ。」

少女の父親と母親がそれぞれ少女と手をつないで笑っている。堤防の後ろに海が見える。

「コレ、オトウチャン? コレ、オカアチャン?」

少女は老婦人に訊く。

 

一方、老婦人は、少女がはじめ読もうとしていた「手紙」を読んでいた。そして、涙を流していた。

心配そうに見上げる少女。

老婦人は涙を拭いて、「そうね。あなたのお母さん。そして、あなたのお父さんよ。」と2枚の写真を指差しながら教える。

「コレ、ケッコンシキ?」

「そうよ。籍を入れて、つまり『結婚しました』って言うことをお役所に届けてね、その日、両方の親戚でお祝いしたのよ。それから、山口県のフランシスコ・ザビエルの協会へ行ったときの写真ね。」

「オカアチャン、キレイネ。」

「うん。きれいね。」

 

老婦人は、少女が書いた紙をもう一度見て、丁寧にたたんで写真とともに宝石箱にしまった。

 

その紙には、こう書かれていた。

 

《あなたのことを思って

枕に顔をうずめて、泣いたこともあった。

夕陽を見て、泣いたこともあった。

あなたの写真を見て、泣いたこともあった。

あなたと一緒に行った場所を歩いて、泣いたこともあった。

あなたのことを思って。

遠く離れたあなたのことを思って。

 

あなたの胸に飛び込んで、泣いたあの再開の日の幸せ。

 

今、あなたは私のすぐ隣で、寝息を立てている。

今、あなたは私の胸の中で、ぐっすりと眠っている。

 

この幸せを、私は守っていく。

新しい命とともに守っていく。   》

そして、その後に、夫の字でこう付け足されていた。

《全ての命を守っていく。   》

 

 

夕陽が沈む。少女が叫ぶ。

「ア.オカアチャンダ!!」

母親が、坂道を登ってくる。小学校の仕事を終えて、娘を昼間預かってもらっていた実家へ、帰ってくる。

坂道を駆け下りていって、母親に飛びつく少女。

仕事の疲れも忘れ、嬉しそうに目をキラキラ輝かせ、優しい笑顔満面になる女性。

 

そう。この女性こそ、私達が「少女」と呼んでいたあの女の子だった。女性はあの高校生の頃よりも更に美しくなり、母親としての強さが、その美しさを一層際立たせていた。

 

娘と孫の様子を見て、自分と娘のその昔の風景を思い出す老婦人…女性の母親。

 

夕食を食べさせ、母親の肩をもみ、そして簡単に家の掃除をして、家を出る頃はもう暗い。

「じゃあ、おうちへ帰ろうね。おばあちゃんにバイバイよ。」

「バアチャン、バイバイ」

老婦人も笑顔で手を振る。

 

女性は、少女を連れて、家へ帰っていく。王子の夢だった、寿司屋へ。いまや、はるか、四国外からもわざわざこの味を求めて客が来るようになった。

 

女性は少女と、2階で、遊んだり絵本を読んだり文字を教えたり(要するに全部楽しいお遊びなのだ)、して、寝る準備をして寝床に入る。

 

「オカアチャン、オハナシ!」

母親は、その日その日で自分の好きな話を創って話してやる。子供は聞き終えて満足すると、スヤスヤ寝息を立て始める。

 

その頃、1階では、店は閉めて片付けである。女性は布団を出て、いっしょに片づけする。

こうしてやっと、夫といっしょの時間ができる。

手際よく掃除をしていく。夫は、翌日の準備をする。

 

結婚してから、どんなに忙しくても必ずすることがある。

いっしょに床に入ること。そして、思いを語ること。疲れているときは、片方が話しているうちに、片方が寝息を立てていることもある。それでもいいのだ。

 

夫の方が朝が早いため、どうしても先に寝入ってしまう。

女性はその寝顔を見る。

 

今、あなたは私のすぐ隣で、寝息を立てている。

今、あなたは私の胸の中で、ぐっすりと眠っている。

 

この幸せを、私は守っていく。

新しい命とともに守っていく。  

 

 

 

 

 

 

 

 

       

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご愛読ありがとうございました。