昨夜9月16日に、一般市民さんが、笹岡 優さんの論文の書き込みを始めてくださいました。

驚くほど、今の土居中と似ています。

それもそのはず、土居中は10年前に、ここをモデルとしたそうですね。

これは、そこで起こった事実を客観的にまとめた非常に価値のある論文だと思いますので、こちらに写して保存させていただくことにしました。

 

と、実は、先に一般市民さんの了解を得なければならないのですが、とりあえず、サイトのほうを作って動作テストもしてから、お願いの書き込みをしようと思います。

 

 

 

 

[1329] 笹岡 優さんの論文  投稿者:一般市民

 

目次

論文@ 論文A 論文B 論文C 論文D 論文最終

 

 

 

 

高知・土佐山田町での異常な「解放教育」とのたたかい

児童22人転校の背景になにがあったのか

笹岡 優 19971110日号

 

論文@
 高知県の東部に位置する人口23.000人の土佐山田町。この4月には、橋本大二郎県知事が政治公約として掲げてきた「高知工科大学」が開学し、町をあげての「歓迎」ムードを吹き飛ばす問題が起こった。
 同町の中心地にあたり、規模も一番大きい土佐山田小学校(児童数540人)で、22人(教育委員会14人)が転校し、又入学予定の10人も他の学校に入学先を変更した為一クラス減になる、などの重大事態が発生した。「学級の荒れなどを理由に」「児童14人が転居・転校」(高知新聞)と、新聞やテレビのワイドショーでもとりあげられ、全国的に報道された。
 なぜ、子ども達が、みずからの通っていた学校に見切りを付け、学校と教職員を拒否したのか。原因は何か。ここまで事態を深刻にしたものはなにか、経過を元に検証してみようと思う。

「解放教育」のない学校に行きたい
 山田小学校は、校区内に同和対策地域がある。同地区は、市街化の中心であったため比較的整備が早くすすみ、一般地域との格差は是正されてきた。同和体得地域2440人(981世帯)で、43%と改善され、実態としても前進してきている。町の同和対策課も「ハード面での残事業はない」としている。ところが、「心理的差別はまだまだ根強く、差別事象は後を絶たない」(同和対策本部長)などとして、逆に「同和教育」「啓発活動」を一層強めてきた。
 そこで推進される「同和教育」は、「解同」(部落解放同盟)の「解放理論」をもとにした「解放教育」である。
 転校した児童の保護者は、当時の様子を涙ながらに語る。
 「同じ悪いことをしても、一人は親に知らせてしかり、一人は「家庭の事情」があるからと、しかりもしない。親にも知らせない。甘やかされて学級をかき乱す子を、他の親が見張りに行き、なだめる日が続きました。どの子も同じにあつかってくれない。こどもの「もういや、あんなところ、いきたくない」、この言葉で転校を決心しました。転校する為夫婦別居(転居しないと認めない為)に成りましたが、教育委員会から「子どもさんが元の住所の親の所に泊まったら、山田小に戻ってもらいます」といわれました。脅されたと思っています。転居直後から、子どもに笑顔が戻りました。中学校も「かいほう」(同和特設時間)のない学校にいきたいといっています。どの子も同じに見てくれる、「かいほう」のない普通の学校に行きたい。「これが子どもの願いです」

夜中に子どもがおびえて叫ぶ
 別の親は「悩みながら子どもを山田小小学校へ通わせた、この二、三年はなんだったのか、と言うのが今の正直な気持ちです。「転校」したことで、当初、心配したことは何もなく、子ども達は落ち着きを取り戻し、授業の遅れを取り戻そうと一生懸命になっています。コントロールをされたかのように一定方向にばかり向いている教育が行われ、子どもが区別されてとりあつかわれる親としては「何もしなくていい、何も学校でいわなくていい」としか教えようがない。それが自分を守る方法だからです。「夜中に子どもがおびえて叫ぶ、ケガする毎日から、緊急避難措置として転校出来たことを感謝しています」、と語る。
 子どもと親の葛藤、学校と教育行政への不信、やるせのない憤りがつたわってくる。
                         目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 




 

 

 

論文A

教育現場ではどんな「教育」がなされていたのか
 土佐山田町では、これまでも保護者や教職員の間から「解放教育」に対する批判が出ていた。同町は199395年度の三年間、文部省・高知県教育委員会の同和教育推進地域指定をうけ、町の重要施策として「推進協議会」がつくられ、徹底した「解放教育」が強められた。951026日に、全国から教育関係者や行政・一般の参加で発表会が開かれ、「同和教育研究集録」が発布された。
 これまで闇に閉ざされていた同町の教育現場の実態をリアルに町民に知らせる契機になった、この「研究集録」をもとに、同町の「解放教育」の実態を明らかにしてみよう。
 同町88年に、中学校の「連続差別発言事件」を大々的に問題にし、同和主任会を開いての小学校の一年生から中学校の三年生9,年間の同和教育年間指導計画(カリキュラム)を設定し、「同和教育副読本」(専門教科書)を町内の全児童・生徒分、特別に作っている。

「解放戦士」づくりの学習・指導
 「核心授業」として位置づけられる四年生の最初には、副読本「だから わるい」(オセーエフ作、西郷竹彦訳)をつかっている。いぬと子猫のけんかを見ている男の子達が「どうして はずかしいの? ぼくたち、なにもしてないよ!」というのを、「だから わるいのですよ!」と女の人がしかりつける内容だが、この部分の「学習のねらい」を、同和教育年間指導計画では、動物のけんかを部落問題にすり替え、「知っていて何もしないのは、差別を許し、差別をしたことになると理解する」と恣意的に誘導していく。
 

二学期は、「おかあさんのメモ」「みんなの足」を使って、「差別に負けない、差別を許さない態度を養う」「学級の中で差別を受け、阻害されてきた子が、自らの願いや痛みを言い切れる力を養ってそれを自分たちの問題として受け止め、共に支え合うことができる」として、クラスで部落民であることを宣言する「立場宣言」に結びつけていく。三学期には、「わたしのいもうと」をつかって、「傍観することも差別であることを知る」として「解放」学習へとかりたてる。
 

五年生の目標は、「部落差別のきびしさを知り、差別の恐ろしさと人権の大切さを知る」こととして「解放子ども会」を教え、交流させる。六年生の目標は「部落の歴史や解放への運動を学ぶなかで、部落差別と自分との関わりを知り、差別をしない、させない、許さない態度をやしなう」こととして、いっそうエスカレートさせ、三学期には「今日の解放運動」として「部落問題の解決が国の責任であり、国民的課題であることを理解し、解放への意欲を高める」と行政責任論を展開する。「フィールドワーク」では、「被差別部落の人々の思いや願いを知り、今なお残っている課題を見付ける」そして「解放運動」そのものをもちこみ、解放運動の担い手づくり、「解放の戦士」づくりに狂奔している。

「かいほう」授業が1日6時間の学校も
 このような偏向教育が、山田小学校では、文部省指定の3年間、徹底して強められた。95年の4年生の連絡帳で調べると、9月2日から10月25日までの約40日間の登校日の中で、「かいほう」の授業時間が27時間もやられている。ひどい日には、一日3時間も取っておりクラスによっては一日6時間取った日もある。


 この当時の状況を有る保護者は語る。同和地区にある塾の授業のなかで、4年生の子どもが、4文字熟語に「部落差別」をあげた。ところが、それにたいして「この地域では遊ばれんね」と言った子がいると問題にし、学校は「差別発言事件」とした。そして、この保護者の子を「犯人」に仕立てる為、学校に残して、4年生のクラス担任の3人の教師が執拗に問いただしたという。子どもが「そんなことはしらない いってない」と泣きながら言うと、その日は帰したものの、翌日、塾に通っている子ども全員を集めてといただす。全員が「そんなこと言ってない」と答えると、こんどは「あんたがやってないとすると、しらせてくれた友達がウソをついたことになるね」といって、何がなんでも「犯人」にして「差別発言事件」をでっちあげ、研究発表にむけ、よりいっそう「解放教育」に拍車をかける口実に利用しようとしたのである。子どもは屈しなかった。
 この一つの出来事からも、学校の異常な雰囲気が読み取れる。当時の先生は、「これは氷山の一角、異常な対応が日常的にされた」とつらかった胸の内をかたっている。
                         目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論文B

「解同」の学校支配はどうすすめられたのか
 では、「解同」の学校支配はどのようにすすめられてきたのか、具体的に検証しよう。大きく分けて三つの面から見る必要がある。第一に「解放教育」推進勢力にとって「差別される子」としての対象がいない「解放教育」は成り立たない。その再生産システム のど台をなすのが「解放子ども会」の組織化と利用である。第二に、「土佐山田町同和教育研究協議会」(町同教)の組織化と利用である。第三に同和主任の問題である。第一の「解放子ども会」は、1958年四国で最初につくられた。「解同」の子ども組織として、その方針に「差別に負けず、差別を許さず、差別に打ち勝つ強靱な意志を持ち、部落解放の意欲に燃える民主的な子どもを育成する」と明記する。では、この「解放子ども会」の組織化の手口はどのようなものか。


 同和地区には公立山田保育所がある。この保育所に「解同」と深く関係している園長・主任保母や職員が集中的に配置され、保護者会は「解同」によって私物化されており、一体となった拠点体制が作られている。そして、子どもの特定は、保育料減免申請をもとにしており、「対象児」の保護者への圧力を含む執拗な勧誘・推進がされる。


 そして、「解放子ども会」の指導体制として、教育(学校)・行政・運動の関係者で構成する「三者会」と、学校のPTA規約にもない「地区PTA」が組織され、小・中学校と「解同」の子ども会組織が渾然一体となった運営が当たり前のように進められてきている。そのため、このやり方に批判的な同和地区の保護者はものがいえず、一言でも異論をとなえれば、個人攻撃される。


 山田小学校へ山田保育所から名簿が届く。そして、入学式の日「解放子ども会のみなさんは、集まって下さい」と放送で呼び出され、特別対応が始まる。毎週火曜日は、教科学習会として算数・国語を中心に学級担任で輪番制がしかれ、学校の職員会で振り分けられて「解放子ども会」に派遣される。その手当は謝礼金として教師の個人口座に振り込まれている。昨年の実績でも、町の決める対象児童56人中37人、派遣教師数は、一日あたり3人で、127万円支払われていた。


 第二に、「町同教」はあくまで任意の研究団体でありながら、教育委員会の指導主事が事務局にすわり、あたかも教育委員会の「出先機関」かの装いをこらし、聖域化してきた。組織構図でも下部機関として「学校教育部会」がつくられ、学校が「町同教」の下部組織化され、職員の同和問題についての意見が出しにくい雰囲気を利用して、なかば強制的に全員加盟させられてきた。


 このようななかで、副読本と年間指導計画を「町同教」で確認し、反対を許さない一方的な押しつけがすすめられてきた。


 第三は、同和主任の問題である。同和(解同)教育が学校現場はもとより、教育行政全般に肥大化した為、この同和主任の言動が幅を効かせ、学校内外の正常な運営に弊害をもたらしている。山田小学校でも、校長より同和主任の発言が優先され、すべての基準が同和偏重となっている。又、フリーで動ける時間が多くなり、「解同」と日常的に接触しており、事実上、「解同」の「運動推進構成員」になっている。学校への解放教育押し付けを克服するうえで、この同和主任、同和加配の在り方の改善は重要なポイントである。


悪政すすめる「道具」に
 では、なぜこのように「解放教育」を強め、「解同」の横暴を許してきたのか。
 それは、土佐山田町の保守町長が、支配体制を維持する為に「解同」の暴力性を利用し、町民の町政批判を押さえつける「道具」として泳がしてきたからである。とくに、現町長と「解同」議員の関係は深く、町議選では「解同」議員の出陣式にわざわざ挨拶に行くなど特別の関係にあり、この問題の根深さを物語っている。


 又、同和教育に教職員は、出世頭になっている。たとえば、群下でも最も大きい町内の中学校の校長は、13年間同校に在籍し、途中4年間の県教育委員会へ出向して、忠実な「解放教育」推進委員となり、40歳代で教頭、校長と異例の出世をしている。現教頭も日教組分裂当時の群教組組合長で、組合の大会決定を無視して、組合丸ごと「連合」日教組に行こうとした中心人物であるが、8年間同校に在籍して「解放教育」を推進して40歳代前半で教頭になっている。子ども達を犠牲にする「解放教育」が出世の道とは、いう言葉もない。


 「解放教育」推進勢力にとって、子どもと教育は利権と政治利用の対象でしかなく、この勢力の一掃なしに民主教育は確立できのない。

                         目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論文C

「解放教育」克服へ向け民主勢力はどうたたかった
 

このようななかで、日本共産党と民主勢力がどうねばり強いたたかいをすすめてきたかについてふれたい。93年に「人権共闘会議」を再開し、「解同」の策動に対応する相手待ち型から「解同」の教育支配、不公正な同和行政を具体的に明らかにし、それを克服することが民主主義を前進させ、町の発展に結びつくことを確認して積極的なとりくみをすすめてきた。
 

県内の講師による10人、20人の小規模学習会。地域ゼミナール館を拠点にした「だべり会」などあらゆる形態で交流を深めてきた。このとりくみのなかで「部落問題」「同和教育」「人権」「子育ての悩み」「政治」「遊び・趣味」など多面的に広がり、これまであまり結びつきのなかった新しいネットワークが生まれた。94年には、全解連の村崎勝利副委員長、丹波正史書記局長を迎えての学習会、「考えてみませんか、同和教育のあり方を」のビラ配布、猿回しを呼んでの「サルまわしと部落問題」学習会など、全国的な情勢もわかり、展望がもてる明るい学習会を開いてきた。

学習会を契機に保護者らが変化
 学習会に、山田小学校の保護者や教職員が参加したことから、実態を具体的につかむことが出来、「解放教育」克服への契機となった。
 

保護者の集会、学校への要請行動、「立場宣言」を強要された保護者の断固とした対応や、全教組会員が中心となって職員会で「解放教育」を批判しだしたため、「解放教育」推進勢力に動揺が生まれはじめた。
 

当時の状況を文部省指定の「研究集録」は、94年度の取り組みの項で「年末から年度末にかけて同和地区内のある保護者から、保育所の保護者会や小学校のPTAの会合で、これまでの同和教育を否定するような提起がなされ、就学前・学校・同和地区内の関係者に頭の痛い問題を投げかけた」と率直に動揺ぶりを書いている。また、「時間を同じくして、部落差別は解消しつつあるので同和教育などと言う特別な教育は必要ないというグループの集まりが、町内各所で開かれたり、そういう団体の支部(全解連)が出来たりして、どうなることかと心配したが、これまで真剣に取り組んできた者たちにとってはよい刺激になり」と事態の推移にたいそう関心をはらい、神経をとがらせているものの、未だ余裕も伺える。


「暴力」指導が学校の荒れ生む
 しかし、文部省全国発表の年の95年3月末、「解放教育」推進勢力は「万全」の構えで、保護者への個人攻撃、全教組会員の異動と攻撃を、県教育委員会と一体となってすすめた。95年3月末の異動では、異動希望も出していない全教組会員を全員異動させ、かわりに異動してきたのが、6年間に4校も異動、赴任先で問題を起こしては、出世してきた「解同」幹部の教頭であった。
 

その教頭について保護者の一人は、「申し訳ない言い方ではありますが、これほどの先生に出会いたいと思っても出会うことの出来ない、想像を絶する管理職であった」「教頭としての資質を問えば問うほど、全く違う方向に問題をすり替える」と語り、集団転校に拍車をかけたと批判している。
 

文部省指定発表に向けて異常な「解放教育」がすすめられ、特別扱いの「えこひいき」の偏向教育が、子ども達の心をズタズタにし、学校、学級が荒れだした。唯一、子ども達の支えであった教職員を異動させ、最悪の管理職を配置し、騒がしい子どもたちを空き教室に連れて行っては「暴力」をふるうという悪循環をくり返す結果を生んだ。
 

体罰を受けた子どもの保護者が学校を追及すると、町教育長と校長が謝りにいくが、当事者である教頭はいかない。およそ学校とはいえない機能喪失状態である。これが「解放教育」の行き着いた結果であった。

                         目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論文D

「子どもと教育を守る大集会」が流れを変えた
 県の教育情報110番には、17件もの切実な訴えが届いた。
 土佐山田人権共闘は、県人権共闘の援助をうけ、「特別な教育ではなく、当たり前の教育を」の町民へのアピールビラを全戸配布し、今年5月11日に、教育評論家の三上満さんをよんで「土佐山田町子どもと教育を守る大集会」を山田小学校体育館で開き、参加者で会場いっぱいにして成功させた。「一つ一つの言葉に納得しました。不完全な人間が当たり前、前向きに生きている時こそ幸福である。一部の団体に従属した教育はゆがみを生じさせています。子ども達に平等な教育(差別もえこひいきもない)を望みます。自分・人間・明日を信頼出来る教育を、町の教育関係者は目を覚ましてもらいたい。高知工科大学ができても、基礎の教育が崩れれば町の将来はない」「一番良かったことは、講演を聴きに来た人が、一つの心で終われたことだと私は思います。これからがんばります」など保護者らの感想始め感想文95通、募金24万6千円がよせられた。笑いと涙、確信と新たな決意の場となる集会であった。この集会の成功は、町の雰囲気を変え、大きな前進をきりひらく契機となり、「子どもを守り、教育をよくする土佐山田連絡会」(省略「よくする会」)が結成され、「同和教育の抜本的見直しを求める」請願書を県議会と町議会に提出するとりくみがすすめられている。また、保護者や「よくする会」は、県人権共闘の援助も受け、県副知事・教育長交渉や町長・教育長、委員会交渉を続けてきた。

党議員の追及に町長も問題点認める
 この結果、7月2日の県議会では、日本共産党の県議が、集団転校に至った原因について「保護者の側に原因があるのか」とただしたことにたいして、教育委員長は「学校の対応や同和教育のあり方について、ここに原因があったがため」と答弁し、県教育委員会側が初めて同和教育に言及した。町長も、「同和教育は『解同』ラインが強いことは事実だ。そっくりそのまま残っている」と認めた。「立場宣言」(部落民宣言)やフィールドワークについては、「強要していないと聞く。堂々と認めることによって自覚を高めると聞いている」としながらも、「しかし、問題があると言うことはよく聞くから、同和教育のあり方について厳しく反省し、見直す必要がある。私が(教育行政に)介入するということではなく、しかるべく対応する。同和行政や同和教育は転機であり、世論に耳を傾けるべきだ」とこの間の事態への懸念とともに「同和教育」のあり方に初めて言及した。土佐山田人権共闘と保護者は、全解連の「中央行動」にも参加し、直接文部省と交渉するとともに、山原健次郎衆議院議員をつうじて全教・県教組を中心とした文部省交渉にも参加している。

                         目次に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

論文最終

町民とともにひずみ正してきた党議員団
 土佐山田町党組織は、94年の町議会選挙で過去最高の得票を獲得し、3議席から4議席(定員21)に躍進した。この躍進を契機に、「同和行政」「同和教育」に対して全面的な攻勢をかけた。毎議会、党議員団で検討し、連帯した質問と事前交渉で問題点を具体的に明らかにした。また、「解同」議員(支部長)の言動を徹底して問題にした。
 

当初、「解同」議員は、議会のたびに一般質問の中で反共攻撃をおこない、議場内はもとより庁舎内でも好き勝手な言動をはいていた。党議員団は、発言のたびに、発言取消動議などで即座に対応し、議会運営委員会を開かせ、保守系議員を含め他の議員全員の協力で、3回の「懲罰動議」を成立させ「戒告処分」にした。以後、きわめておとなしくなり、朝の挨拶以外発言しなくなった。
 

町民に知らせる活動も重視した。学習や集会には積極的に参加し、資料などの提供ととものに現状を報告した。また、町広報の活用と政治新聞「民主とさやまだ」を発行し、「同和「(解放)」教育」「同和行政」のゆがみをただした。このたたかいがさらに町民の共感をひろげている。一般質問を庁舎内の放送で聞いていた出入りの業者の人が、民商の会員に「共産党議員のいうとおり、がんばって欲しい」と激励を伝えてくれた。また、夏祭りで原水爆禁止世界大会の募金を集めていると「山田小の保護者です。同和問題でのたたかいでは期待していますので、がんばって下さい」と募金に協力してくれた。

町民の希望をになって
 部落問題についての理論的闘争も特別に重視し、その根本的な問題として、「部落」を特定し、個人を特定する根拠の問題である。この追及には町執行部も、答弁不能になった。属地主義でなく、属地,属人主義(地域と個人を特定する)の矛盾が理論的にぶつかった。1965年の同和対策審議会答申は、「同和地区の住民は異人種でも異民族でもなく、疑いもなく日本民族、日本国民である」と明記しており、男女差別や民族差別のように、互いの違いを認めあうことによって、理解が深まり解決に結びつく問題と、同一民族、日本国民としての部落問題の解決は、その根本から違う。同和対策事業の弊害として、属地・属人ですすめられれば、個人を特定せざるを得なく、特定する根拠を示さなければならない。「解放教育」の矛盾もこの点から追及した。
「解放教育」推進者は、「部落の子どもは、いずれ厳しい差別の現実に直面する。その厳しい現実に立ち向かう力を今から作り上げる必要がいる」と熱弁する。それでは「部落の子」とはだれのことか、誰が特定するのか、「部落」とはどこのことか、自問自答になる。同和対策地域が存在しただけではないか。
 

「解同」の「部落民」以外はすべて差別者という「差別する人」「差別される人」の二極化論は、社会発展と歴史のなかで色あせている。
 

86年の地対協意見具申「今後における地域改善計画について」では、「同和地区の実態が大幅に改善され、実態の劣悪生が差別的な偏見を生むと言う一般的な状況がなくなってきているにもかかわらず、差別意識の解消が必ずしも十分進んできていない背景として」「今日、差別意識の解消を阻害し、また、新たな差別意識を生む様々な新しい要因が存在している」「近代民主主義社会においては、因習的による新たな意識は、その新しい要因が克服されなければ解消される事は困難である」とし、その新しい要因として、「@行政の主体性の欠如A同和関係者の自立、向上の精神の涵養の視点の軽視Bえせ同和行為の横行C同和問題についての自由な意見の潜在化傾向」をあげ、とくに「今日的課題を達成していく為には、行政機関の姿勢や民間運動団体のあり方がきわめて重要である」「行政機関は、今日、改めて民間運動団体との関係について見直すことが必要である」と明記している。この「意見具申」の指摘は、問題の本質を突くものであり、大いに活かしてきた。

教育基本法の精神を守って
 

また、65年の同和対策審議会答申の「教育問題に関する対策」の項では、「同和教育をすすめるに当たっては、教育の中立性が守られるべき事は言うまでもない。同和教育と政治運動や社会運動の関係を明確に区別し、それらの運動そのものも教育であると言ったような考え方はさけられなければならない」と明確に、学校教育に「部落問題解決」という社会の運動の問題を持ち込むことを批判している。
 

同和教育を利用した「解同」の不当な教育、学校支配を許せば、学校は「強権」「洗脳」の場所と化し、「教育基本法」の精神を破壊される。当たり前の教育、学校を取り戻す為にも、党議員団は、「太陽にまさる薬なし」を合い言葉に、この問題を徹底して公開の場て明らかにすることに努力した。党議員団の提案で、保護者・教育関係者・地域の代表などでオープンに教育について語る「土佐山田町の教育を考える会」を発足させた。しかし、「解放教育」推進勢力は傍聴者の多さに驚き、町教委に圧力をかけ、2回目からは非公開にした。
 

又、公民館主催の行事として、各団体代表による公開の「同和問題シンポジウム」を提案して準備を進めている。
 

8月21、22日の2日間、中央人権共闘の調査団の激励を受けた。その模様は、9月2日付け「しんぶん赤旗」文化欄に、土井大助代表委員の「実れ勇気あるたたかい」としてのった。ある保護者は、「三年前には、こんな日はこないと思っていた。スーパーマーケットで話すときも、相手を見て話さないといけなかった。それが今は、何処でも大きな声で話している」と話してくれた。保護者の実感が伝わる。勇気あるたたかいが一歩一歩、前進的に実りつつある。
 
                         目次に戻る

 

笹岡 優
土佐山田人権共闘会議議長・土佐山田町会議員
現、衆議院四国ブロック比例候補

  
        
HOME