【1】つれづれなるままに

【2】教師の皆さんへ

【3】保護者の皆様へ

【4】平成土居中教育維新

【5】もしも

【6】すみれ様、心理療法士R様へ

【7】旅の想い出

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【1】つれづれなるままに

 

みなさん。お久しぶりです。大山大仏です。ようやくパソコンを見えるようになりました。たいへんしんどい10日間でした。今もまだシンドさが残っていますが、多くの人に助けてもらっていることを実感しながら、またぼちぼち書いていこうと思います。

 

うれしいことがありました。大量の受信メールを整理していると、一卒業生さんからのメールとZodiackさんからのメールがありました。

一卒業生さんは、私が入院すると聞いてすぐに送ってくれたようです。優しい心遣いにうれしくなりました。またZodiackさんは、いつものようにユーモラスな中にも芯の通った鋭い文章で、心が和みました。

 

私は、10日ほど前にかなりハードな精神攻撃を受け、それ以来みぞおちが何とも言えない嫌な感じになっていました。それは、かなりマシになってきていたのですが、昨夜入眠剤を飲んでベッドに横になったとき、またやはりみぞおちに嫌な感じがしました。

けれども、横になったまま一卒業生さんとZodiackさんのメールのことを思い出したのです。そして私の中では次のようなイメージが広がりました。夜の大天空にひときわ明るく光る一等星が2つ。どうです?思い浮かべてみてください。雄大でしょう。そして私の視界には、さらに二つの一等星が見えました。元2−3生徒さんとうつ患者さん。この二人も明るく輝く一等星です。

4人とも、高校生または中学生です。そして4人とも、この大人でさえ何十年かけても解決できなかった(今も解決できてない)土居の大問題に、真っ向から挑んだのです。

まさに、真っ向から挑んだのです。

 

掲示板の表題が『真の人権教育』に変わりました。「ああ、すっきりしたなぁ。」と思います。

もっと短くすることもできます。人権に真も偽もない。そうすればただの『人権教育』だけで良いことになります。

さらに考えてみれば、教育とは一体誰が誰に対して行うのでしょうか?上に紹介した四つの輝く一等星。すべて青少年です。彼らは、自分で自分の人生をかけて人権について学んでいる。だからあれだけのことができるのです。彼らは学校の先生に教えてもらう必要はありません。とすれば教育という言葉もいらない。

『人権』だけで良いのかもしません。

 

昨夜掲示板の書き込みの中にうつ病に関するものが沢山ありました。体験者の声の中に、

 

>俺が1番しんどいのは、好意的に励ましてくれたりする人も、上から目線だということだ。これは、俺がうつになって初めて分かった。本人は、差別している意識なんかないと思う。でも、うつ病の者は崖の下になんとかぶら下がっているような状態。健康な者はそれを上から見下ろしているような状態。で上から下の方を見下ろして「がんばって這い上がれ」と言ったって無理じゃないか。それを強く言われた時だ。自殺衝動が起こるのは。俺は、自分でもそれが怖い。

 

こういうものがありました。私は、この声をしっかりと受け止めなければならないと思います。自分の心をしっかりと見つめて、他人よりも優位に立っていないかそれをしっかりと点検することが大切だと思います。自分より体の弱い人に対して、親切にアドバイスしているつもりで、実は健康な者(強者)から病弱な者(弱者)に対する差別になっていることがあり得る。

 

「差別されている」と感じるのは弱者の方です。それが自殺衝動にまで繋がるのがうつ病の怖いところです。

 

一時同和教育が盛んな頃、「差別に学べ」とよく言われました。今では、とくに土居においては形骸化してしまっていると思います。部落差別を特殊化してしまったために、何が本当の差別なのかわからなくなってしまっているのです。

 

言葉を変えたほうが良いのではないでしょうか。すなわち、

「弱者に学べ」

と。

「弱者に学べ」と自分に言い聞かせた時点で、生活のなかで出会う相手と自分とを比べます。そして、「どちらが強いかな?」と考えます。もしも、「相手のほうが弱い」と感じたら、その相手に心を寄り添わせるのです。

 

 

教師は傲慢です。生徒に人権教育を施さなければならないと思っているようです。立場上は、たしかに教師は生徒よりも強い。生徒は教師よりも弱い。

しかし、天空の4つの一等星をみてください。教師は彼ら・彼女らに学ぶべきです。

彼らの書いた書き込みや人権作文を、何度も何度も読み返し、自分に引き寄せて、それに恥じない行動が取れているかどうか、その吟味を、教師は正直に、自分自身と向き合ってやるべきなのです。

 

 

今朝のタイモさんの書き込みを読んで、土居中学校で平和学習会のようなものが行われたことを知りましたが、それを聞いて、私はむなしくなりました。「なんだ?それ??」と。

なぜこんなにもむなしくなるのでしょうか。原爆を落とされた土地を訪れなければ、人権について学習できないのでしょうか?でもタイモさんのおっしゃる通り、土居中に原爆が何発も落とされたのではないですか?そして被爆者が今苦しんでいるのではないですか?足元の惨状に見て見ぬ振りをし、そして遠いところの悲惨な出来事を見て立派な感想を書いても、屁のツッパリにもなりません。そのような感想がでてくるから、元2−3さんは同和問題学習の時間がイヤでたまらなかったのだと思います。私も、土居のそのような会には絶対参加したくないでしょう。

 

とすると、土居中のこの「真の平和を考える朗読会」と言うのは、教師から生徒に対して一方的に行われる強育(きょういく)であり、偽物の人権をぶら下げているものだということになります。

 

したがって、今の時点では、人権そのものにまやかし洗脳があるし、また本当の「教育」はいかなるものかを考える必要もあるし、したがって『真の人権教育』というのが最も短くした表題であって、これ以上は短くできないということがわかりました。

                       081010日 大山大仏

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【2】教師の皆さんへ

この世は、どうしてこうも嘘ばかりなのでしょう。せめて、教育の世界は、真実の世界であるべきではないでしょうか。

 

教師の皆さん、あなた達は、どうして教師となったのですか?つい最近教師になった人、もう定年前の人、などいろいろな立場で仕事をしておられると思います。

 

教師という仕事について、あなたはこれからどこへ向かって行くのでしょうか?

何のために教師をしているのでしょうか?

教師として何を本当にやりたいのでしょうか?

 

そんなことを考えたことはありませんか?

 

教師の世界の中にも、嘘があまりにも多すぎます。

土居中のような犯罪社会は別にしても、普通の学校で多くの嘘がまかり通っています。

 

もっと純粋に、もっと簡素に、もっと切実に、もっと愛情を込めて、教師という仕事をするべきではないでしょうか?

そうすることができるのではないでしょうか?

 

例えば、他の県の教師に言うとびっくりされることがあります。それは『授業態度評価』です。四国中央市では、どの学校も授業が終わったら教師にABCの評価をもらうというシステムが確立されました。みなさんは、一度できたシステムは当たり前のように思っていますが、他の県の教師はそれを聞いてびっくりします。それもあきれはてたように。

 

授業の評価をABCで教師がつけるというのは、教師が高みに立って、生徒たちの授業態度をABCで評価する、すなわち、強者が弱者に対して臨む姿勢です。

いかがでしょうか?

 

逆にしてみてはどうですか?授業が終わったら生徒に授業の感想を書いてもらうのです。その中に、授業が分かったかを1から5まで5段階で評価してもらう。もう一つ授業が楽しかったか。これも1から5まで5段階で評価してもらう。そして自由に感想を書いてもらう。自由にということが大切です(成績には関係なく)。

 

最近の教師は何でもかんでも、提出してなかったら「いけない」、「点を引く」とかいう風に脅しをかけます。これは評価を熱心にしているように見えて、実は大変由々しき問題です。自分の教え方の未熟さに直面して、それに悩んでよりよき授業をしていこうと授業の腕を磨く前に、「評価」という鋭い刃物で生徒を切り捨ててしまうのです。

 

授業評価というシステム一つとっても、全教師が、「ああでもない」、「こうでもない」と自分の教育にかける理念をぶつけ合い、すでに作っているシステムを壊し、そして本質は何か、本当に大切にすべきものは何かを、次第に明瞭にしていくことができるでしょう。こうして、教育活動が新たに創造されます。

 

毎年、生徒は変わり、教師は変わります。時代は流れ社会は変わります。その中において、教師も生徒と向き合う中で自分を変えていくという力が要請されているのです。

 

土居中の教師は、幹部教師は、自らが変わることを断固として拒否してきました。そのために犯罪を犯すまでになってしまいました。

 

すでに作られた学校システムの中で、より優れた生徒を育てていくこと、それが教育なのではありません。もっとも弱い立場の生徒が、安心して居ることができる学校。一人一人の能力に応じて適切な指導がなされ、興味が引き出されて、一人一人がやる気を出して学習に臨むような授業。

 

このようなものは、決して上意下達で達成できるものではありません。教師集団の質の高さによります。教師集団の中で最も未熟な先生が職員室で何をぶちまけられるか。それを受け止めることができるか。研究授業でもない普通の授業1時間のために、みんなが夜遅くまで残ってああしたらどうか、こうしたらどうかと授業を作り上げていくことができるか。そのような姿が当たり前に見られる学校であってほしい。

 

今学校現場は、あまりにも忙しすぎて、そのような姿はほとんど見られなくなりました。

 

「人の癖みてわが癖直せ」

 

土居中幹部は、狂気の犯罪者集団となり、異常な学校体制を作ってしまいましたが、それをまったくの対岸の火事として見るのではなく、自分たちの学校の中に同じ要素がないかどうか、それをしっかり吟味することが大切ではないかと思います。

                       081010日 大山大仏

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【3】保護者の皆様へ

 

[ ハンドルネーム(ニックネーム)(必須) ]
隣人

[ 本文(あなたの声)(必須) ]
先程、文字数の制限にかかりエラーとなりました。
折角 書き込みしようと思ったので2つに分けて再挑戦致します。

前回も書きましたが、土居町民ではありませんので、このサイトの
本質とは少し離れた目線で書かせていただきます。

昨日の掲示板では、鬱病等に関するケアの投稿がありましたが、私
は、このサイト上に登場します「桃子さん達」 学生の心と体を以前
から心配しています。

私がこのサイトで彼女達を知ってからの数ヶ月、取り巻く環境が
様々に変化しています。この状態が続けば、彼女達の心は蝕まれ、
いつの日にか緊張の糸が切れるのでは・・・
失礼ですが、このサイト上でも取り上げられている鬱病になる可能
性も排除出来ません。

彼女達は、「まごごろ教育」様 執行部の方達と連絡が取れるようで
すので、皆様の配慮があるとは思いますが、まだまだ思春期の学生
です。
このサイトだけの情報しか持たない私は、保護者の方が積極的に矢
面に立っておられないのが残念に思います。
「後悔先に立たず」との言葉もありますので、時には親御さんにも、
大切なお子さん達の心のケアの大切さを喚起してあげて下さい。

差し出がましいとは思いましたが、メールさせていただきました。

 

 

 

隣人様。大切な大切なお声をどうもありがとうございました。

 

先に、掲載内容の方のご指摘の点についてお礼を申しあげます。1点目については、私もまったく気がついておりませんでした。ご指摘いただいたように早速、致しました。ありがとうございました。2点目については、以前ハッカーに侵入されたときに、並行して別のサイトに移したので、現在両方のサイトを同時に使っております。その関係で特に掲示板から戻るときにサイトが片方に固定されるのです。できるだけ「magokoro」の方に統一するようにします。またお気付きの点がございましたら、お知らせいただけたら幸いです。

 

さて、

上に掲載させていただきましたメールについてですが、本当に大切な部分のご指摘をありがとうございます。私も、ずっとそのことを考えておりました。

 

今の3年生は、特に関川小学校から来た子どもたちは、養護教諭のH先生とは深いきずなで結ばれており、また、関川小学校出身ではない生徒も、H先生に、深い信頼感を抱いておりました。今回、H先生が土居中幹部教師の執拗な攻撃を受けてついに倒されてしまったことは、子供達の心に大きな傷をつけたと思います。その心のケアは絶対に必要です。しかし、その心のケアをどのようにしたらいいのかということについては、お偉いさん方は分からないだろうと思うのです。

 

今、土居中学校には教育長さんが入っておられます。従って、一見正常な形には見られるかもしれません。けれどもあれだけ深く、単なるパワハラではない、犯罪組織をつくりあげた土居中ですから、抜本的な改革のメスを入れない限り、その犯罪の根っこは残るでしょう。

「先生を守ってあげる」と言っていたのにその大好きな先生が倒されてしまった。このとき子供達が受けた心のショックは、如何ばかりのものだったことでしょうか?

 

>この状態が続けば、彼女達の心は蝕まれ、
>いつの日にか緊張の糸が切れるのでは・・・
>失礼ですが、このサイト上でも取り上げられている鬱病になる可能
>性も排除出来ません。

その通りです。傷ついた生徒たちの心は蝕まれるでしょう。大好きな一人の先生が犯罪によって倒されたのに、学校は普段どおりに何も変わることなく営まれている。そのことが、生徒たちにとって、どれほど大きな衝撃でしょうか。

 

このようなときにこそ、むしろ警察が入って犯罪者を逮捕するくらいの根本的治療があった方が、生徒の心のためにはいいのです。そのことによって生徒の心の傷は解放されます。そして次第に癒されていきます。

 

ところが実際には、大好きな先生が倒れて姿を消し、その先生を倒す張本人となった教師たちは以前どおり平気で学校の中を闊歩しているのが現状。とすると、いったいどこに正義があるのでしょうか??

 

正義がない!!のです。

学校の中に正義がないのです。

学校の中で悪がまかり通っているのです。

それが、日常の風景となって、その中で生活する生徒たちの心を、次第に次第に蝕みます。

 

そこのところを、市教育長さん、県教育長さんに、緊急に知って動いてほしかった。

 

早く、少しでも早く、犯罪者が罰せられることが、子供達の心のために必要なのです。

 

 

>このサイトだけの情報しか持たない私は、保護者の方が積極的に矢
>面に立っておられないのが残念に思います。
>「後悔先に立たず」との言葉もありますので、時には親御さんにも、
>大切なお子さん達の心のケアの大切さを喚起してあげて下さい。

 

 

ご指摘のとおりだと思います。子供を助けられるのは、親しかいません。親が、内申書などの報復を恐れて、黙っていたら、見えぬところで子供の心が蝕まれていくのです。

一般市民さんが提案してこられましたが、誰かが先頭に立って、署名活動を行うことができないものなのでしょうか。

 

もちろん、私は子供を人質に取られている保護者のお気持ちもよくわかります。目をつけられぬようにじっと辛抱して、子供が卒業するのをじっと待つしかない。

そのお気持ちもよくわかります。なぜなら、土居中は教師が平気で犯罪を犯す学校だからです。そうしても全然犯罪を裁かれない学校だからです。こんな危険な学校はありません。先生に目をつけられないように、ひそかに、ひそかに動くしかありませんね。

 

ところで、河村のことを話します。A教諭です。河村のページを作るころは彼も少々は調子が良かったのです。それで、河村は、こう言っていました。

「保護者は、報復を恐れて、誰も先頭に立つことはできないだろう。だから自分が、5分間でも抗議の座り込みをしようと思う。」 

しかし、彼も、私と同じように、周囲の不理解の強い波動を受けて起き上がれなくなりました。

 

 

さて、保護者はどうしたらいいでしょうか?子供を守るためにどうしたらいいでしょうか?

 

私が入院する前に強調して書いていたことを思い出してください。

精神世界の常識=日常世界の非常識

精神世界の非常識=日常世界の常識

 

この公式です。

精神世界と日常世界は全く逆だと思っておくと良いでしょう。

 

特に今の土居中は、特別危険な精神環境です。その中で、まじめに頑張ろうとすると、すなわち特別危険な日常世界の常識を生きることになります。そうすると精神世界の非常識につながり、精神世界では何らかの自我防衛機制を働かせます。その結果として、不登校になるかもしれません。引きこもるかもしれません。暴力行為として出てくるかもしれません。

 

ということは、この特別危険な精神環境である土居中では、非常識を生きる、すなわち「まじめに頑張らない」ことが大切だということです。

 

保護者の皆さんは、子供さんに行ってあげて下さい。「土居中でなんか頑張らんでかまん、かまん。ええ加減にしとけ。適当に行っときゃ上等。」

 

お子さんが、学校のルールを守らず、乱れた服装で注意されるようなら万歳です。たいへん健全な精神を持っていると言えます。

 

そういうわけで、桃子さんは私は心配をしておりません。元暴力団の優しい素晴らしい「おっちゃん達」がいるからです。そうして、書き込みをしていた彼ら彼女らは、お互いにつながったそうなので、リアル世界でその元暴力団の優しい素晴らしい「おっちゃん達」のところへ遊びに行っているかもしれません。それなら、大丈夫です。普通暴力団といえば、危険だと見るのですが、桃子さんの書き込みから私は、その元暴力団のおっちゃん達がとてもいい人だと思いました。土居中の幹部たちの方が、よっぽど悪人で危険です。

 

保護者の皆さんは、子供さんの心の変化を、キャッチするように心がけてあげて下さい。いよいよこれから同和問題学習で、土居中教師は色々な手で勝負に出てくる時期になります。子供は宿題を持って帰ります。「親が同和問題についてどういうか聞いてこい」という宿題です。じつはこれは大変危険な爆弾であって、学校は、いけにえにする親を探すのです。同和問題についてふとどきな発言をする親がいたら、それを学級の問題として取り上げ、学級通信いっぱいにクラスの子どもの感想を書く、こうやって責めていきます。土居中の同和教育は、何十年も前から、毎年変わることなくその路線なのです。

 

考えてみてください。犯罪者によって大好きな先生が倒された。そして、のうのうとしてその犯罪者たちは学校の中にいる。それだけでも子供にとっては許せない。

差別はいけないだって!?

何が差別はいけないだ!?

自分たちが差別以上の大きな犯罪を犯しているじゃあないか!!

 

子供達はたとえ口にしては言わなくても、潜在的にこのような感情を持っています。

それなのに、土居中の同和教育に合わせて、「差別はいけない」と親が言ったとしたら?ここで、親の真価が問われるます。「この親には話をしても通じない」と思ったら終わりです。子供は貝のように固く心を閉ざしてしまいます。そうなると、心の上では大変危険な状態が訪れます。自分の心の悩みを外に出さなくなるからです。どこにも出さなくなるからです。

 

親が、「土居中の同和教育やか偽もんじゃ!H先生倒しといて何が同和教育じゃ!恥さらしが!」と言ってあげてごらんなさい。子供は救われるでしょう。そして、うまい具合に、今後の犯行の手口を一緒に考えればいいのです。「一生懸命書いたんだけど、お父ちゃんに渡したら、仕事に持っていってしもた。」と言って宿題の感想文は出さない。それを何回か続けて、最後には親が担任に、「すみません。全部わしが間違ってシュレッダーにかけてしもたんです。」といえば良し。

 

9月12日の保護者会では、生徒の『ましみず』の日記を悪用してH先生を倒してしまいました。『ましみず』などは、いい加減に汚い字で書けばいいのです。

 

私は、元教師です。そのころ言っていたこととは全く反対のことを今書いています。

 

それほど、土居中は狂っていると認識してください。

 

もう一度、延べますと、

市教委、県教委から犯罪者教師に厳しい処分が降ること、これが最も望ましい。

それがない場合は、保護者が立ち上がって署名活動などをすることこれが望ましい。

それもできない場合は、保護者が、子供に日常の非常識を勧めてあげること。

 

これが、私の考える処方箋です。

 

日常世界の常識の力は大きくて、私が入院する直接のきっかけになったのもじつはそれです。ここで述べたようなことをつれづれ草で声を枯らして警鐘乱打していました。

しかし、もっとも親しいところにいる人から、厳しく攻撃されました。例えば、つれづれ草のどこかで、私が土居町を『狂った土居町』と定義したとき、それを読んだ親しい人が、かなり強く私に抗議をしました(実はそれは私の妻です)。また別の人は、メールで私がこのサイトのトップページに「H教諭倒される」と書いたことに対して強く抗議をしてきました。どちらも、私が心を開いていた人ですので、突然の思いがけない攻撃に対して私はやられてしまい、10日間ほど、しばらく、みぞおちに嫌な感じが続きました。昔うつに陥る前に、このサインがあったものです。

 

 

そういうわけで、日常の常識に対抗するのは口で言うほど生優しいことではありません。けれども、私の経験上言いますが、500人生徒集団がいれば、今回のケースは最低でも1割(〜2割)すなわち50人(〜100人)の生徒は、心に何らかの傷を負っており、今後の対処如何では、さらにその中の1割以上すなわち5人(〜10人)以上の生徒は、心身疾患を確実に発症するでしょう。それがあなたのお子様かもしれません。こう考えると、これはわが子だけではなく、土居中全体の深刻な問題なのです。

 

                       081010日 大山大仏

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【4】平成土居中教育維新

 

久しぶりに、面白の滝へ行こうと思って、車を麓の貯水場のところに止めて歩き始めました。からだが重たい…。ぽつりぽつりと歩いていきます。実際には、ずっと林道が続くので車で登っていくことができるのですが、私は、『さまよえる王子』の王子と少女が歩いたあの体験がしたいのです。しかし、歩き始めてから20分後、しんどくなって腰をおろして休みました。無理をしてはいけないと医者から言われているのです。

というわけで、まだまだ面白の滝ははるか遠くという地点で、今日は折り返し戻りました。

 

さて、滝へ行くという目的は達せられませんでしたが、山道を歩くのは本当に気持ちがいいものです。いろいろな考えが頭に浮かんでは流れ去っていきます。

 

そんな中で、今日は二つの考えがやってきたのですが、そのどちらかをここに書こうと思いました。一つは、大変常識的な、誰が聞いても文句一つ出ない話です。そしてもう一つは、おそらく常識人が聞いたら、「そんなことを書くな」と私に避難を浴びせてくるであろう話です。

どちらにしましょうか?今も迷っているのです。

 

 

さて決めました。後者を選びます。

 

今朝の、桃子さんの話にあった元ヤクザの方のお話です。私は、素晴らしい方だなと思います。とくに今日のお話の中で、自分が失敗したからオトシマエをつけなければならない。そこで小指をつめるのを、全部自分でやってしまった。これは、ちょっとやそっとでできることではありません。普通私が話に聞いて知っているのでは、まな板の上に小指を乗せてそのうえに刃物をのせ、そしてハンマーでガンとやってもらうと聞いています。実際の光景を見たことはありません。

 

この話を聞いて、思い出したのは、昔の大人の切腹の話です。日本の侍は、恥ということを大変重要していました。それで、相手に侮辱されたような場合は、腹を切って自分の潔白を示す。そういうことが、当たり前にできたのです。

 

以前、明治維新の話をしましたが、幕末期、幕府の官僚は腐っていましたが、全国の侍たちは、死ぬことをちっとも恐れていませんでした。そういう風土が日本全体にあったから、外国人がそれを恐れて中国に侵略したようには日本に入って来れなかった。そして明治維新が成功した。それが、100年後の日本の繁栄につながっている。

 

 

さて、私は音声入力ソフトで思ったままのことを喋りながら入力しているので、書き始めたときには何を描きたかったのかわからない、ということはよくあります。今もそうです。けれども、ここまで書いてなぜ私が、常識人からは非難されそうなヤクザの話を選んだか、それが分かりました。

 

買いかぶるわけではありませんが、桃子ちゃんの知り合いのおっちゃんの元ヤクザの方は、侍である。私はそう言いたいと思います。

人間、誰でも失敗をすることがあるのですが、組織にとって致命的な失敗であった場合、それをお詫びするために、ヤクザの世界では小指を詰めるということをします。見事な謝罪だと思います。

武士道であると思います。

 

それに比べて、土居中幹部はどうでしょう。たとえば1月16日の件。校長に無断で警察を呼んだ。それは組織にとって致命的なミスであった。ところが、それを教育委員会に謝罪して落とし前をつけようとするどころか、嘘を塗り固め、警察にまで嘘をついて、さらには勝手に教員を集めて嘘の再塗り固め(8月25日)する始末。

自分のミスを、自分で償おうということができないのです。そもそもあのころは、教育委員会の河村前次長も一緒になっていたわけですから、行政総ぐるみで嘘をついていたということです。

 

それが、今も続いているのです。

新教育長さんは、精力的に解決しようと尽力なさっていますが、少なくとも、1月16日以降の件に対してきちんとオトシマエをつけさせなければ、組織として解決したとはいえないのではないでしょうか?そしてさらに、さかのぼって、土居中と教育委員会がなぜあんなような醜態をさらすことになってしまったのか、これまでの何十年間という歴史を紐解いて、厳しい吟味の光を当てなければいけないのではないでしょうか?

 

組織として考えるならば、ヤクザの世界の方がよっぽど正常だと言えます。教育界の方が、よっぽど狂っていると言わざるを得ないのではないでしょうか?

 

市長さんはおっしゃいました。「是は是、非は非。」

これは大変重たい言葉です。「非は非」の決着をきちんとつけられないような組織は、結局は腐っているのです。

 

教師の仕事は聖職です。それは、自分を犠牲にしてでも、児童生徒を守るという使命があるからです。それなのに、その教師が、陰で悪口を言い合い、生徒を保健室から締め出し、挙げ句の果てには、転校に追いやってしまう。教師集団が、典型的ないじめ集団になっているという異常な土居中学校。オトシマエという言葉が嫌ならば、責任と言い換えます。どう責任をとるのでしょうか?まだ彼は全然責任を取っていません。社会的責任を、一体どうとるのでしょうか?

 

そもそも、教師は、社会的責任の取り方さえわからなくなってしまっているのではないでしょうか?あの、土居中犯罪者集団(幹部教師集団)が行ってきた行為は、誰が見ても許すことはできないでしょう。ならば、少しでも早くその社会的責任を取らせるべきです。行政処分が必要です。懲戒処分が必要です。

 

それがもしもわからないならば、桃子ちゃんの知り合いの元ヤクザのオッチャンを講師に招いて、講演してもらっては如何でしょうか?

 

国会を見ても、大手食品会社を見ても、嘘ばっかり。

これで、若者たちが将来日本を担えるような大人になれるでしょうか?今の大人たちが、教育という責任を放棄し、醜態を晒している様は、10年後に20年後の未来にどうつながるでしょうか?そして、それが100年後の日本にどうつながっていくのでしょうか??

 

吉田松陰は、結局大きなことは何もせずに切腹をして散っていったように見えます。けれども、そこに大きな意味があったのです。明治維新を成功に導いた大きな志が、吉田松陰の辞世の句と切腹にあったのです。

 

真の教育を。

 

真の教育を!!

 

そう叫ばずにいられません。

 

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【5】もしも

 

もしも。もしも、私が岩窟王のように(確か主人公はダンテスと言ったと思いますが)、脱獄不可能な無人島の牢獄に入れられるとします。一生そこで死ぬまで暮らさなければならない。それで、「本を1冊と音楽を1曲だけ持って行ってもいい」と言われたとします。さて私はどの本とどの曲を選ぶだろうか?これが、実は昨日、山道を歩きながら最初に浮かんだ考えなのです。

 

本の方は、すぐには決まりません。短い本だとすぐに読み尽くしてしまうでしょう。しかし短い本でも、大切な祈りが書いてあるような本は欲しい。でも、ドストエフスキーの『罪と罰』のような、牢獄での生活に匹敵するような苦しみを描いた本があった方が良いかも知れない。これはまたじっくり考えてみたいと思います。

 

曲の方ですが、これはどうしても1曲だけには決まりません。

もって行きたい曲は4曲あります。すべてベートーヴェンで、交響曲第5番と第9番。それから、ピアノソナタ第31番と第32番です。

それで、私はどれを選んだらいいでしょうか?これも大変難しいです。最近、よく『運命』を聞くので、これにしようかなとも思います。しかし、暗い牢獄で死ぬまで暮らさなければならないとすると、運命の第4楽章は逆にしんどすぎるかもしれない。

そこで、私は、頼み込んで頼み込んで、1曲ではなく2曲にさせてもらいたい。演奏時間からいっても『運命』1曲分ぐらいにあたるので、といって、ピアノソナタ第31番と第32番の2曲を持って行かせてもらいたい。

 

さて、この二つの曲ですが、それぞれ作品番号110番と111番です。ピアノソナタ第32番はベートーヴェンのピアノソナタの中で最後のピアノソナタです。ベートーヴェンは「パンのために作曲しなければならないのは辛い」と言いながらこれらを作曲したと言われていますが、この2曲は、実に実にすごい曲です。本当に、音楽が、宇宙のリズムと融合したようなそんな曲です。

 

ピアノソナタ第31番は、3楽章からなります。その第3楽章に、フーガが2回出てきます。このフーガの美しさが絶品なのです。第1声から始まり第2声が重なりそして第3声。それは、まるで天使が天上へ登っていくように、どんどんと美しい世界を描き出していきます。一定のテンポで進んでいくのですが、途中で「その流れを止めて、その美しさをじっくり味わいたい」とこんな気持ちが起こります。それほど美しい。

最初のフーガが終わった後、静かな間奏を挟んで、2番目のフーガが始まります。最初のフーガよりも短いけれども、正に天上界にたどり着いたかのような、最初のフーガを上回る美しさ。

これが、ピアノソナタ第31番です。

 

次にピアノソナタ第32番。

これは2楽章からなります。第1楽章は『運命』の第1楽章を思わせるような激しい曲想です。まるでベートーヴェンの苦難の人生を表しているかのようです。

そして次の第2楽章。変奏曲から始まります。2回ずつ繰り返しながら、しだいに軽やかに明るく美しく変奏されていきます。さて、この変奏の最後の部分。これがすごいのです。本当に、宇宙のリズムを音楽がとらえた、そう言えると思います。これには、私自身の昔の経験があるのですが、それについてはまた別の機会にお話したいと思います。

クライマックスを過ぎた後、なお一層美しく曲は進んでいきます。すでにもうそこは天上界。私にはそう思えます。

 

 

それでは、初めの話に戻りましょう。私はこの2曲ともう1冊なんかの本を持ってずーっと離れた島の牢獄へ幽閉されます。岩窟王では、ダンテスは脱獄をします。彼には婚約者がありました。だからその婚約者のもとに帰りたいという強い強い気持ちがありました。

 

私は? 私には、もはやそういう強い気持ちはありません。

できれば、そこで静かに人生を振り返り、そして病になって息を引き取りたい。今の私はそう思っています。あるいは、そこで処刑にあって殺されてもいい。その時に自分を殺す相手のために祈れるかどうか?

 

ベートーヴェンの、交響曲第5番や第9番は、いずれも「苦しみを突き抜けた後、歓喜の世界がある」という強烈なテーマを表しています。けれども、もし牢獄生活の後に病死か処刑かしかないとすれば、あのような華々しい喜びの第4楽章はきつすぎる気がします。

 

それに対して、ピアノソナタ第31番や第32番は、死に向けて平穏な心を準備するのにふさわしいように思います。

 

 

ベートーヴェンの音楽と、牢獄生活や処刑と結びつけてお話しすると、ベートーヴェンの音楽に変なイメージを持たれやすまいかと少々心配ですが、これは、私の率直な思いですのでみなさんは、ご自分で聞かれてご自分のイメージを持てばいいと思います。

 

 

最近、希死念慮と言いますか、それほどではないけれども、その軽いやつと言いますか、そんなものが私の中にあります。うつ病には完全回復は無いのだとつくづく思います。うつ病は、一度なってしまえば、あとは回復した後も、「中間期」と呼ばれる時期に入ってそれで終わりです。中間期とは、次にうつ病が再発するまでの中間の時期ということです。だから再発しないように、気をつけなければならないのです。

 

先ほどの話の、牢獄での生活ですが、それを何年も続けるのは堪えられません。かといって自殺は考えません。それならば、病死とか、津波にやられるとか、いちばんいいのは、即刻処刑してもらうこと。その処刑の時に、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番か第32番をかけてもらい、その最も美しいところで、自分の魂込めた祈りをして、曲が終わった瞬間、額に弾丸を打ち込んでもらえれば、最高ではないかと思います。

 

 

さて、なぜこんなことを考えるのかなと思ったとき、小中学生のうつ病が、今、増えているという深刻な状況があるからです。先ほど述べたように、一度うつ病になってしまうと、その後は無理は出来ません。再発をしないように十分用心しなければなりません。うつ病体験者から見れば、パラリンピックを目指して必死で練習している人はとても羨ましく思います。

 

つまり、うつ病になってしまうと、牢獄に閉じ込められたとしても、もはや脱獄を考えようというようなエネルギーさえわかないということです。

 

 

 

今は世界の経済が危機に瀕しています。それは今年だけのことではないと思います。今後何十年かのスパンで大波が押し寄せてくるでしょう。

今の若者たちが、その荒波の中を生き抜いていきそして日本を支えていかなければならないのです。

その力を育むことを目指して、教育者は、子供達の内なる力を育んであげるべきです。教師は、もっともっと一人一人の児童生徒に心の波長を合わせていき、自分の心を磁石のようにして子供達の悩みを吸い込み、そして同伴していく…このような心の力を磨かなければなりません。

 

 

残念ながら、土居中にはそのような姿勢は皆無です。それどころか、子供も保護者も、教師の目を恐れ、口を閉じ、心を閉ざして、「収容所」送りされないように、教師の眼鏡にかなうように生きていくことで精一杯です。保護者は3年間が無事終わるようにただ祈ることで精一杯です。

 

隣人さんが先日下さったメッセージを、皆さんにもう一度お読みいただきたいと思います。土居中は、超危険なところです。A教諭、H教諭が倒されたことがそれを物語っています。M君が転校を余儀なくされたことがそれを物語っています。

 

 

このような恐ろしい場を作ってしまった人物たちを、ただ単に年度末に異動させて終わろうなどと言うのはもってのほかです。ウィルスを四国中央市に振りまくようなものです。もっと広範囲にバラバラにして愛媛県内に振りまいて浄化させていくしかないでしょう。

 

しかし、そのためには、駆け引きなく、また彼らが集まることもなく、一人一人が「本当に悪かった」と後悔の涙にむせび泣きながら、所かまわずに謝罪する、そのような心境になって初めて、今申し上げた県内の分散異動で彼らに新しいチャンスを与えることも出来るかもしれなせん。

 

懲戒処分という、本来果たすべき責任を、行政がどうしてもできないと言うのであれば、その次の可能性としてどうしたらいいのだろうかと考えていました。

 

どちらにしても、悪かったからごめんなさいですむような問題ではありません。人一人の人生を壊すようなことを繰り返しやって来たその罪は重たい。その謝罪は、先ほど申し上げたように、自分の人生をかけるような謝罪でなければ通じるはずがありません。

 

 

                       081011日 大山大仏

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【6】すみれ様、ありがとうございました。

 

すみれ様。心の芯に届くメッセージをどうもありがとうございました。感謝いたします。また、お礼が遅れましたが、心理療法士R様、貴重な専門家からのメッセージをどうもありがとうございました。心から、お礼申しあげます。

 

退院して、少し調子が良くなって、また立ち迎えると思っていたのですが、実際にはこの問題に立ち向かうにはまだまだ十分な回復ができてなかったということがよくわかりました。

昨日、すみれ様のメッセージを見て、何度も読み返しました。なぜなら、昨日はずっとあの「額に弾丸」というイメージが重たい心と一緒にあって離れなかったからです。

 

しかし、すみれ様のメッセージを妻にも伝え、また心を一つに合わせることができるようになりました。そして、夜遅く妻と話をしていて、やっと新しい視点が見えるようになりました。

 

それについては、詳細は、また、別の機会にゆっくり書きます。

 

今は、ゆったりと、心にゆとりを持つこと。それが私にとって必要であること。

それが、やっと客観的かつ主体的にわかったのです。

 

昨日昼間のことを書きます。昨日午前11時ごろ、再び、面白の滝へ挑戦しました。けれども、それは、半分は大変危険な気持ちからでした。ムリはしないように医師から止められています。しかし、ムリをしなくても、気分が落ち込んで仕方がないのであれば、どうでもいい、無理してやれ、というやけくそのような気持ちだったのです。

 

さて、結果を言いますと、途中疲れて休みながらも(本来ならそこで引き返すべき)、とうとう面白の滝に着くことができました。10年以上ぶりです。木々が驚くほど高くなっています。

しかし、滝の上の岩に座ってみる土居町そして瀬戸内海の景色は最高でした。

 

そもそも、私が面白の滝へ行きたいと思ったのは、『さまよえる王子』の、王子と少女の行った場所へ行ってみたいという、あの小説の一場面を追体験したいという気持ちからでした。

 

岩の上で、水が流れ落ちていくのを見ながら、「そこに王子と少女が座っていたんだな」と思います。

ところが、それ以上には、気持ちが入っていかないのでした。

それよりも、「ここから落ちたら死ぬだろうか?」とそっちの考えに、心が傾きます。頭の打ち所がよかったら死ぬかもしれないけれど、この程度では死なないだろうなと思います。すると次に出てくるのは、「額に弾丸」というイメージなのでした。

 

滝からの帰り道、ずっとそのイメージが頭の中にあったように思います。「ベートーベンのピアノソナタ第32番なら、曲がおわったところで打たれたらいい。でも、ピアノソナタ第31番は、待てよ。これは、もう少し早く、2番目のフーガの一番いいところが過ぎた時点で打たれるのがいい…」などと考えながら。

 

結局、昨日は一日中、こういう重たい気分から離れることができずに、悶々としていました。

 

 

 

 

 

そうして帰ってきてから、すみれ様のメッセージを見つけたのです。

 

あなたのメッセージを何度も読み返しました。けれども、重たい気分から離れることはやはりできませんでした。

あなたのメッセージを妻にも伝えました。

それがよかったのかもしれません。妻との心の距離がぐっと近づきました。夜遅く、妻と話をしているとき、妻が言いました。

「お父さんは、今そういう状態になっとるのがええんよ。もし、元気になってしもとったら、『土居の悪を倒せー!』いうて突っ走るやろ。そしたら、それこそ、ほんとに倒れてしまうよ。」

私は、思いました

「あー。ほんとにそのとおりだ。」

 

そして、つながったのです。すみれ様のおっしゃってくださったことが。そして、心理療法士R様のご指導くださったことが。

 

昨夜は入眠剤を飲んでぐっすり眠り今朝は8時前に起きました。希死念慮のようなものは今日はすっかりありません。

 

このペースで、行きたいと思います。

 

 

 

 

 

思えば、A教諭(河村)が倒されて以来、「H教諭が倒されることは防がねば!」と思ってきましたが、H教諭もたおされてしまい、それが一大事であるというのに市教委も県教委も反応と対応が芳しくなく、私は、「それでいいのか!!!」と警鐘乱打していました。それは、自分自身をすり減らすものでした。

 

冷たい世界。矛盾した世界。食品偽装と同様に腐った教育界。

それがあってはならないものだと、警鐘乱打していました。

しかし、残念ながら、それがあるのが現実です。

この現実を受け止めなければならない。そう考えが変わったとき、私の中の、「額に銃弾」というイメージはやっと消えたのです。

 

腐った教育界。

 

残念ですが、この現実を認めるしかない。

その上で、ポツリポツリと、山道を歩くように、つれづれなるままに発信していこうと思います。

 

ちょうど、昨夜深夜、青木議員さんのサイトで9月定例会の様子がムービーになっていることを知り、早速視聴しました。音声もはっきりと聞き取れました。こうして再度聞いてみると、見事な青木議員さんの一般質問にうなります。

それに対して、野村教育長さんの答弁は、始めて聞いたときはよかったと思ったのだけれども、今聞きなおしてみると、かなり認識が甘いものであることを感じます。

 

たとえば虚偽文書の再提出を放り投げてしまっているところは大問題です。

 

土居町の教育界がこれだけ腐ったものになってしまったのは、この20年間の間のことです。20年間という時間。そして、同和団体と土居中教師が、教育委員会(行政)に圧力をかけ、篠崎教諭グループが同和団体とつながって、まさに名実ともにお山の大将になって教育委員会(行政)を道具に使い、支配体制を作り上げていってしまった。同和団体は、H議員を市議会に送り出すという作戦も成功させ、解放補助金をはじめさまざまな利権を手に入れて、それらを使ってさらに支配人脈を固める。

 

このような腐りきった状況ですから、毎年気に入らぬ教師を2,3人血祭りにあげるなど篠崎教諭にとっては、何の罪意識もなくできること。なぜなら、後始末は、バックの同和団体がやってくれるから。

 

ナサケナイ市教委。なさけない県教委。

 

そういうわけで、この権力構造の解明に、四国中央署は全力を挙げて欲しい。

市民も、裏情報を提供して言って欲しい。

 

私は、元教師ですが、そして、同和教育には情熱を注ぎ込んでやっていたものですが、今、明言します。

 

同和教育は要らない!!!

 

人殺し教育は要らない!!!!

 

同和団体は解散するよう、条例をつくったらいい。

 

話が長くなりました。

ここまで、見えて、私の希死念慮は収まったのでした。

                      

 081013日 大山大仏

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【7】旅の想い出

 

突然ですが、昔よく行っていたサイクリングのことについて書きたくなりました。そのなかで、今、心に浮かんでくる美しかった自転車旅行のことを書きます。

 

教員になって3年めの時のことです。夏、新居浜駅から自転車を輪行(りんこう)をして長野県の茅野駅まで行きました。そこで自転車を組み立て、登り始めます。

さてなぜこのサイクリングコースを選んだかというと、いろいろなコースを紹介している本の中で、これが、健脚コース(つまり1番しんどいコース)であったことと、雄大なダウンヒルが楽しめると書いてあったことです。

 

しばらく進んで木陰に入るとからと乾燥した涼しい風が頬にあたります。やっぱり長野は違うなと嬉しくなったものです。

 

ところが、本格的に登り道に入った途端、私は後悔しました。「来るんじゃなかった。」それほど厳しい勾配の登り道だったのです。10段変速の自転車の一番軽いギアにしますが、それでもなかなか進みません。自転車を降りて押しながら登ったり、とにかく、最初の休憩目標地点である蓼科湖に着いたときには全身くたくたになっていました。そこで1時間くらい地面にへばりついていたでしょうか。

 

なんとか体力を取り戻し再び登り始めます。あれから40年近く経った今でも鮮烈に覚えているのは、途中の川の水が流れ落ちている場所のことです。まさに氷水のような冷たい水。それをのどに入れた時の強烈な気持ちよさ。

生き返るような気持ちがしました。

 

さらに登りは続きます。うれしいことは、家族連れの自動車が追い越していくとき、窓から「がんばってくださーい」と子供が声をかけてくれることでした。

こうしてついに白樺湖と女神湖の分岐点にたどり着きます。豪快なダウンヒルのできる道は、白樺湖の方です。さあ!下りはじめました。

 

それはすごい、豪快なダウンヒルでした。このときには、「ああ。本当に来てよかった!」と思いました。まっすぐな下り坂が、何kmにもわたって続くのです。途中一切ブレーキをかけません。自動車と同じ速さで下っていきます。体全体をすり抜けていく風の心地よさ。自転車でなければ、この快感は味わえません。

 

こうして白樺湖に着いて、湖の周りをゆっくり歩きました。もう夕方だったのでそこのキャンプ場で泊まることにしました。携行用のシュラフは持ってきていましたが、テントは持ってきていません。テント貸し場へ行くと、もうすでに全てのテントが貸し出し済みとのこと。「何とかならんでしょうかね」と食い下がって聞くと、「下のシートはないが上に張るやつだけだったらある。」「安うなりますか?」

するとこっちの足元を見たのか、「いやぁ。貸し出すからには同じ値段だね。」

それでも、ないよりましたので借りました。もうキャンプ場はほとんどどこもテントが張ってあります。隅っこの方に空いているところを見つけました。テントが2張、張れそうなほど空いています。

 

さて、この後、一つの事件(というほどでもありませんが)が起こります。ちょうどここで、私の人生の分岐点があったのです。当然そのときにはそんなことは分かりません。テントを、左に張ろうか、右に張ろうかと少し考えて右に張ることにしました。

 

夜中のことです。もう私は寝入っていました。突然、なんかものすごく恐ろしい感覚で目を覚まされました。ドーーンというような音がした気がします。辺りがザワザワしています。テントを出て見てびっくりしました。私が、左に張ろうか、右に張ろうかと少し迷ったその左側の方に、なんと車が落ちていたのです。ちょうどその2、3メートル上が駐車場になっていて、車を止めていたのだけれども、パーキングブレーキを十分にしてなかった車が、斜面をしだいに降りていってそこへ落ちたのです。落ちた後、その先のテントにまで車が突っ込んでいて、血を流した人がテントから助け出されていました。当然救急車がやってきました。

私は、考えてみてぞっとしました。何気なく右側を選んでテントを張ったのだけれども、もしもあの時左側を選んでテントを張っていたとしたら、寝ている私の真上に車が落ちて、きてすでにその時即死していた…。

 

今になって思い出してみると、単なる偶然ではなく何らかの力が私を助けてくれていたのだと思います。

 

この自転車の旅はまだまだ続きます。翌日車山まで登り、信州の美しいビーナスラインを終点まで走り、高原の景色を堪能しました。そして松本へ降りてきます。松本駅へ着いたころ夕立が降りました。弟が京都に住んでいたので、そこから京都までは、また輪行し、弟の下宿へ一泊させてもらって、翌日京都から奈良を通って和歌山まで行きます。そこで一泊し、翌朝船で鳴門へ渡り、徳島そして吉野川沿いの道を通って新居浜まで帰ってきたのでした。

 

そういえば、吉野川沿いのある喫茶店で、自転車に取り付けてあるペットボトルが空になったので「水をもらえないか」と入ったとき、親切に水だけでなく氷までも入れてくれ、「がんばってね」と見送ってくれた人がありました。

こういう出会いがたくさんあって、多くの人に助けてもらいました。

 

カメラを持っていなかったので、この旅行の写真は全然ありません。

けれども、それだけになお一層私の中には、40年近く経った今も、鮮烈に残っている旅です。

 081014日 大山大仏

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【8】お別れ

突然ですが、ニュージーランドのほうへ長期療養滞在することになりました。最低3ヶ月間は帰って来ません。パソコンを持っていけば、あちらで同じように仕事をすることはできるのですが、それでは療養にならないと主治医から止められたため、パソコンは持っていきません。

 

したがって、私は、しばらくまごころ教育とはお別れすることになります。これまで私の拙文『つれづれ草』をお読みくださいましてありがとうございました。またまごころ教育の趣旨に賛同してくださった皆様方、本当にありがとうございました。これまで閉鎖されてきた土居中学校に風穴を開けることができたのではないと思います。風穴を開けてみれば、そこは9.11のテロによって破壊されたニューヨークの高層ビルの残がいだらけの風景だったように、おどろおどろしい物が次々とあらわになってきます。

 

立て直しには、時間がかかるでしょうが、10年先、20年先、そして100年先を見据えて、子孫のために、我々が今尽力するべきです。

 

まごころ教育のサイトはこのまま残しておきますが、新しい活動はとりあえずしないことにしました。もしするとすれば、新しい音声の公開でしょう。インターネットでは、できることに限りがあります。そして、今の私の健康状態を考えたとき、最初にお話をした選択をさざるを得なかったのです。

そのようなわけで、サイトの更新はされませんが、まだこのサイトの存在を知らない方も大勢思います。そのような方に、一人でも多く知っていただけるよう、皆様のご協力をいただけたら幸いです。

 

掲示板の方は、いつでも書き込みできますのでどうぞご利用ください。土居中生や、その保護者の方そして土居町の地域の方々が、安心して書き込みできるようにならなければ、この問題は解決したとはとても言えません。そして、今この問題を解決しなければ、土居町は将来廃れていくばかりでしょう。

 

四国中央市の、そして、愛媛県の問題として、みんなで切実な気持ちを向けて心を合わせて、この問題の解決に取り組んでほしいと思うのです。

 

最後に、これまで伏せていた音声の場所をお伝えしておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


音声No.1〜3は、トップページの上手の写真の赤丸の中にあるUFOをクリックする。(『うつ病差別』、『生徒イジメ』など、大変な問題のある音声。)

 

音声No.4〜5は、トップページの下図の写真の赤丸の中にある部分へマウスを持っていく。色が変わったらそこをクリックする。

(同僚の悪口、土居中私物化の手口がわかる音声)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


それではみなさん、土居中学校の問題の解決を、土居町の問題の解決をよろしくお願いいたします。

これまでありがとうございました。

さようなら。

 081015日 大山大仏

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